7月 2014 のアーカイブ

ビラ市久(めだかの学校)オ-プン

2014年7月31日

P1010995 P1010985 P1010973 P1010972 P1010970 P1010955 IMG_5982 IMG_5977 IMG_5971 IMG_5970暑中お見舞いもし上げます。8月2日(土)夕方納涼パーティーを開きます。

夏を涼しく工夫して見ました。感想をお聞かせください。

ビール、おつまみなど各自飲める量をお持ちください。バーベキュー設備あり。

当日は旭川河川敷の花火大会があり、北長瀬駅よりシャトルバスが出ます。露天風呂で水浴びをして汗を流せます。

本年は、ESD(世界大会)が、名古屋と同時開催となります。11月6日より始まり名古屋10~12日に世界会議となっています。

肝試し

2014年7月27日

P1010849 P1010852 P1010856 P1010860 P1010861 P1010870 P1010873 P1010874 P1010876 P1010879 P1010880中学のころ、真っ暗になって笹が瀬川に掛る木造橋を渡って、足守川が合流する辺りまで行かされたことがある。通学橋だが渡った事が無かった。
最近北房の中津井の山田方谷縁の斉田城の麓の宅に誘われる間々にお邪魔しご馳走になり、長居して外に出ると摩暗闇で一歩前も見えず石垣の下に落ちるのではないか下の道路まで出るのに難儀した。星も出ていなく街路灯のないのを初めて経験した。ホタルが飛んでいれば明るいが。
今保の快神社があり、付近は土手の下にゲートボール場やクルザーが沢山止めてある。
八浜の快神社の由来は、八浜にある快神社に次の伝説がある。昔、八浜の宇枯木の鼻という岬に、大きな丸太が流れついた。「一体これはなんの木だろう」と村人たちが珍しがって近づいてみると、その丸太の中から人のうなるような声が聞えてくるではないか。不思議に思って、数人の漁師がこの木を割ってみると、その中からまるで仙人のような白髭の翁が現れると、大勢の村人たちのみている中で、たちまち煙のように消え失せてしまった。驚いた漁民たちは、「これはただごとではない」と恐れ、その木を山の頂上に埋めて、その上に小さな祠を建て、これを快神社としてまつることにした。ところが、その後、池田光政公の時代になって領内で由緒の正しくない淫祠を取りこわすということになり、この快神社も淫祠であるとして、取り壊しにかかったところ、この小さな祠の屋根の上に金色の蛇が現われ、目をいからせ、すさまじい形相でにらみつけたので、人夫たちは恐れて誰も手をつけるものはなかった。そこで改めて、天照大神、八幡大神、大巳貴神、素盞鳴神の四座を合祀し、快神社として祀ることになったという話である。
浮田基家[浮田左京亮詮家の兄とも云われる]が、毛利の水軍が岡山城に攻め上がるのを阻止したが、流れ玉であえない最後となり与太郎様として祀られ、宇喜多の7本槍家臣団として語り継がれている。
その先の林原今保工場まで行って見ると天瀬の工場移転の工事が昨年11つ月より行われていて鉄骨建屋が組み上がって来ている。
帰りに今保港に寄った。高松城水攻めの跡、中国大返しの時、武具などはこの港から運び出したであろう。備中堺だが松田屋敷などありすでに宇喜多勢力下にあった。高松より足守川を下ると速やかに姫路まで運べた。大賀邸の水路に外海にゴミが流れで出ない知恵であろうか、竹組がしてあった。
イ草、畳文化を世界遺産登録は早島に神武皇后が来られた時イ草を敷かれtこと以来でこれも貴重な遺産である。さらにイ草のアロマの生理活性物質が見つかっている。
写真
今保 快神社
林原㈱ 天瀬移転工場
大賀亭 水路 竹組

