8月 2015 のアーカイブ

旧賀陽町探訪 ビデオ公開

2015年8月25日

平成27年5月31日(日)に歴史の宝庫の旧賀陽町を探訪した。

午前中は吉備高原の吉川八幡宮、重森三玲記念館、野俣神社など見学し、吉備高原リゾートホテル昼食後、町役場中庭の友琳の庭、ロビーの伊賀家甲冑を見て、大八幡神社、大村寺など参拝した。その他、鬼突岩、川合神社、東豊野神社、岩牟良神社、妹尾太然生家跡など、 盛りだくさんな日程を芝村哲三顧問(歴研、賀陽歴史顕彰保存会)などの案内で堪能した。

坂崎出羽守(浮田詮家)誕生秘話

2015年8月16日

400年前徳川の天下前、大坂城夏の陣において燃え盛る天守閣より徳川家康の孫、豊臣秀頼の妻の千姫を津和野城主の坂崎出羽守が救出した。さらに、その翌年、千姫の嫁入りを阻止しようと江戸屋敷に立てこもりに太平の世の幕開けに衝撃をあたえた。この坂崎出羽守は、岡山の富山城主の浮田詮家である。
その生涯は不明なことが多い。昨年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の高松城水攻めの放映の直前に詮家が重要な役割をしていたことが分かり調査した。
昨年調査の為訪れ教えて頂いた方に感謝してます。
1時間以上の収録から要約しました。
http://youtu.be/1ZNUntoCMNsP1010565 P1010579 P1010742

