7月 2015 のアーカイブ

中仙道散歩

2015年7月31日

P1070164 P1070166 P1070167山陽本線を越えて早朝散歩するのが定番になった。5~6時より食事前の7時過ぎまで12000歩目標。
御南中学付近まで行き、帰りはバスの場合もある。
芸術家のTY氏が早朝庭仕事しているのに見っけて声をすると実に楽しい会話とる。実のなる木を沢山作っていてブドウを2本も手入れしていた。実のなる桑の木の鉢上をもっらた。自宅にもあるが実は成らない。大川傍の家にああった実を口が紫となるまで食べた思い出がある。
今日はガボチャンの元の家に「らんぷ」喫茶店が8月20日オープン予定で6時ごろより準備していた。実際の営業も6時からでこの時間からは珍しくモーングコーヒーが楽しみだ。7時オープンは珍しくないが。ほかにも7時より行列のできるパン屋「リエゾン」があり時たま買って帰る。その隣には、手作りドレシングの店があり一度寄って見たいものである。
H27年7月25日(土)10:00~12:00西学区電子町内会編集委員の中桐完さんが、御南西公民館で、歴史講座2を講演。 御南西中学校区の歴史講座2「水と生活・文化」
知人は全くいなかったが、能登川用水の質問がでたため西川錦町樋門の話をした。
そもそも中仙道は白鬚宮に保存してあるが松島と呼ばれる猫の額ほどの島だった。沖ノ鳥7.86m²・1.58m²の2つの何時初滅しても可笑しくないが補強してもっている。松島も周囲に干拓が進み、今では岡山の副都心の中心地卸センターで繊維業が衰退したとは云え旧市街地より面白いい店がある。片桐さんのパワーポイントでも飛行場の様な1本のメイインストリートが印象的だった。
詮家(坂崎出羽守については10以上の名前があるため21日の講演でもこの幼名で通すつもり)の父忠家素行で特に富山城に関係するところを引用する。詮家についても同様の素行であったようだ。千姫事件の関係で協調されていいるのかもしれない。ここで登場する小野田氏はガボチャンの先祖かもしれない。虫明氏も辛川合戦で登場し野殿にもお住まいの方がいる。
△宇喜多忠家(直家ノ弟也、人道シテ安心卜云) 知行三万石、 富山城主也、子左京亮ニ城ヲ譲り、大坂ニ詰テ昵近ス、 終ニ大坂ニテ卒ス、当初備前・美作イマタ治ラサル頃、 直家ノ家老分ノ者、小野田四郎左衛門卜云者アリ、家老分ノ者ヲ年寄中振回ニ呼ケル、其座敷ノ廊下ニテ忠家彼小野田ヲ一太刀斬、小野田脇指ヲ抜忠家ヲ伐、忠家着篭ヲ着セラレシ故ニ薄手ヲ負レケル、助太刀有テ小野田ヲ 斬殺ス、直家ハ鷹狩ニ被出シカ岡平内行向テ、如此事有、叛心アル人也、此次テニ御殺可有、我行向テ可討由ヲ申、直家無返答、暫有テ忠家手負ヌルカ如何卜尋給ニヨリ、其後ハ兎角不申卜也、是ヨリ先ニモ忠家ハ直家ノ近習ノ者ヲ斬給事アリ、岡豊前卜(内々不和也、其上度々無理ナル人斬給ニヨリ云々トナン、其後忠家富山城ニ取込、直家ニ楯ヲツク事アリ、直家立腹シテ可打果ノ由平右衛門ニ被仰、秀安申シテ曰、忠家根有、叛スル人ニ非ス、短慮ニテ候、私ナタメ鎮り候様ニ可仕トテ、材木ヲ富山ノ近村へ寄、攻支度ヲ仕ケレハ、忠家恐テ秀安ヲ以、種々 詫事アリ、直家御立腹因難休、数通ノ起請ニテ無事也、秀安母ハ忠家ノ乳母ノ好ミアルニヨリ、忠家ノ気質ヲ考テ斯セント也、太閤天下ノ時、城ヲ子左京亮ニ譲テ、自分ハ大坂ニ居住シテ昵近セラレシト也P1070136-2 P1070142 P1070144