備前軍記31

2014年7月26日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第29回「天下の秘策」は、信長の死をこの場限りの秘密として、和議を進めるとの官兵衛の提案に、恵瓊は乗った。 ただ、和議を進めるためには、高松城の始末をつけなければならない。おねのいる長浜城はどうするのか……善助ら三人の意見を官兵衛は一蹴した。

返答を迫る官兵衛に、とうとう隆景はうなずいた。 和睦はととのった。官兵衛が信長の死を知って、わずか数時間後のことである。

黒田の陣に戻った官兵衛は、長政はじめ、善助ら家臣たちを集めた。 日を置けば、明智の勢いは増すばかりだ。そうなる前に討ち果たすしかない。武具を運ぶ手はず、街道筋での炊き出しや松明の手配……善助たちは慌ただしく準備に取りかかった。 姫路への使いには、長政が名乗り出た。

天正10(1582)年6月4日、毛利の礎となって死ぬことは本望だと言って、宗治は切腹した。 一方、堺に滞在していた徳川家康は明智の手から逃れるため、三河に向かっていた。世に言う「伊賀越え」である。本多忠勝ら家臣に守られながら、家康は命からがら三河へ逃げきることができた。

翌六月五日、光秀は安土城に入った。かつて信長が座っていた上座に天下人然として座り、茶道具や金銀珠玉など、信長の秘蔵品をすべて家臣たちに分け与えた。

おねの決断で城中の者が逃げ出した長浜城に続き、丹羽長秀の佐和山城が落ち、京や近江周辺も明智に従った。しかし、中には細川藤孝のように、光秀と親戚関係にあるにもかかわらず従わない者もいる。

藤孝は剃髪して名を幽斎と改め、家督を息子の忠興に譲っていた。

一方、秀吉は、中川清秀はじめ、明智から誘いを受けているであろう武将たちに書状を書いた。

「上様も信忠様も生きておられる。」 書状の内容に、官兵衛は目を見張った。 清秀だけではない。去就に迷っておる各地の武将に偽文を書きまくるのだ。これも戦じゃ」  官兵衛は笑んで、秀吉に言った。

命がけの忠義に感激する秀吉を残し、官兵衛は再び小早川の陣へ。官兵衛と恵瓊はハッとした。すでに隆景のもとに書状が光秀から届いていた。 しかし、官兵衛の説得に、隆景は折れた。

6月6日、秀吉は三万の兵たちを前に言った。 官兵衛はいっせいに移動していく羽柴軍を見送った。 毛利の旗も引き始めた。追っ手を元春出そうとするのを隆景が止めた。 秀吉の軍勢は驚異的な速さで京へ向かった。世に言う「中国人返し」の始まりである。

翌6月7日、吉田兼和が勅使として安土城に赴き、光秀は朝廷という後ろ盾を得た。しかし、秀吉軍が猛然と迫っていた。

 

☆新釈備前軍記 備中高松の城攻め並びに所々城攻めの事③

さて六月六日の早朝、備前勢がまず岡山に帰陣し、次いで同日未の刻(午後二時ごろ)秀吉が陣を引き払って辛川村に至り、ここで人数を分け、主力は半田山の前の古道から旭川の釣の渡を越え、先陣から順次東進した。秀吉は旗本の人数だけを従え、矢坂を越えて岡山に赴いた。

宇喜多八郎は明石飛騨を従え、岡山城下の町口まで迎えた。秀吉は懇ろに挨拶して岡山城に入り、暫く八郎と対面した。八郎の家臣浮田七郎兵衛・浮田左京・明石飛騨・戸川助七郎・長船又右衛門・花房弥左衛門らも次の間に控えていた。このとき戸川平右衛門は関東の草津へ入湯に赴き留守であった。

秀吉はこのとき八郎に向かい、

「今度の備中合戦の勝利は、ひとえに宇喜多勢の働きの賜である。そのため毛利方が和睦の印しに差し出した河辺川以東の地は、直ちに八郎殿に進呈するから知行なさい。某はこれから上洛し、明智光秀を退治する。この目的を果たした上は、八郎殿を私の聟にしよう」