詮家 三星城③

2015年8月10日

(木下昌輝 宇喜多の捨て嫁 一部省略)
山道を走る父の背中が小さくなる。左右から手を伸ばすように木々は尖った枝を茂らせていた。父の肩が当たるたびにそれは鞭のようにしなり、後方にいるお前たち母子に襲いかかる。
母の腰に巻かれた山吹色の打掛はほどけて落ちそうになっていた。
「あなた、待ってください」
「ここまでくれば、大丈夫だ」
追いついたお前たちに教えるというより、自分に言い聞かせるように父は口にした。
「おおい、阿部っ。阿部善定。儂じゃ。久蔵じゃ。宇喜多久蔵じゃぁ」
父が勢いよく門を叩いた。遠くで烏が爆ぜるようにして飛び立ち、お前たち親子を覆う喚声はさらに密度を濃くしていく。やがて、門がゆっくりと開いた。
「ててさま」と叫んだのは、お前よりも門の向こう側の方が早かったはずだ。
「おお、虎丸。もう歩けるようになったのか」
父は足下に歩み寄った虎丸と呼ばれた幼な児を抱き上げて、頬を擦り付ける。
「ててさま、いたい」
「もう痛いと口にできるか。賢いのぉ。八郎が同じ年のときはろくに話せなんだのに」
事態を飲み込めぬお前と母を取り残して、父は門の中へと入ろうとしている。その父に歩みよるひとりの女人がいた。父の胸の中の虎丸が「ははさま、ははさま」と口にして小さな両手を伸ばした。
「久蔵様、ご無事で何よりでした」
寄り添った女が額を父の肩へとすりつけた。
茶色の頭巾をかぶり、南蛮渡来の羅紗地の胴服を身にまとっていた。
「これは宇喜多久蔵様の奥方様でございますか。拙者、備前は福岡で舟商いをしております阿部善定と申します。あちらの女人は我が娘で、ご存知なかったかもしれませんが久蔵様のご寵愛を頂戴しております」
初老の男が頭を下げた。八郎よ、お前の目線なら男が胴服の下に、鎖帷子をつけていることがわかるだろう。商人と言っても、海賊が横行する備前で財をなしただけはあり、面構えは武士のように逞しいではないか。
「久蔵様のお胸に抱かれる虎丸と申す童が、拙者の孫、いや久蔵様のど次男と説明した方がよろしいでしょうか」
やわらかい口調とは正反対の鋭い眼光で、阿部善定はお前を睨みつける。
「おい、早う婿殿を、館の中へ入れろ」
阿部善定はお前たち母子を睨んだまま、背後に控える家人たちに命令した。
薄く開いた扉の中に虎丸を抱いた父が吸い込まれていく。
「待って」とお前が叫ぶと、父は少しだけ肩を跳ね上げる。だが、お前の顔はついに見ることなく館へと逃げ込んだ。
板切れ一枚がやっと通る程度の隙間になるまで門が狭められた。外に残されたのは、お前たち母子と阿部善定の三人。
「さて、奥方様」と、阿部善定が門のわずかな隙間を埋めるように立ちふさがる。
「婿殿のことは心配ご無用。拙者もかわいい孫を、てて無し子にはしとうありませぬ」
阿部善定か頬を釣り上げて笑った。
「それとは別に思案していることもございます。孫のために婿殿を命懸けでお匿いするのは当然として、奥方様や八郎様にそこまでする価値、いや失礼、義理があるのかと」
握る母の手から温もりが急速に失われる。
「阿部家を守るためにも、奥方様と八郎様は館にいれるな、と申す家人もいます」
また叫び声が聞こえてきた。さっきより、ずっと近くから。
「とはいえ女人と幼子をこの乱世に放つのは死ねと言うに等しい行為。そこでじや、奥方様と八郎様にある条件を呑んでいただければ、門の中へお招きしようと思います」
「何でもします。この子が助かるなら、どんなことでもします」
母が深く頭を下げると、阿部善定は満足そうに頷いた。
「宇喜多久蔵様は堺の親戚から紹介された入り婿として匿うと決めておりまする。その入り婿に正室や嫡男がいるというのも妙なもの。よって、奥方様と八郎様には、今のご身分を捨てていただく。入り婿に雇われた端女とその連れ子ということにして、当家で養わせていただこうかと思っております」
「えっ」と口にして母は顔を上げる。
「無論、敵の目を欺くために普段から下女と同じ待遇で接させていただきまする」
阿部善定の両頬が下品に持ち上がった。
「くれぐれも言葉はお慎みなされよ。阿部家の婿殿に親しく口をきくなどもっての外」
母の体が小刻みに震えている。
「条件が呑めぬなら、どこぞへと好きなところへ落ち延びなされ」
阿部善定は人ひとりが身をよじれば入れる程度に門扉を開けた。また背後で悲鳴があがり、数十羽の烏が空を覆う。母が唇を強く噛んでいる。ギュッと拳を握りしめたので、お前の指がきしみ「痛い」と悲鳴を上げただろう。もはや聞こえるのは喚声だけではない。刀剣が激しく打ち合わされる音も耳に届く。
母の唇から朱が一筋流れ出した。
「わかりました」P1010565 P1010599 P1010611

