NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第42回「太閤の野望」が、放映された。
大陸へ派兵するため名護屋城が官兵衛・長政により築かれた。三成は見聞に来て官兵衛の本意を探っていた。
3月宇喜多秀家を総大将として大名が名護屋城に集まったが、小西行長と加藤清正との先陣争いとなった。1日交代で先手を務めることで官兵衛が決着させた。文禄元年(1592)4月渡海が始まった。158,000の兵で破竹の勢いであった。漢城を落したとの報に秀吉が行くと言い出したが、官兵衛は王が生きている限り反撃に出るため陣を立て直すため三成と渡海した。5月には兵は疲れ兵糧も底をつき現地の不案内に戸惑っていた。平城に進んだ軍は苦戦し、漢城を守るべきを兵糧は届かず飢えていた。秀吉は母の死去で大坂に居て官兵衛は会えなかった。
淀殿の懐妊に喜ぶ秀吉は官兵衛に和睦を任した。漢城を捨てたことは秀吉・三成の面目丸つぶれとなり、無断で帰国したとして蟄居を命ぜられた。
☆備前軍記
天正19年(1591)3月、秀吉は朝鮮出兵を企て、秀家を朝鮮派遺軍の総大将に任命した。宇喜多家では、早速新規に50般の大船を建造し、翌年2月にはこれを旭川の河口に浮かべて乗初を行った。そして同月25日には、宇喜多勢の先手の大将浮田安心(忠家)が主力を率いて渡海した。
戸川家記によると
一天正同19年の頃、浮田宰相秀家成人ましまし、器量といゝ公儀人前無申計、天下の御壻にて御威勢盛んなり、家老分ハ代るく大坂へ詰る、圖豊前守宿老にて、勇武人に勝れ、才智有て、能臣と世にも言へり、秀吉公の御前能して、物事に付て言上して勤之、備前の国仕置、大坂屋鋪ともに一人して申付るに、異儀(議)言ものなし、公私ともに順に熟して、誠に秀吉公の全盛といふへし、肥後守ハ豊州婿たるに依て、家臣の内ニは打続て威あり、大坂幕下に奉進勤、其夏夜に、秀吉公秀家の亭に御成あって、涼所の茶屋に御座、小西摂津守御前にあり、明年高麗御進発の軍儀有、茶屋廊下に肥後守鋸る、肥後守罷出此様子承り候へと御誌ニて、禄の上に畏る、小西朝鮮の事を手に取るよふに申上る、御機嫌不斜、御座鋪へ入御の時、茶屋と座敷の間に上檀あり、肥後守負候へと上意にて、奉負て禄に上る、扨々強き負様哉と御褒美なり
文録元年、朝鮮陣に諸勢4月渡海す、関白殿下肥後名護屋御在陣、北国・関東・奥州まての大名・小名、皆名護屋へ詰る、浮田宰相秀家ハ第8番目の渡海にて、先渡の諸勢さへ日次あしくして、未渡り残り居たる処に、小西摂津守行長先登して、武勇を励し、所々の城責落すよし注進あり、秀家家老中を集めて言、行長於朝鮮危事多しと聞、彼深く進んて屍を異城にさらすは殿下の損失なり、我是を捨へきにあらす、渡海して救ワんと思ふとあり、家臣とも可然と言、是殿下朝鮮へ渡る事を悦、思召を以皆々同之五月に出船す(略)
朝鮮の土民を手に掛て一人も不切之、朝鮮人ニ刀を抜て向よ時ハ、手を合声を上ヶて泣喚ふ、日本の女に劣れり、物頭以上の者の可切事にあらす迚、追討抔の時にさへ、自身は不殺となん(略)
隆景惣勢横鑓を入れて、先手を打破り、諸大名一同に掛りける間、大明勢大崩せしなり、肥後守一番に追打す、其中に、馬に離れて歩立ニ成り、重き鎧を着し、歩行不自由成敵あり、国富源右衛門といよもの、此敵異国人のうちに、物頭抔に見へけれハ、追付て討けるに、鎧よきにや鑓剱不立、袖長ふして、刀等打巻で是を取るゆへ、切倒す事不成、源右衛門組之、源右衛門、日本人ニハ究て大男にて力量なれとも、見上る程丈ケ高ぶして力強く、源右衛門を其侭倒し押へける、刎返さんとすれとも、身重く力強けれハ不叶、喉をひねり殺さんとするゆへ、脇さしを抜て下より突ける、すてニ危き所へ家人来りて敵を引返す、重き物具ニて急ニ起る事不成を、頭打取りける、其外の者とも余多打取けり、(カコマミ人也ト言)惣勢追ひ掛ヶ、開城川江追込、数千人打取りたり、川を渡し可追といへとも、隆景下知して長追ひを制セらる、(略)
岡豊前守、8月に於朝鮮死去す、此後ハ、肥後守、軍法ハ申に不及、諸事一人して、秀家家中・国中の仕置をす、同3月、大明勢莫太に来りて所々の城々に陣す、其時、秀家拠龍山、米穀十万石蔵に納置を、天明勢の将の内に査大受といよもの、忍ひを入れ火を付て悉く焼失す、依之、秀家兵糧乏しく成りぬ
同6月ニ、朝鮮為和議、去年加藤清正擒に仕、名護屋へ遣し置たる朝鮮の弐人の王子を、朝鮮に帰し玉ふに依て、従者或ハ商農不残安堵住居す、天明の将李如松も朝鮮の都にあり(略)
(宇喜多家騒動略)
慶長元年に、日本・天明和議にて、天明より冊使・遊撃来朝す、太閤殿下御馳走無限りしか、天明の書簡御意に不叶、御機嫌損し、大明両使和泉の堺へ遣し、本国に帰さる、掲て、朝鮮へ諸勢渡海の事被仰付(略)
打取る首3千余、行長猛勇を奮ひ本城乗り破る、生捕千計(女多しといふ)
同3年、為上意秀家郷帰朝有、於御前、南門の城の一番