と約束した。

夏を涼しく

2014年7月23日

P1010785 P1010790近年、エアコンが発達して季節感が無くなった。海水浴、夕涼み、花火とある。

北長瀬駅前水路で川舟を動かそうとすると鍵が曲がって鐘鋸で切る事となった。水上は涼しく、河風が気持ち良い。見上げると岡山市民病院の新築工事も8階の内、5階まで鉄骨が組み上がったであろうか。その脇の駅と病院を結ぶ通路(小生の提案)の為の自転車置き場が大きいのに驚かされた。サーカスが行われているのは普段気が付かないが夕方ライオン、象の鳴き声がする。

舟遊さん気分で揺られていると小学校の頃公会堂で見た坂崎出羽守の映画を思い出す。最後暗い蚊帳の吊った部屋で柳生・家臣らとのやり取り、不気味な沈黙、槍・刀の動き、最後に血が飛び散ったか良く分らない寒気がして終わった。出羽守の千姫救出の火傷の跡は実際には無かったようだが不気味な形相のように思われた。

お化け屋敷で四谷怪談・皿屋敷・牡丹燈籠の三話は「日本三大怪談」に『牡丹灯籠』・『怪談乳房榎』・『お菊の皿』・『質屋蔵』・『真景累ヶ淵』・『反魂香』・『もう半分』・『子育て幽霊』と限りなくあるが、この季節気分的に涼しさを感じる最高の演出である。

林原美術館のダンディズムは好評で「林原美術館所蔵の古文書研究における新知見について―本能寺の変・四国説と関連する書簡を含むー」講演会や備州鉄砲隊もきて賑やかであった。

北長瀬の区画整理が行われるかもしれないとの話が出たとき古い神社仏閣・歴史的な遺産が無くなるのではないかかと「市久会」をスタートし調べ始めると北長瀬の町名も江戸中期になって市久保より変わったなど不可思議なことが多く浮かび上がってきた。

ところが区画整理は空中分解し未だに分のわからないままだ。

お蔭で水路に舟を浮かべて楽しんでいる。

帰ろうとするとネッシーのように首を擡げて水面を走り直ぐ水に隠れ、又暫くすると同じように不気味な川面を見た。その内鵜が魚を取っていると気づいた。夕方となると光線の具合で不気味に見えた。

邑久町の宇喜多能家菩提寺の大賀島寺は山の上にあり舟の舳に大きな龍の飾りなどのダンジリが5基ほど町内会が大きなダンジリ小屋の保管してあり、毎年4月に山頂で祭りを行っている。昔大賀島が少しずつ若しくは津波の時舟を山の持ち上げた名残だろうか。

7月24~26日まで6時より子供対象の舟遊山、24・25日北長瀬公会堂で富山城・詮家資料展示会、26日大野コミュニティーハウス(大安寺駅北)で市久会、矢坂山を語る会で行事を行う。来年は、5月に市民病院がオープンするため川辺で納涼行事をすることも考えたい。

 

