10月 2014 のアーカイブ

備前軍記44

2014年10月25日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第42回「太閤の野望」が、放映された。

大陸へ派兵するため名護屋城が官兵衛・長政により築かれた。三成は見聞に来て官兵衛の本意を探っていた。

3月宇喜多秀家を総大将として大名が名護屋城に集まったが、小西行長と加藤清正との先陣争いとなった。1日交代で先手を務めることで官兵衛が決着させた。文禄元年(1592)4月渡海が始まった。158,000の兵で破竹の勢いであった。漢城を落したとの報に秀吉が行くと言い出したが、官兵衛は王が生きている限り反撃に出るため陣を立て直すため三成と渡海した。5月には兵は疲れ兵糧も底をつき現地の不案内に戸惑っていた。平城に進んだ軍は苦戦し、漢城を守るべきを兵糧は届かず飢えていた。秀吉は母の死去で大坂に居て官兵衛は会えなかった。

淀殿の懐妊に喜ぶ秀吉は官兵衛に和睦を任した。漢城を捨てたことは秀吉・三成の面目丸つぶれとなり、無断で帰国したとして蟄居を命ぜられた。

☆備前軍記

天正19年(1591)3月、秀吉は朝鮮出兵を企て、秀家を朝鮮派遺軍の総大将に任命した。宇喜多家では、早速新規に50般の大船を建造し、翌年2月にはこれを旭川の河口に浮かべて乗初を行った。そして同月25日には、宇喜多勢の先手の大将浮田安心(忠家)が主力を率いて渡海した。

戸川家記によると

一天正同19年の頃、浮田宰相秀家成人ましまし、器量といゝ公儀人前無申計、天下の御壻にて御威勢盛んなり、家老分ハ代るく大坂へ詰る、圖豊前守宿老にて、勇武人に勝れ、才智有て、能臣と世にも言へり、秀吉公の御前能して、物事に付て言上して勤之、備前の国仕置、大坂屋鋪ともに一人して申付るに、異儀(議)言ものなし、公私ともに順に熟して、誠に秀吉公の全盛といふへし、肥後守ハ豊州婿たるに依て、家臣の内ニは打続て威あり、大坂幕下に奉進勤、其夏夜に、秀吉公秀家の亭に御成あって、涼所の茶屋に御座、小西摂津守御前にあり、明年高麗御進発の軍儀有、茶屋廊下に肥後守鋸る、肥後守罷出此様子承り候へと御誌ニて、禄の上に畏る、小西朝鮮の事を手に取るよふに申上る、御機嫌不斜、御座鋪へ入御の時、茶屋と座敷の間に上檀あり、肥後守負候へと上意にて、奉負て禄に上る、扨々強き負様哉と御褒美なり

文録元年、朝鮮陣に諸勢4月渡海す、関白殿下肥後名護屋御在陣、北国・関東・奥州まての大名・小名、皆名護屋へ詰る、浮田宰相秀家ハ第8番目の渡海にて、先渡の諸勢さへ日次あしくして、未渡り残り居たる処に、小西摂津守行長先登して、武勇を励し、所々の城責落すよし注進あり、秀家家老中を集めて言、行長於朝鮮危事多しと聞、彼深く進んて屍を異城にさらすは殿下の損失なり、我是を捨へきにあらす、渡海して救ワんと思ふとあり、家臣とも可然と言、是殿下朝鮮へ渡る事を悦、思召を以皆々同之五月に出船す(略)

朝鮮の土民を手に掛て一人も不切之、朝鮮人ニ刀を抜て向よ時ハ、手を合声を上ヶて泣喚ふ、日本の女に劣れり、物頭以上の者の可切事にあらす迚、追討抔の時にさへ、自身は不殺となん(略)

隆景惣勢横鑓を入れて、先手を打破り、諸大名一同に掛りける間、大明勢大崩せしなり、肥後守一番に追打す、其中に、馬に離れて歩立ニ成り、重き鎧を着し、歩行不自由成敵あり、国富源右衛門といよもの、此敵異国人のうちに、物頭抔に見へけれハ、追付て討けるに、鎧よきにや鑓剱不立、袖長ふして、刀等打巻で是を取るゆへ、切倒す事不成、源右衛門組之、源右衛門、日本人ニハ究て大男にて力量なれとも、見上る程丈ケ高ぶして力強く、源右衛門を其侭倒し押へける、刎返さんとすれとも、身重く力強けれハ不叶、喉をひねり殺さんとするゆへ、脇さしを抜て下より突ける、すてニ危き所へ家人来りて敵を引返す、重き物具ニて急ニ起る事不成を、頭打取りける、其外の者とも余多打取けり、(カコマミ人也ト言)惣勢追ひ掛ヶ、開城川江追込、数千人打取りたり、川を渡し可追といへとも、隆景下知して長追ひを制セらる、(略)