詮家 三星城 ②

2015年8月7日

宇喜多ン捨て嫁を危機にいた方に電話したところ
詮家ノページを読んでいるとのころ、早速読む。
昨年美作市長にお会いしたとき全くこの本のことは話で出なかった。
さすが直井賞候補作品、人物がよく書かれている。また横着して引用する。
夕方雷がなってどしゃ降りとなった。
血を拭い切れぬ壁がかすかに揺れるほどに。
「難波殿、では、こたび、一番利を得だのは誰なのじゃ」
「命冥加は、勝間山に陣取る総大将の延原景能。そして最も運に恵まれしは、宇喜多直家。安東相馬の計略がなっていれば、美作略取の野望も潰えたはずであろうに」
於葉は、己の体が空っぽになりそうな感覚に陥った。
「宇喜多直家の凶運、恐るべし」
誰が呟いた言葉なのかは、もう於葉はわからなかった。
陣鐘が鳴った。南の空から、鐘の重奏が届く。以前よりも、大きく長く不吉に。後藤家の面々を嘲笑うように。
於葉と後藤勝基が、鐘の音の意味を知るのは数日後のことであった。宇喜多家の重臣・宇喜多”左京亮”詮家がさらに六千の加勢を率いて、勝間山の砦へと向かっていたのだ。
一万近い兵卒があげる炊煙が、美作の空を濃く覆うことになる。それは三星城の東丸や本丸からもくっきりと見えるほどに濃く太かった。
読経と抹香の中で、於葉は思う。あの、陣鐘こそが、後藤家の弔鐘ではなかったかと。
黒い尼装束に身を包み、経を唱える。
於葉は、肉が落ち細くなった己の手を見た。数珠が縛鎖のように手首に絡まっている。三星城落城から三年がたった。太刀を握ることのなくなった手のまめは消え入ってしまい、完全な尼の手になっている。
白い吐息が口から漏れ、目の前の闇に溶ける。その奥には、鈍色に浮かびあがる仏像があった。様々な人の面影が、仏の顔と重なる。
まず浮かんできたのは、自害した長女の初と三女の小梅。次に、次女の楓。
精神を失調していた次女の楓は、二年前に父宇喜多直家によって嫁ぎ先の伊賀久隆が滅ぼされた時に戦火に焼かれたと聞いた。
左頬に火傷のある安東相馬の顔も浮かぶ。仏像の眉と鼻が老臣のものとよく似ていた。あの後、城門にさらされた相馬の頸のおかげで、変心を考える家臣たちの気持ちも引き締まった。
家中一丸となり、一時は宇喜多勢を倉敷村まで退却させるほどの攻勢を見せた。安東相馬があえて逆心の汚名を引き受けての捨て身の一手であった。
後藤勝基の顔が続いて浮かぶ。安東相馬の死から半月後、三星城は落城。妻や女たちを逃がしてから、勝基は大庵寺で命を絶った。享年四十二。
難波利介ら家臣は、皆、延原”弾正”景能へ降った。降人十分ノ一法により所領の九割を没収されたが、命は永らえた。ほとんどの者が帰農したと聞く。
唯一、降参が許されなかったのは、安東家だ。安東相馬捨て身の計略、そして諱を切り刻む蛮行を知った延原は、安東家を攻め滅ぼした。所領の山口村で玉菊とともに療養していた郷左衛門らの安否は不明だ。

写真 三星・倉敷という巨大山城がにらみ合うようにそびえる林野の市街地から湯郷の温泉街を抜け、吉野川沿いにしばらく南下すると下倉敷という地区に出る。倉敷城下からこの付近までが、中世戦国時代に栄えた「倉敷」に当たるらしいが、ちょうど下倉敷で大きく湾曲する吉野川の対岸に、いかにも城郭が築かれていそうなかたちの小山がみえる。ここに、勝間城という山城が築かれていた。katuma1