夏行事 H26

2014年7月20日

今年も夏休みのラジオ体操後に子供たちを川舟に乗せます。
この後、今年はNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」が高松城水攻め、中国大返しと注目されれています。特に、矢坂山の富山城は毛利の備えとしての城の役割、麓の野殿の浮田忠家・詮家親子の根小屋ないし御殿として重要な役割が分かってきました。宇喜多直家は既に無く、秀家も若く元服前です。ここで詮家(後に千姫事件を起こす直盛)が16歳で三星合戦、辛川合戦、冠山城合戦と戦巧をあげています。所がこの人物について誕生地、毛利に人質に出ていた場所、戸川の妹との結婚の時期など全くわかっていません。次のように26日に講演会を開きますが、この辺りを聞く機会と子供たちに大河ドラマ魅力を知ってもらうため
、北長瀬公会堂で朝9~17時まで関連資料を展示することとしました。自宅で取れたスイカを用意し立ち寄る方に御馳走することとしました。1人でとりあえず応対しますので手に負えるか心配です。
①市久会行事
夏休みの小学生を対象として、川舟で水辺と歴史を楽しむ機会とします。DSC05684 ime-2pg P1000836
日 :7月24日(木)25日(金)
1. 時 :6時30分よりの白髭宮でラジオ体操の後、7時30分まで
2. 場所:鴨田弧線橋東側より乗舟、北長瀬駅北口まで往復
3. 定員:乗船は 1回に10名(上級生より順次)
4. ご協力頂ける方、川舟の思い出のある方、ご心配な父兄の方もお集まり下さい。
②展示会
場所:北長瀬公会堂(北長瀬公会堂北口前 中国シ-ル㈱北)
日時:平成26年7月24・25日
内容: 富山城・野殿城・浮田左京亮詮家関連の資料展示
西大寺・邑久・長船の詮家縁の治のビデオ
戸川記念館のビデオ
その他 矢坂山の春
サービス:スイカ
参加:無料
③ 講演会
(1) 日時:平成26年日7月26日(土)午後1時30分~3時30分
(2) 場所:大野コミュニティハウス(大安寺東町、駐車場限り)
(3)演題:理の詮家『坂崎出羽守(矢坂山;富山城主3万石)あれこれ』
(4)講演者:坪井 章(矢坂山を語る会 代表)
(5)内容:
1)坂崎出羽守の若者時と晩年(宇喜多直家の弟忠家の嫡男、作州三星城、津和野城)
2)秀吉の高松城水攻めと中国大返し(野殿城・太然寺)
3)千姫事件の経緯(大阪夏の陣で千姫救出の経緯、家康との約束、秀忠との確執、柳生宗矩の調停、新井白石の解釈、津和野4万石の廃絶)
(6)会費:会費500円=当日集金
(7)申し込先:矢坂山を語る会代表 坪井 章
〒700-0961岡山市北区北長瀬本町25-14-5
電話/ファックス 086-252-0007
携帯080-1930-6282
申込
氏名
住所
Tel/Fax
E-mail
意見等

 

備前軍記30

2014年7月20日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第28回「本能寺の変」は、天正10(1582)年6月2日未明。 桔梗の紋が描かれた旗が、本能寺を取り囲んだ。  数少ないとはいえ、信長に従う家臣たちはえり抜きの腕ききぞろいだ。しかし、圧倒的な戦力の差はいかんともしがたく、蘭丸は敵の槍に突かれて絶命した。

お濃の胸も、真っ赤な血で染まっている。 微笑むお濃を抱きしめ、信長はひと息にその胸を刺した。信長を捜す敵の声を背後に聞きながら奥へ進む。信長は最後に「敦盛」を舞い終えると、仁王立ちのまま太刀を抜き、刃先を首筋にあてがい、信長は一気に太刀を引いた。

本能寺はことごとく焼け落ちた。光秀は、毛利はもとより、越後の上杉、四国の長宗我部、関東の北条と、織田に敵対する者すべてに信長を討ち果たしたと書状を出した。     坂本城に戻った光秀は、早速評定を開いた。  「朝廷のご威光をもって、信長が壊したものをつくり直す。本来あるべき姿に戻すのだ」と光秀。

一方、遠く備中にいる官兵衛は、いまだこの事件を知らなかった。

水攻めで田畑を台なしにしてしまった村々に米を配っていると善助がとある農家で小寺政職を見つけたと知らせてきた。

ところがその夜、辰蔵という男が、フラフラになって官兵衛を訪ねてきた。信長の信任あつい長谷川宗仁の使いだという。

羽柴秀吉様か黒田宮兵衛様にお知らせせよと。 辰蔵が隠し持っていた書状には、信長の死という驚愕の事実が書かれていた。事は一刻を争う。秀吉の寝所へ急ぎ、書状を渡す。

秀吉はけげんそうな顔で読み始めたが、みるみる蒼白になり、その手が震えだした。

子どものように泣きじゃくる秀吉の肩を、官兵衛は激しく揺さぶった。

「 殿のご運が開けたのですぞ!」

「亡き竹中半兵衛様の思いをお忘れですか!・」 秀吉がハッとなる。

「今こそ、そのときでございます! 上様の死を毛利に悟られることなく、すぐに京へ引き返し、誰よりも早く謀反人・明智光秀を討つのです。」 ほどなく忍びの男が捕らえられ、明智から毛利へ送られた書状を未然に取り押さえることができた。