岡豊前守、8月に於朝鮮死去す、此後ハ、肥後守、軍法ハ申に不及、諸事一人して、秀家家中・国中の仕置をす、同3月、大明勢莫太に来りて所々の城々に陣す、其時、秀家拠龍山、米穀十万石蔵に納置を、天明勢の将の内に査大受といよもの、忍ひを入れ火を付て悉く焼失す、依之、秀家兵糧乏しく成りぬ

同6月ニ、朝鮮為和議、去年加藤清正擒に仕、名護屋へ遣し置たる朝鮮の弐人の王子を、朝鮮に帰し玉ふに依て、従者或ハ商農不残安堵住居す、天明の将李如松も朝鮮の都にあり(略)

(宇喜多家騒動略)

慶長元年に、日本・天明和議にて、天明より冊使・遊撃来朝す、太閤殿下御馳走無限りしか、天明の書簡御意に不叶、御機嫌損し、大明両使和泉の堺へ遣し、本国に帰さる、掲て、朝鮮へ諸勢渡海の事被仰付(略)

打取る首3千余、行長猛勇を奮ひ本城乗り破る、生捕千計(女多しといふ)

同3年、為上意秀家郷帰朝有、於御前、南門の城の一番

備前軍記43

2014年10月16日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第41回「男たちの覚悟」が、放映された。

官兵衛は徳川家康に会い、関東への国替えを天下の為受けるよう願った。

秀吉の無謀な明国攻めなどを官兵衛は諌めたが秀吉は聞く耳を持たなかった。

朝鮮特使が小西行長の計らいで秀吉に会ったが、明への道案内をすると勘違いしていた。

利休も秀吉を諌め「天下のために豊臣家がある」と云ったが、三成は貶め、遂に利休は切腹となった。鶴松は3歳でこの世を去った。

気落ちした秀吉だが、朝鮮出兵の城を福岡名護屋に築城するよう命じた。

☆「藤陽伝 伊賀氏一族と虎倉城記」より

足利義昭将軍を保護する側に立つ毛利氏から離反する事は、直ちに毛利氏と虎倉城の軍を引き受ける事になるので、先ず虎倉城の勢力を剥ぎ、この城を自分が取りこむ事が我が身を守る最も重要な事となったのです。

そこで、伊賀久隆毒殺を企てるのでした。久隆ほどの者であるから、事前に腹の中は承知した上で直家招待の席に臨み、直家の本心を確かめたものと思われます。

直家は計画通り、事を運んだが、伊賀久隆は危うく逃れ、与三郎も虎倉城へ無事帰城する事が出来たのです。これが、天正6年9月の宇喜多直家毒盛りの企てです。

これによって、宇喜多氏の毛利氏からの離反は確定したので、毛利氏と伊賀氏の宇喜多討伐戦が始まる事になったのです。

一方、直家は、運よく天正6年10月信長に謁見を許され、信長の執奏によって従五位下和泉守に叙せられました。

この直家離反によって、毛利氏東上の軍は大きく阻害され、播州路から撤退し、宇喜多氏攻撃の戦いとなったが、その前哨戦として忍山城攻撃となったのです。

毛利の兵3万とともに忍山城を攻撃して奪い、宇喜多春家の守る金川を攻め50余騎を打ち取りました。

天正7年3月16日、伊賀久隆公が病没し、伊賀与三郎隆家が虎倉城主となり、伊賀守左衛門尉を叙し伊賀伊賀守左衛門尉家久と称しました。

天正12年、高松の役和睦の後、豊臣秀吉は事実上の天下人となりました。

秀吉は、蜂須賀彦右衛門、黒田官兵衛の両名を備作の地に派遣し、城を接収せしめました。

京、芸の境は備中国境となる事に決定。

ついに、虎倉は恨み多き宇喜多の手に渡る事になってしまったのです。

伊賀家久は備中大井荘、山ノ内、吉川を与えられていたが、国境が高梁川となり、それも召し上げられ、天正13年2月僅かばかりの従者を連れて防長へ西下したのです。

宇喜多秀家が備前の領主となり、その主席家老長船越中守が虎倉城主となって3万7千石を領しました。

天正16年正月5日、城主長船越中守を招待した酒宴の最中、突然銃声が鳴り響き、越中はその場で殺され、訳の分らぬ混乱の中、お互いに抜刀して切り結び混乱となり、やがて矢倉より出火焦土となったのです。