詮家 三星城

2015年8月7日

昨日岡大病院でポリープ5mmの切除してもらった。前回の検診で2~3ケあるが何時でも良く悪性ではないとのことっだたが、S氏のこともあり、又保険が10万ことを期待したが、日帰りとなり12000円の支払となた。土用干で初めて田の草取りを初めて挑戦して大変な作業と実感した。
本日はサン太ホールで作家木下昌輝氏が「宇喜多の捨て嫁」があり、昨年の直木賞候補作品で、高校生直樹賞を受賞した。
奈良の出身だが直家は昨年の大河ドラマで知って著作資料は備前軍旗のみで苦労した。武道で美作の竹内流をしていたことで興味があった。非常に雄弁で面白かった。
三星城の宇喜多直家の娘「於葉(後藤勝基室」、詮家従兄弟)の話で良くつじつまが合った書となっている。
サインをもらった 本の書き出しを引用すると。
「相手は宇喜多の娘だ。それを嫁に迎えるなど、家中で毒蛇を放し飼いにするようなものぞ」
宇喜多家の居城・石山城(後の岡山城)に、そんな言葉が響いた。
本丸にある庭で、木刀を振っていた於葉の太刀筋が乱れる。心地よく風を切っていた切っ先が、苦しげに呻いたように聞こえた。於葉は動きを止めて、袖で頬を伝う汗を拭う。
声は大きくはなかったが、悪意は過分に含まれていた。まだ冬が明けたばかりの早朝の石山城内は静かで、嫌でも注意を向けずにはおられない。
「宇喜多の娘」と、先程の言葉を於葉は復唱した。体を心地よく湿らせていた汗が、たちまち違う質感を帯び始める。
きっと昨夜到着した東美作を支配する後藤家の嫁取奉行の声だろう。随分と年かさを感じさせる声質である。まさか、その宇喜多の娘が庭で木刀を振っているとは思いもしなかったのか。
”表裏第一の邪将、悪逆無道の悪将”の異名をとり、毛利や織田にも恐れられる宇喜多”和泉守”直家の居城で言い放つなど、命知らずにもほどがある。あるいは、於葉がいると知っての上での発言だったのか。そう考えると、於葉の体が外気と同じ冷たさに侵される。
父・直家によって無惨に仕物(暗殺)された者たちの名前を思い浮かべた。
ーー中山”備中”信正。
―ー”島村”貫阿弥”盛実。
ーー撮所”治部”元常。
ーー金光”与次郎”宗高。
そして、顔を覚える前に自害した母・富の名が、まるで寺鐘のように頭の中で木霊する。
噛むようにして、木刀を握った。
息をひとつ長く吐き、於葉は木刀を構える。かるさんという洋風袴に覆われた足を前後に大
きく開き、両腕を振り上げた。先程の言葉をかき消すように、木刀を打ち下ろす。
頭によぎるのは、父の謀略の犠牲になった姉たちの姿だ。自害した長女の初、気がふれてしまった次女の楓。そして主家に嫁いだ三女の小梅も浮かんでくる。木刀を打ち下ろすたびに彼女たちの姿が現れ、また打ち下ろすたびに消えていく。
「姫様、そろそろ対面のお支度を」
疲れさせるためだけに振っていた木刀の動きを止めたのは、老侍女の声だった。まさか、宇喜多家の娘が、稽古着姿で後藤家の嫁取奉行と会うわけにはいかない。かといって、打掛や小袖で身を飾るのにも違和感があった。己のことを「宇喜多の娘」と罵った悪意とこれから正対することを考えると、甲冑に身を包みたい気分だった。
部屋へ戻る途中、腐臭が鼻をついた。口に布を巻いた侍女たちが、盥に血と膿で汚れた衣服を詰めて運んでいる。歩くたびに異様な空気が流れ、朝の新鮮な涼気が穢されいく。
父である宇喜多直家の夜着を旭川に捨てにいくのだ。
宇喜多直家は、尻はすという奇病にかかっている。体に刻みこまれた占傷が腫物に変じ、そこから血と膿が大量に滲みでる奇病だ。衣類は数刻もすれば乾燥した血膿で固まるほどであった。穢れた血膿を噴き出す様子が汚物を排泄する尻を連想させるために、尻はすという奇妙な名で呼ばれている。
直家の汚れた着衣を旭川へと捨てるのが、石山城の侍女たちの什事である。彼女らの苫労に於葉は同情した。役目を終えると、腐臭が半日近くこびりついてぬぐえないほどだという。
もっとも彼女たちも、政略の道具とされる於葉に同情、いやもしかしたら軽蔑さえしているかもしれない。於葉が、自害した母の富や姉の初、気がふれた楓のようにならない保証はない。
宇喜多家にとって嫁入りとは、殉死に等しい行為なのだ。
於葉は館の窓から、城下を見た。城の横には旭川が流れており、鏡のような水面が空を映している。遠い川岸には枯れ木と破れ鎗でできた流民たちの住み処も小さく見える。

続くIMG_20150804_0001