官兵衛の行動は素早く、火急の用件があるとして毛利の陣から恵瓊を呼び出した。

「毛利と早急に和議を結びたい。毛利の八か国の本領安堵はお約束いたします」

「何ゆえ、急にそこまで譲られるのじゃ?」

恵瓊が首をひねる。

「羽柴様が天下に名乗りをあげる好機が訪れたのでございます」

黒田官兵衛、一世一代の大勝負かここに始まった。

☆新釈備前軍記 備中高松の城攻め並びに所々城攻めの事2

同月四日の朝、宗治から検使派遣の要請があったので、秀吉は堀尾茂介を遣わした。清水長左衛門、その兄の月清人道、及び加勢として熊城した難波伝兵衛・近松左衛門、以上四人が舟に乗り、堀尾と対面の後潔く切腹した。そのため城兵はすべて助命され悉く退散した。

ところが、この前日の三日の夜の子の刻(午前零時ごろ)、京都の長谷川宗仁のもとより秀吉の陣へ早飛脚が到来した。そして、六月一日明智日向守光秀が謀叛を起こし、信長公、信忠郷を殺害したというしらせである。秀吉は即刻、信長の死を伝える毛利方の密使を捕えるため、西国往還筋に忍びの者を配置したが、白身は何も変わったことはないかのように、その翌四日の朝もいつものように馬に乗り馬印を持たせ陣廻りを行った。そこへ昨夜配置した忍びの者が、毛利方の飛脚を庭瀬(現岡山市庭瀬)で捕え、その所持した書状を奪い、飛脚とともに秀吉の本陣へ差し出した。また西国に赴く旅人をすべて留めたので、毛利家へは京都の変事は届かなかった。

毛利三家からの使者として、安国寺恵瓊が秀吉の本陣を訪れ、

「高松も落城し、清水宗治も自害致した上は、和睦して信長公の摩下に属し、備中・備後・伯者の三国を進上致したい。ついてはこの旨を信長公に御取り成し下されたい」

と毛利方の意向を伝えた。

秀吉は追って自分の方から返答する、と答えて恵瓊を帰し、その翌日、「お望みとあれば和睦も致しましょう。ところが京都において、信長公は明智のために弑され申した。それでも和睦をお望みあるや」

と申し送った。

毛利輝元・古川元春・小早川隆景の相談は容易にまとまらなかった。しかし隆景が。

「一度和睦の議を申し込んでおきながら、信長が死去したとて約束を違えることは本意ではない。最初申し遣わしたように和睦を結ぶのが妥当と心得る」

と主張したのでその線で決まり、毛利方は、最初申し入れた通り、和睦の運びに変わりはないと返答した。秀吉は大層喜び。

「毛利家の和睦の条件には三ヶ国割譲とあるが、これを申し請ける必要はない。ただ今度の和睦の印しに、備中河辺川(高梁川)を境に東半国を申し請けたい」

と申し送り、盟約を取り交わし、毛利家よりは秀吉側へ人質として、毛利元就の八男毛利藤四郎元綱と桂民部を差し出した。

 

備前軍記29

2014年7月10日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第27回「高松城水攻め」は、地元の農民たちが運んできた土嚢を組頭が買い取って、堤の工事は順調に進んでいる。天正10(1582)年5月19日、工事に着手してからわずか12日という驚異的な速さで、堤が完成した。高松城目がけて堰が切られた。