Event Akiie

2015年7月24日

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岡山人物銘々伝を語る会 岡山県立図書2階2015.08.21 18~20時  2時間講演することとなり、準備に追われいる。パワーポイントの構成にも難儀いしている。
それでも地元の矢坂山の富山城城主の詮家の一生が語れる機会がこようとは感激だ。
坂崎出羽守(浮田詮家) の要旨
津和野城主の坂崎出羽守が、400年前戦国時代要が終った、大坂城夏の陣において燃え盛る天守閣より徳川家康の孫、豊臣秀頼の妻の千姫を救出した。さらに、その翌年、千姫の嫁入りを阻止しようと江戸屋敷に立てこもりに太平の世の幕開けに衝撃をあたえた。この坂崎出羽守は、岡山の富山城主の浮田詮家である。
その生涯は不明なことが多い。昨年のNHK大河ドラマ「軍師管兵衛」の高松城水攻めの放映の直前に詮家が重要な役割をしていたことが分かり調査した。
1.阿部禅定屋敷で宇喜多興家と楠正成の末孫の坂崎家の娘の間に生れたのが、父忠家。
2.詮家は父忠家、母は虎倉城主伊賀久隆の妹深雪、乙子城で生まれる。基家は双子の兄弟で直家に養子に入る。
3.幼少期は備前福岡で過ごし、9歳の時より、毛利の本城安芸郡山城に人質に行っていた。
4.16歳で富山城に帰り美作三星城合戦に死の直前の直家の命により大将で出陣し戦勝した。5.高松城水攻めのキーマンであった。野殿御殿で豊臣秀吉、黒田管兵衛など豊臣家家臣団と作戦会議を開いている。
6.伏見、住吉などに大屋敷を持ち、駿馬、武器を多く持っていた。
7.小西行長の仲介により早くにキリスト信者パウロとなった。礼拝堂を作り、大坂城を築城した明石掃部にも洗礼を受けさせた。
8.天正17年岡山城を作るため野殿に降され、富山城の大手門が岡山城石山門となった。
9.朝鮮出兵では秀家の関係もあり留守居役であった。
10.秀家により戸川達安が殺されそうになり、詮家の住吉屋敷に岡、花房と共に立て籠った。
11.妻妙円を亡くしたとき戸川家の日蓮宗葬儀とした。
12. 上杉景勝討伐に秀家名代として参戦した。
13.関ケ原で東軍に参戦し、軍功あり津和野城主となる。
14. 津和野城の大改築、城下の町の形成と整備、防火用水路の開発と整備、産業開発、特に石見半紙の原料である楮の植え付けなど16年間に江戸北千住に津和野倉屋敷を持っていた。
15.津和野15年目の時、大坂城夏の陣があり千姫を家康に無事届ける。
16. 大阪夏の陣で千姫救出の経緯は、家康との約束、秀忠との確執、柳生宗矩の調停、新井白石の解釈、津和野4万石の廃絶など疑問が多い。
17. Event Princess Senとして東インド会社を通じてイギリスに伝えられた。剃髪した下臣千人と婦女50名と共に、湯島邸に拠り、幕府は兵士1万余人を以て、邸を囲ませた。この後日本は鎖国した。
18.怪談もの出羽守あるいは妖艶な千姫が江戸時代講談で語り継がれ、森 鷗外も津和野出身。
19.詮家は伊賀忍者としてとらえると諜報活動に優れ、火器を使用し活躍した。
20.徳川幕府の剣術師範、大目付の柳生家が秀忠の命により詮家の遺品の家紋・槍を受け継いできた。
21.千姫の娘勝姫は名君池田光政に嫁ぎ、岡山の2度の大水害のとき4万両を借財し百間川整備に繋がった。