伊賀氏四代によって栄々と築きあげられた虎倉城も謎を秘めた劫火によって焼け落ちたのです。

時に天正16年の事です。

虎倉記によると家老石原新太郎が銀山を私欲化し、私腹を肥やしていたことが長船備中守にわかった事が発端だということです。

天正16年正月、虎倉城は三日三晩燃え続け灰儘に帰したのです。

長船越中守の息子紀伊守は父の後をついで虎倉城主となり、3万7084石を領し宇喜多氏の国政を専断するまでに信頼を得たが、宇喜多家家中騒動の時、戸川、浮田、花房、岡などの老臣と対立し謀殺されました。

その後は紀伊守の弟、長船吉兵衛が相続し、2万4800石を知行しました。

関ヶ原の戦の後、小早川秀秋が備前の城主となり、松野主馬が虎倉城番となったが、秀秋の不法が止まらず岡山を去り、後、組頭、蟹江彦右衛門が預かっていたが、これも備中へ去り、同じく組頭鎌田五郎兵衛が在番し、慶長7年、小早川家断絶。

元和元年、一国一城制が行われ、虎倉城は破却されました。

備前軍記42

2014年10月12日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第40回「小田原の落日」が、放映された。

天正17年5月27日淀殿が後継ぎを生み、官兵衛も長政に国を譲り、秀吉の側近として仕えた。

大坂城では三成・淀殿が権勢を振った。

大名の妻子を京に住まわせ聚楽等でおねが仕切った。

小田原攻めに城を包囲し北条に味方するする城を次々落し、目の前に一夜にして城を出現させ北条の度肝を抜かした。

官兵衛が1人で乗り込み2ヵ国安堵で和議を結んだが、秀吉は約束とは違い徳川に領地を与え国替えとした。

天下統一を成し遂げた。

☆戸川家記によると

天正18年、小田原御退治として、3月御発向也、浮島ケ原に於て、備前秀家と武者競可有との上意にて、秀吉公異形成る出立也、備前の勢潔白なる出立、肥後守逞敢行粧也、御手勢より備前軍粧甚宜との上意なり、此陣ニハ岡豊前守ハ不立、肥後守一家老として進発す、山中の城責落、翌日、湯本迄責寄、秀吉公松出御本陣なり、肥後守ハ備前の先手にて、湯本之北の山によぢ登り、小田原城首尾(尾首)に至る、城近し、城内より鉄砲を打て山の峯へ不被出し、鉄砲可放様なし、中吉与兵衛百挺之頭にて、足軽召連来りて、前ニ者不被出故空へ放ちける、是ニ而合戦始て馬より下る、玄蕃(16才也)土佐功者ニて、玄蕃殿若して強情なり、尤とて扣て先へ押しむ、中村弥右衛門といふもの旗奉行ニて来る、始紀伊守組子に居たる者也、土佐組の内より言、弥右衛門ハ昨今迄同組ニ居て、今此定を破り不知顔に押と言、弥右衛門返答に、紀伊守殿組ならハ其趣ニすべし、今肥後に従ヘハ不用、武士道不知して申かと言て、旗を進めて尾首山に登り、旗を建けり、是より後此寄口を不去して、柵を振り井楼を上ケて大筒を打ける、以後金堀(掘)を呼て穴を掘、櫓へはり付けるニ内より砂を炒て懸ける也、諸手ともに如此落城迄相詰攻之、其後、小田原滅却して埓明き、奥州へ御進発、備前宰相秀家も御供也、しら川におゐて検地承り、肥後守組家人等を出し、急に検地調ひ、御帰陣の後、賞美金銀等被下、此小田原陣ハ、所々の手様々の城責ニ品あり、備前の手の構ハぬ事戴之

UKITA AKIIE(1567-1616)

2014年10月9日

P1010742 富山城松田2 ime_0030ime-2pg 野殿大返し図最終_edited-2The last Lord of Tomiyama Castle(Okayama pref.),UKITA AKIIE (Also called Sakazaki Dewanokami) was a prominent commander of Ukita family in the Senguku period.  This time, the fact of admiration of birth of the Ukita Akiie became clear.