五千人がこもっている高松城は兵糧が尽き、信長の出陣は必定―--そう判断した毛利側は、恵瓊を和睦の交渉に送ってきた。五か国を譲るとまで譲歩した恵瓊に、勝つたという証しとして、城主の首がいる。

利を滅ぼし、天下布武が成った暁には、この国を新しく土台からつくり変えると信長は朝廷を倒すつもりなのか。光秀は恐ろしさのあまり、全身がわなわなと震えた。

信長は上洛し、本能寺に入った。出陣前に茶会を開くためで、供はわずか数十人であった。身分の高い公家たちが続々と挨拶に訪れ、信長にひれ伏す。信長の栄華はここに極まり、その手に天下をつかみかけていた。

☆新釈備前軍記 備前勢は、次に岩崎村東加茂(現岡山市加茂)の岡崎城(別称鴨城・加茂城)を攻めた。この城には毛利家の部将桂民部を置き、東の丸には生石中務、西の丸には上山兵庫を配して在番させていた。しかるに、この生石中務も秀吉に内通し、備前勢を手引きすることを約束した。中務は或る夜素知らぬ顔で本丸へ行ったが、そのとき桂民部は夜廻りに出、門番を呼んで門の警備が疎であると叱責していた。門外でこれを聞いた中務は、さては自分の内通が露見してしまったと思い、急いで東の丸に戻り、塀や柵に鉄砲を並べ、本丸をめがけて攻撃した。

民部は、蔵から米俵を運ばせ、塀の裏側に積んで弾を防がせ防備を強化したが、中務は備前勢を招き寄せ、二の丸に乗り込ませた。しかし本丸は夜中堅固に守り通した。夜が明けてみると備前勢が大勢城を囲んで攻め寄せている。しかし毛利勢も続いて後詰めの兵を繰り出したから、民部もこれに力を得、東の丸に向かって弓鉄砲を撃ち込み、また藁屋があったのをめがけて火矢を放ち、これを焼き払った。中務の家来達が屋根に登って消火に努めるところを、矢狭間から狙撃して大勢の兵を斃した。

やがて民部は、城門を開いて突いて出たので、中務も備前勢も、これ幸いと敵兵を討ち取り、一挙に本丸に乗り込もうと戦った。しかし民部は四百人ばかりの兵を一つにまとめ、真黒な一団となり死力を尽くして戦ったので、民部の家来も多数討ち死にしたが、寄せ手の兵の被害も甚大で、沼本新五郎・楢村五太夫・上田十右衛門・福田十郎・芦田十左衛門・牧大八らが枕を並べて討ち死にし、終に敗れて城外へ退いた。民部は東の丸まで合

わせ、城の守りを堅固にした。

それからは備前勢は城攻めを思い留まり、秀吉は浮田七郎兵衛・戸川助七郎を先陣に配し、その余の軍勢を合わせて、高松救援の毛利・小早川勢の押さえに任じ、秀吉自らは摩下の軍勢を率い、高松城を攻略する作戦を立てた。こうして秀吉は龍王山に本陣を置き、摩下の諸軍は高松城の西北の大崎から東南の山々、立田山・鼓山・吉中村・三手村・板倉村にかけて布陣させ、高松城を包囲する形で総軍八万余騎を展開させた。

高松城は小高い山城ではあるが、周囲は深田で容易に攻め寄せることはできない城であった。水攻めにする他はないと考えた秀吉は、本陣を龍王山から東の山麓の尾崎蛙ヶ鼻に進めた。そして五月七日から長さ一里余の築堤に着手した。東は蛙ヶ鼻から西は赤浜山の麓まで石を積みあげ、それで水をさえぎり、山々から流出した水を堰き入れた。

