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広島の医用工学見学

2012年3月11日

岡山市立病院が岡山市中心部南より、山陽本線・伯備線で岡山駅より西に一番目の駅の西部拠点副都心として整備がの進めらてきた北長瀬駅の南口に隣接して「岡山市総合医療センター」として、岡山大学の全面支援のもとに救急医療センター機能も持たせ2~3年後のオープンする計画が動き始めました。設計図面はほぼ出来上がり基礎工事より近々着工するとしています。病院の求められているいることは多岐にわたりますが、幼児、高齢者の急容態変化、交通事故、災害などに対応するため診断機器の性能が求められています。当然、それに対応するスタッフの瞬間的判断と技量が求められます。

3月9日(金)に岡山医用工学研究会主催の広島大学医用工学イノベーション拠点と三菱重工業広島製作所を見学会に参加しました。岡山駅西口を7時40分大型バスで出発。10時に広島大学霞キャンバス(医学部、薬学部、病院)に到着。広仁会館で「ひろしま医工連携・先進医療イノベーション拠点」概要説明を受けました。大学主導で進めると研究主体なり成果が得にくいため企業主体として大学がそれを支援する形態を取っている。具体的には広島の自動車産業であるマツダの研究開発について医療分野の支援を行っている。先端技術では細胞治療に特化して再生医療プロゼクトを展開しているとの説明があった。 まず医用工学ではロボット工作マシンとナノ工作マシンを見せていただいたが、まだ具体的テーマが決まっていないようだった。岡山のミクロものづくりが先進しているようです。 細胞治療分野ではマルチフォトン顕微鏡(2種類の光線を当て皮膚表面細胞を観察できる)により治療法開発に役立てようとしている。 最も身近に興味あるのは、自動車分野で自動車シュミレーターと呼ばれる巨大スクリーンの前に置いた乗用車運転し時に運転者の脳波血流を計測するなど医療研究者が参画して成果が得られそうなモデル事例です。また全身にセンサーを配置したスーツを着て動きを研究できるようになってなっています。音響方面の研究では、運転音検出装置や、ハイパーソイニックサウンドと云い人が認知しない20kHz以上の音を居眠り防止の使えないかなど多岐に渡れます。 臨床研究棟では、手術シュミレーターロボットにより画面を見ながらメスを操作することを体験させていただきまさいた。微細な手術するためには相当訓練が必要なことがよくわかりました。手術中の状況を巨大画面に写し意見の交換、遠隔医療、教育実習に使えるよな設備がありました。 昼食は中心部のANAクラウンプラザホテル広島に移動し、ランチバイキングを手当たり選んで食べたのち、ステーキ丼を美味しそうに食べてるのをを見て更に欲張って食べてしましました。 午後は南部の海岸部の広島西空港の近くにある三菱重工株式会社の機械事業部を見学しました。さすが世界的企業、大和を生んだ技術の凄さと巨大さは圧巻でした。それについては後日。 写真 自動車シュミレーター     手術シュミュレーターロボット     昼食バイキング

午前中広島大学の医工学連携施設を見学した後、南の海岸の観音地区に移動し、三菱重工㈱機械事業部の見学に訪問しました。本館の重厚な会議室に案内されビデオにより広島製作所の概要を見せていただきました。昭和19年にこの地で事業を始め、製鉄機械、コンプレサー・タービン、タイヤ製造機、化学機械、搬送重機・システム、航空宇宙部品、医療機器の製造を行い、2000億の製造額に達するとのことです。世界中と取引し納入しています。観音、江波工場は造船所の跡地で、隣の広島西空港が小っちゃく見えるほど68万m2・69万m2と広大でバスで移動案内いただきました。  まづ今回の目的の放射線治療装置の組み立て検査棟を外より見、組み立て中を見学しました。2002年に薬事申請、2009年にGMP認可を受けている。10トンに及ぶ5メートルのリングが多方向に回転して画像診断しながらガン患部に放射線を照射できる装置を仮組立していました。薬物治療に比較して全く痛みがなく、治癒も早いため可なりの割合で治療法として導入率が増えています。陽子放射治療器を兵庫たつの市のOスプリング エイトの近くの粒子線医療センター見させていただいたこともありますが建物が必要なのに対して、放射線発生器が装置内に組み込めるのを特徴としているようです。軽装機器配線は組み立て工場で取りつくテスト後、分解して納入する段取りです。 次の圧巻は製鉄機械で圧延鋼板用機械は世界の大部分のセアーを握っています。20トン電気炉により鋳造した鉄の塊を削って部品を作ってゆきます。工作機械も当然巨大なもので自社製造です。 コンプレーサー、タービンは化学プラントにはなくてはならないもので、高速で回すため、羽根を削り出すのはもちろん偏心がが無くバランスを取るのにノウハウがありそうです。地球温暖化防止のため炭酸ガス地中埋め込みは急務ですが、それ用の圧縮機の製造も行っている。タイヤ製造器は巨大運搬機用に特注タイヤ製造用です。 益々、注文機械が大型化するため新規巨大な組み立て工場が稼働していた。  巨大戦艦「大和」などの技術の蓄積によるもので頼もしい限りです。 岡山市総合医療センターが数年後には北長瀬に出来ることが決まったが、世界的医療センターを目指すにしても地域に根差した高度の技術を発揮蓄積してゆくため平安時代からの地域の名前「市久総合医療センター」と名付けてほしいと希望するところであります。 写真は撮影禁止でした。パンフレットよりです。