Ukita family was the ruler of the Province of Bizen Okayama(Okayama pref.)

In the Sengoku period, three heros, such as Oda Nobunaga,Toyotomi Hideyosi and Tokugawa Ieyasu struggled and reunified the country.

  1. Hideyoshi fought with Mouri family at Takamatsu(Okayama pref.)under the order of Nobunaga.On hearing of the death of his master Nobunga,Hideyosi made peace with Mouri family.
  2. Hideyosi led all his troops back to Kyoto in only 10 days in order to succeed Nobunaga,
  3. Akiie joined the Hideyosi’s army through Takamatsu Castle flooding operation,
  4. After the death of Hideyoshi,the biggest civil war in Japanese history,the Battle of Sekigahara broke out(Gifu pref.).By winning this war,Ieyasu came to power as the first Tokugawa Shogun.He got promotion from a minor lord to a middle class lord.
  5. He changed his name to Sakazaki Dewanokami.
  6. Akiie joined Ieyasu’s army,and by his distinguished service,he became the lord of Tsuwano Caste(Shimane pref.).
  7. Ieyasu’s army and Ishida Mitsunari’s army fought a fierce battle(1600).

(c)Ieyasu was the final winner in the Sengoku period.

Even after the battle of Sekigahara,Toyotomi Hideyori(Hideyoshi’s son and his heir) entrenched himself in Osaka Castle.

Hideyori was Ieyasu’s fearful rival.

Ieyasu attacked Osaka Castle and a fierce battle lasted.

Eventually,Toyotomi family perished when Hideyori and his mother Yodogimi killed themselves in raging flames.

Dewanokami saved Senhime, Hideyori’s wife (also Ieyasu’s granddaughter) from the flamed Osaka Castle.

Ieyasu promised Dewanokami,if Dewanokami saved Senhime,he would be permitted to marry her.

But,Tokugawa family broke the promise and Senhime eventually married Honda Tadatoki.

Dewanokami tried to kidnap Senhime,but he failed.

In the end,he was killed.

Note1.Ukita Naoie

The lord of Bizen Okayama Castle(Okayama pref.).

He appears on the NHK TV program”Gunshi Kanbei”.

Note2.Ukita Tadaie

Yonger brother of Ukita Naoie.

Ukita Akiie is his second son.

Note3.Toyotomi Hideyori

Toyotomi Hideyoshi’s son and his heir.

He married Senhime who was born as Ieyasu’s granddaughter.

Daughters were often a tool to conciliate their rivals.

Note4. Honda Tadatoki

One of the foremost vassals of Ieyasu.

Note5.Ishida Mitsunari

Key vassal of Hideyoshi.

In the Battle of Sekigahara(1600),he led the Toyotomi army against the Tokugawa army.

Note6.Gunshi Kanbei

NHK TV program now on the air(2014).

Three heros,Oda Nobunaga,Toyotomi Hideyoshi and Tokugawa Ieyasu appear.

コバノミツバツツジ 虫こぶ

2014年10月9日

矢坂山のコバノミツバツツジの種を採取して配る準備として早朝登頂した。
種の状況を観察すると全く実を付けていないのが中腹部の多かった。登ってゆくとまだ青く堅そうな実が見られた。良く見るとおかしな実のような物が着いていることに気が付いた。頂上付近のツツジでは更に多く着いていた。
分からにと気になった訊ね周り倉敷し自然史博物館で「虫こぶ」であると説明を受け下記資料を見せて頂いた。
D-003 ツツジミマルフシ
タマバエの1種によって、実が不整形に肥大した虫えいで、直径は10~20mm、高さ5~15mmに達する。表面は通常平滑で、黄褐~緑褐色を呈する。ツツジの種によって、虫えいの大きさに変異があり、また、虫えいの表面に黄褐色の毛を密生する場合もある。内部には比較的大きな幼虫室かあり、ときには隔壁で数室に分かれている。各々の幼虫室には1~20匹の幼虫が入っている。
生態 生活史の詳細は不明であるが、おそらく、年1世代であろう。室内の飼育条件下では4月に成虫が羽化した。虫えいは5月には顕著になる。 10月頃になると、成熟した幼虫が虫えいから脱出し、その後、土中で越冬する。
分布 本州、四国、九州、屋久島。
関連寄主植物 アケボノツツジ、オンツツジ、サイゴクミツバツツジ、サクラツツジ、トウゴクミツバツツジ、ナンゴクミッバツツジ、ヤマツツジ(ツツジ科)。
異名 アケボノツツジミマルフシ、オンツツジミフシ、サイゴクミツバツツジミマルフシ、サクラツツジミフクレフシ、ナンゴクミツバッツジミマルフシ、ヤマツツジミケフシ。
〔参考文献〕門前(1929b)、薄葉(1979b)、Yukawa(1977a、1982a)、湯川(1984a、1988d)。
おいしそうと食べなくてよかった。
種採取のとこ別に取って焼却処分すうこととした。