ときは五月雨の降り続くころ、程なく八万余騎を展開させた。

高松城は小高い山城ではあるが、周囲は深田で容易に攻め寄せることはできない城であった。水攻めにする他はないと考えた秀吉は、本陣を龍王山から東の山麓の尾崎蛙ヶ鼻に進めた。そして五月七日から長さ一里余の築堤に着手した。東は蛙ヶ鼻から西は赤浜山の麓まで石を積みあげ、それで水をさえぎり、山々から流出した水を堰き入れた。

ときは五月雨の降り続くころ、程なく水量は増し、城中にも水が漲り、城の建物の軒も浸すようになったので、最早籠城を続けることも出来なくなった。六月二日、城主清水長左衛門宗治は、城中より使者を舟に乗せて秀吉の陣へ送った。口上の趣旨は、城中の重立った者が切腹するから、なにとぞ諸卒の命は助けて欲しいというものであった。秀吉はその乞いを許し、清水の殊勝な志に感じ酒肴を贈ってねぎらい、城主の切腹の用意が出来次第検使を遣わすと返答した。

備前軍記28

2014年7月5日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第26回「長政初陣」は、天正10(1582)年3月。

元服して名を長政と改めた松寿丸は凛々しい若武者に成長し、初陣のときを迎えようとしていた。長政の指南役には、黒田家随一のつわものである太兵衛をつけた。

秀吉引いる二万の軍勢は備前に入った。沼城に本陣が置かれ、まずは秀吉の養子・秀勝が初陣を飾るための戦があり、その夜は祝いの宴が催された。

甲斐・信濃を領していた武田家は、すでに信長の嫡男・織田信忠率いる六万の大軍によって攻め滅ぼされている。信長は徳川家康ら信忠に従っていた武将たちに恩賞を与え、信忠には諏訪のあと始末を命じた。

そんな中、武田家に身を寄せていた織田の宿敵・六角次郎が、甲斐の恵林寺に潜んでいることがわかり全員を焼き殺してしまった。

官兵衛と小六は備中で調略を進めていた。 最大の標的は高松城の清水宗治だったが、比類のない忠義の士である宗治は、城を枕に討ち死にする覚悟を決めていた。

協議したが折り合わず、ならば戦もやむなしと、双方意見が一致した。

☆新釈備前軍記 備中高松の城攻め並びに所々城攻めの事

天正十年の春、織田信長から毛利征討の命をうけた羽柴筑前守秀吉は、備中に兵を進めるべく三月十五目姫路を出陣した。その日、備前国三石(現備前市三石)に着き、その翌日には福岡(現長船町福岡)に進んだ。そして同月十九日福岡を発し、沼村(現岡山市沼)で昼の休息を取った。宇喜多家は、この沼城の南の山麓に新しい仮屋を設けて秀吉を色々と饗応した。宇喜多八郎はまだ幼少であったので、花房弥右衛門正成をその名代としてここに派遣し、そのもてなしに当たらせた。秀吉は大層喜び、ここを出発して岡山を過ぎ、さらに兵を西に進めた。

このとき八郎の名代として、宇喜多七郎兵衛忠家・岡平内・戸川助七郎・長船又三郎らが、総勢二万余騎の大軍を率い、秀吉軍の加勢となってその先陣をつとめた。

秀吉は本陣を龍王山(現岡山市高松稲荷)に据え、総軍八万余騎を備前・備中の国境に、山上山下を問わず延々と配備し、高松城攻略に備えた。また備前勢は、四月上旬のころまで乃美少輔七郎元信が居た備中宮路山(現同市足守)を攻めるため、宮地山の上手の渋柿山に押し登って陣を取り、一挙に宮地山を急襲した。城兵は支えきれず降参したので、命を助けて追い払った。当時冠城に、清水長左衛門の一党である林三郎左衛門・鳥越左兵衛・松田左衛門らが楯て籠っていたが、備前勢は引き続きこれに攻めかかった。同月二十五日の卯の刻(午前六時ごろ)より、浮田忠家は全軍に下令して総攻撃をかけた。僅かな小城とみた忠家は、二万の大軍で一揉みに揉み潰そうと攻めかかったが、城兵はよく防戦したため備前勢の死傷者は続出した。そこで忠家はひとまず引き揚げを命じ、城兵は暫く息を継ぎ休息していた。