富山城図

2011年1月10日

富山城図

 「鹿田荘」シンポジュムを聞きに来られた松田城主の子孫松田さんが、四国富山家に保存されていた「富山城絵図」の原本大のコピーを持ってきて下いました。A3で4枚でした。書き込まれた城郭の面積、池、その他附設の文字もよく読めました。江戸時代中期に書かれたものだそうですが、現在紛失して行方不明だそうです。

矢坂山の植生

2010年12月30日

矢坂山の植生

 矢坂山の植生を調べられている方からメールがありました。矢坂山の600種以上の植生を調べられ、どのようにして調査するのかさえ興味あります。下記にメールの内容を転載しますので、植物につい詳しい方はご連絡ください。「矢坂山を語る会」で散策する機会や勉強会を開きたいと思います。

 一昨年から矢坂山(と京山)の植物調査を行っている者です。矢坂山の前は吉備中山で調査と採集を行い、その成果は今年「倉敷市立自然史博物館研究報告」に公表いたしました。これに続き、矢坂山の植物についてもまとめてみたいと思っております。矢坂山については、吉備中山に比べて資料も少なく困っていたのですが、このブログで「矢坂山を語る会」が発足したとの記事を拝見し、ご連絡させていただいた次第です。現在、採集した植物は600種ほどですが、あと1年を採集と調査にあて、その後は原稿の作成を行う予定です。

 矢坂山は水はけの良い花崗岩の山ですので、堆積岩でできた吉備中山とは植物相が大きく異なります。矢坂山では現在でもアカマツ林が多く残るのに対し、吉備中山ではほとんどがアベマキ・コナラ林になっているのがその好例です。岡山県版レッドデータブックに掲載された植物は、吉備中山では19種見つかりましたが、矢坂山では5種です。そういった点も比較してみたいと思っています。 

 矢坂山を代表する植物といえば、コバノミツバツツジだと思います。「アカマツ・コバノミツバツツジ群集」という用語があるくらいで、西日本のアカマツ林を特色づける植物のひとつです。

 

「植生調査情報提供ホームページ」というところに、岡山県各地の植生図が載っています。

国土地理院の1/25,000地形図の区分に従っているので、矢坂山は岡山南部と岡山北部にまたがっています。

http://vegetation.jp/miru/block/33.html

これを見ますと、たとえば吉備中山とは植生が全く違うことが一目瞭然で、

その要因はやはり地質の違いにあると考えられそうです。

芋煮会H22

2010年11月19日

芋煮会at白髭宮

 11月14日(日)に昨年につづき北長瀬本町の白髭宮で芋煮会を開きました。10時に集合し準備し12時に食べる予定でしたが、30分前にはほとんど集まり芋の皮むき、釜戸のの用意が始まり、11時ごろには芋煮を食べながら酒盛りが宴に入りました。大野小学校おふれあいの会、前の日の「矢坂山を語る会の玉松会を迎えて」、北長瀬駅北地区の区画整理など話題が尽きることはありませんでした。芋煮の味の素晴らしさにセフに乾杯しました。

 

 

 