上 虫こぶ                         下 通常の実

P1030409 P1030411

備前軍記41

2014年10月4日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第39回「跡を継ぐ者」が、放映された。

家康はお伽衆に官兵衛が秀吉亡き後天下を取ると云っているといい官兵衛は警戒した。

茶々が聚楽等で跡継を身籠った。三成は淀城の築城を提案した。

官兵衛は、秀吉がうたぐり深くなることを警戒し隠居することに決めた。秀吉は許さなかった。

京都に大仏を建立するなど憲政を振るったが、町人はこれを比喩する張り紙をした。

下手人が見つからず、100余名も斬首した。

官兵衛はおねの願いで秀吉に「このままでは豊臣家の天下は危うく、増してや子の将来を世の人々は待っていない」と苦言を呈した。

前祝と称して金銀を振りまいた。

長政への国譲りはゆるし、官兵衛には傍で仕えるよう命じた。

関東では家康の説得にもかかわらず北条は上洛を拒み、北条成敗は止むなしとなった。

☆岡山城の改築の事

秀吉の全国統一により天下は平穏に帰したので、秀家は岡山の城の新築造営に着手した。

この岡山の地は、大昔は大島という島山であったが、後に地続きになって岡山と呼ぶようになり、正平(1346~1370)の初年、南朝に仕えた上神太郎兵衛慰高直の居城があった。その後はるか年を経て、大永(1521~1528)の頃であろうか。金光備前という武将が居城を築いた。その子金光与次郎宗高が引き続き在城したが、宇喜多直家に殺され城を奪われた。この頃までは城地も狭く、西の天神山の辺りばかりであった。

天正元年(1573)直家は沼の城から岡山に移り、城普請を行ったが、本城を東の方の石山に移し、郭など多く築き添えて規模を大きくした。同10年(1582)の頃には城普請は終わったが、何分その頃までは隣国と合戦に明けくれ、築城に意を傾注する隙もなかったから、必ずしも完備したものではなかった。往還筋の旭川にもやっと仮り橋を架けられた程度であった。

しかし、朝鮮の役も終わり、国中近国ともに兵乱なく、世は静かに落ち着いたので、秀家は城の改築に着手した。安土の城に最初に出現した天守閣を、岡山城にも築きあげ、矢倉・広間・出仕所などの建物を造営した。この工事の普請奉行を勤めたのは中村二郎兵衛である。彼は近ごろ秀家の正室豪姫に従って前田家から来た新参者であるが、なかなか才能ある者であったので、秀家は彼に普請のこと一切を任せた。

このとき、本城を以前より更に東の岡山の丘陵に移し、石垣を高く築きあげ、旭川を付け替えて本城の麓をめぐらせ、天守閣を築き、櫓を組みあげて完成した。またこれまでの往還の仮り橋をやめ、それより2町ばかり下流に川中の2つの中島を利用し、これに京橋・中橋・小橋の3つの大橋を架け、洪水のときでも旅人が何の難儀もなく通行できるようにした。

注 以前に仮の掛け橋のあった所を今では古京町という。これは古京橋町の略語である。 また、天守閣の虹梁に使った用材は、和気郡吉田村(現和気町吉田)の龍王山に鎮座する、神社の境内にあった大木を伐ったものといい、その大本の切り株はなお朽ち残って現存するという。この城普請は慶長の初年までに一応成就したが、なお仕残した部分もあったので、その後 造り足して完成したという。

新釈備前軍記

天正18(1590)年より慶長4(1598)年まで8年間で完成。