その時である。城内の鉄砲の火縄の火が柴垣に移ったのか、燃えあがって藁屋に燃え広がった。夏の頃とて乾燥した小屋へ次々と燃え移り、忽ち城内は炎に包まれた。途方に暮れた城兵が騒ぎ立てているところへ、秀吉の本陣から備前勢の本陣へ来ていた加藤虎之助清正が、一番に冠城に乗り込み、美野辺十郎・山下九蔵がこれに続き、備前勢もこれに遅れず一緒になって攻め入り、敵を討ち手柄を立てた者が多かった。さすがに城兵も防戦の術がなく、林・鳥越・松田の諸将も一緒になって血路を開き、高松城に合流した。

この松田左衛門盛明は、もとの金川城主松田左近将監の二男である。去る永禄十年(一五六七)父左近将監、兄孫次郎は直家に討たれ、その領地居城まで奪われ、彼はその後毛利家の被護を得て成長した。従って、盛明にとって宇喜多は父兄の敵であるから、宇喜多勢を相手に戦うことを本望とし、棹尾の勇をふるって防戦したが、その甲斐なく落城したので、怒りを含んで引き退いた。

さて廂山(日差山)の東南に日幡城(現倉敷市日幡)があり、日幡六郎兵衛と毛利家の加勢の部将上原右衛門元祐が籠城していたが、備前勢は引き続きこれを攻めた。ところが、上原元祐は秀吉に内通し、城主日幡六郎兵衛を殺害し備前勢を城に招き入れた。そこで備前勢は兵を進めて城を乗取り、備前勢から花房・長船・市・福田の諸将、秀吉勢からは木村隼人を派遣して守らせた。しかし小早川勢も、楢崎弾正志正を大将として城の奪回に乗り出し猛攻を加えた。この日幡城はもともと堅固な城ではなかったので防戦に不便であったから、備前勢は城を明けて引き揚げた。

大賀島寺

2014年7月3日

方谷署名活動の準備の夕方大賀島寺{(岡山県瀬戸内市邑久町豊原2868)歴研M氏と行きました。大雄山」(152m)山頂で入り口が分らず、畠山製菓の奥とのこと。間違って宇喜多直家誕生地P1010283 P1010313 P1010314 P1010318 P1010320 P1010323 P1010330 P1010339を奥のキャンプ場につき、入り口は別の所で山を回って山頂に付きました。和尚は不在で電話すると10分で戻ると、待っていると若い僧侶(35歳とか)と総代が2人に会いました。何事か駆けつけてくださったとの事でしたのでしょう。

訪問の理由をつたえ、系図、詮家の本を見せ、研究会の参加にも快諾を得ました。条件は本の代金(未定)だけは伝えました。

そして720日に舟遊さんの時、邑久町ダンジリを部分的にも借りたいと申し出ると各町内の持ち物で直接許可が必要とか。

お寺のパンフレットもなく関係位牌も焼却し無くなって、五輪塔が数基あるが全く読めない。

又宇喜多詮家の誕生地は、備前福岡の小西屋敷であろうと分り、そこを改めて訪問することとした。

又、4月29日 岡山県瀬戸内市邑久町 大賀島寺権現祭り

雨の為、だんじり、神輿運行は中止となったが祭礼は行われた。
だんじり蔵の前にて、子供だちがシャギリ奉納する。
拝殿にて、若い衆たちが神輿を何回も何回もぐるぐる回す。
その中にお坊さんがいる!
江戸時代の神仏習合の伝統が受け継がれています。  撮影 川瀧健司氏

を見ると素晴らし催事で、7月20日に現物は無理かもし知れないが写真を展示し舟遊山を盛り上げたい。

大賀島寺は詮家が切腹した時、津和野の戻りここの僧となったと伝えられるが、島であったのであろうか。