矢坂山を語る会「玉松会を迎えて」

2010年11月17日

11月13日(土)10時に矢坂東町の北向八幡宮に玉松会の幹事6名を市久会のメンバー8名が迎えました。早速、入口にある矢坂東町公会堂に移動し、全員の紹介がありました。香川県詫間から玉松会会長 松田充弘氏はじめ、富山氏、神奈川の松田氏、御津の大村氏が来てくださいました。1010分に矢坂東町公会堂に移動し 下記のような意見交換会をしました。 

 1.挨拶 相互メンバー紹介 

 2.富山城の話 スライド

 3.富山氏と富山城

 4.松田氏と富山城・玉松城 玉松会会長が多くの資料にもとづき説明くださいました。特に、詫間の富山家に保存されていた江戸初期に作成された富山城絵図の説明があり貴重な情報でした。、 

 5.「矢坂山を語る会」の紹介

 6今後の計画

 7意見交換

 1130分より矢坂本町の矢坂山登山口に車で移動しました。鯉ヶ池経由で富山城跡に20分ほどでつき、二の丸跡で早速昼食を食べました。.富山城跡を見た後、尾根つたいに魚見山で岡山市街地の眺望を楽しみたかったのですがあいにくの黄砂で霞んでいました。3時までに太然寺に行く約束をしていたため大急ぎでもとの道を下山しました。

14時45分ごろ太然寺につき和尚にお寺と富山城の話を聞き、コーヒーをご馳走になりました。そして、隣の大安寺を訪れ御津の大村家の日典聖人について先代の書き物について聞き後で送っていただきました。松山長昌寺の流れ地蔵を見た後、野殿城跡を訪れました。

16時過ぎに北向八幡宮もどってきて富山宮司さんを交え意見交換し、17時頃解散しました。

 
 

 

芋煮会at白髭宮

2010年10月18日

芋煮会at白髭宮

涼しくなってきました。今年も、皆そろって、美味しい芋煮を作り食べましょう。

場所 : 白髭宮(北長瀬本町)

日時 : 平成22年11月14日(日) 10時より

会費 : 約1,000円(飲む人 +500円)

定員 : 30名

10月30日(土)「ふれあいの会」9:30~大野小学校市久会出展

11月13日(土)「矢坂山を語る会」10:00北向八幡宮集合 

玉松会5名と富山城跡登山など17時ごろ北向八幡宮で散会

会費 2,000円

歴史探訪2

2010年10月8日

歴史探訪2
 10月8日(金)に郷土史研究家の間野行治氏の案内で、稲荷奥の院、阿曽の岩屋寺、阿曽常夜灯、阿宗神社、鬼の城、岩屋など市久会メンバー7人が参加して訪れました。
 
 最上稲荷奥の院 一乗寺 備前高松の最上稲荷のさらに奥の龍王山の山頂にあり、巨岩と泉がありました。巨岩に刻み込まれた「何妙法蓮華経」も圧巻ですが、286稲荷の奥の稲荷山の山頂にある井戸に湧き出す泉も不思議で信仰の対象です。大奥さんに抹茶をいただき、住職さんに家内安全を祈っていただきました。
 阿曽小学校の南の田んぼの奥にある岩屋寺は、山門は傷み、本殿はなくなっていましたが、宝物庫には岩屋などにあった千手観音など貴重なものが収められているそうです。無住で荒れ放題なのが残念です。
 阿曽村内にある鋳物製の常夜灯。明治頃まで盛んに鉄器が作られていた。吉備津彦神社の鬼の釜も阿曽で作られてと言われている。
 

 足守市街地の南の宮原に阿宗神社があり右側には宮原神社が合祀された珍しい神社です。

 鬼の城に着く手前に大きな鋳物の釜があり、山岳信仰の行者が入る風呂とかアウナであったと伝えられています。

 鬼の城の入り口にはビジターセンターができていて概要が良くわかるように展示されています。4~7世紀に築城された神籠石系(こうごいしけい)山城とされています。西門、版築工法の城壁、角楼などが復元され発掘調査は続いています。あいにくの雨で吉備平野、備前平野、遠く讃岐まで見える眺望は霧の中でした。

 

矢坂山の城郭

2010年9月9日

矢坂山の城郭

 日本城郭全集に次のように書いてあります。

 永禄十一年(一五六八)、金川城を攻めた宇喜多直家は富山城をも陥れた。城は炎上し、城主横井土佐守は自害して果て、松田氏はここに滅んだ。

 永禄十二年、直家は富山城を修復して、ここに浮田忠家を居城させた。忠家はこの城を拡張し、野殿山城を西の出丸に、大野城を東の出丸とし、魚見山城には見張所を置いた。現在、残っている城地は忠家の時に築かれた城の縄張りである

 城壁があったどうかは書いてありませんが、もし完成していたら壮大なものだったでしょう。

 大野村誌には次のように書いてあります。

 平賀元義筆記に次の如く述べてある。『宇喜多直家岡山在城後播磨備中を手に入れし上は、御野郡富山城を本城とし、西川を二筋に分け、津島の下より分て今の用水上伊福の前より野殿ヘー筋を流し、一筋は津島川の下座主川へ落し、ザブと言う所より西へ今の矢坂の北の川筋より野殿へ流し、富山別所の山を取り入れて、大城とせん事を立てられしなり。たとい一二年籠城するとも、薪炭の憂なく、水懸りも能く究竟の城地なるべし。然る処、直家病死ありければ、秀家の代にも其の事思いけれども、朝鮮の軍の事につき延引なり、程なく家中の騒動ありて其ままさし置かれける所、関ケ原出来て、宇喜多亡びけるなり。大挙を直家思い立たれし事借しき事なり。此の城を築かん事の評議ありしを宇喜多の軍師穴田伊賀介語る』と

 現在の矢坂山を南から写し城を重ねた 

富山城の支城

2010年8月18日

富山城の支城
 神奈川県逗子在住の松田勝徳氏より富山城の支城について手紙がありましたので転載させていただきます。矢坂山山頂の富山城とともに野殿山城・大野山城・魚見山城も矢坂山城郭として松田の時代に築城され浮田忠家により再整備されたのかもしれません。 

 備前松田氏にとって、富山城と吉備津彦神社(備前一の宮)、吉備津神社(備中一の宮)は中世期最も重要な拠点ではなかったかと思われます。

 その一つ富山城は主要街道に面し、戦略上重要なポイントであり、備前と備中の境目としてまた旭川、笹が瀬川から瀬戸内海に通じる軍事上、交通上、交易上の拠点だったと思われます。

 また近くには八幡山城(松田親秀居城)、田益城(横井土佐守居城)、富原城(蜂谷氏居城)、高柳城、辻川城、野殿城など、富山城を囲む支城郡があり、関連する寺院や神社が存在していたと思います。

 室町初期に三備を巡錫した大覚大憎正に帰依する一方で、吉備津神社(備中一の宮)の社務としてまた吉備津彦神社(備前一の宮)へも積極的介入を回り、備前一国を他の在地領主よりも卓越した地位を獲得し、組織化して行ったのでは思います。

 備前松田氏成立のポイントは、まさに富山城を中心とする範囲に集約されると思われます。

 これからも富山城周辺の遺跡、地名、伝承など、一つ一つ積み重ねていく必要があると確信しています。 

「矢坂山開城2100年祭」2012年

2010年8月17日

「矢坂山開城2100年祭」2102年
 日本城郭全集によると次のように書いてあります。
矢坂山に城が築かれたのは、崇神天皇の十年(前八八)、四道将軍の一人としてこの地方に派遣された吉備津彦命が、この山に陣を置いた時に始まると伝えられている。
 信憑性はともかくとして矢坂山が記録上初めて登場します。当時は吉備の穴海の岩井島であり、後の万葉集にも島として歌われています。ただ地元の言い伝えとして矢坂山頂にある巨大な石を評定岩と呼び、吉備津彦命が「うら」を成敗する計画を練ったとされ、矢を射たことより矢坂山と命名したとつたえられています。
 時代が下がって、平安時代中期885年に富山重興氏により矢坂山山頂に富山城が築城され、1342年に松田元喬氏、1568年に宇喜田直家氏により本格的な山城となり、さらにその弟忠家により野殿山城・大野山城・魚見山城も整備され矢坂山全山が巨大な城郭となてゆきました。しかし、1615年に一国一条令により小早川氏により解体されました。
 2012年の再来年は、上記の記述より2100年目にあたり盛大に「矢坂山開城2100年祭」をしてはと考える次第です。
 イベントとしては、4月中旬実施とし①歴代城主サミット ②桜・ツツジの散策 ③四方の登山道より競争登山 ④石切り場での「うらじゃ踊り」「備中太鼓」「コンサート」 ⑤青空市 など考えられます。
 主催・共催者、実施案を募集します。