備前軍記38


NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第36回「試練の新天地」が放送された。

秀吉は、バテレン20日以内の国外退去の追放令を出した。官兵衛と対立した。

右近は、信長に続き信心を偽れなかった。ルソンに渡りマニラで生涯を閉じた。

官兵衛には豊前7郡が与えられ4万石より12万石となった。

天正15年9月、強引なやり方の肥後の成正の所で造反の火の手があがった。

宇都宮の豊前城井谷が不穏な動きを始めた。長政が逸るのを官兵衛は抑えた。

しかし、長政は城井谷の入り口が開いたままであるのを知り出兵した。罠とは知らず。

☆戸川家記によると

一同18年、小田原御退治として、3月御発向也、浮島ケ原に於て、備前秀家と武者競可有との上意にて、秀吉公異形成る出立也、備前の勢潔白なる出立、肥後守逞敷行粧也、御手勢より備前軍粧甚宜との上意なり、此陣ニハ岡豊前守ハ不立、肥後守一家老として進発す、山中の城責落、翌日、湯本迄責寄、秀吉公松出御本陣なり、肥後守ハ備前の先手にて、湯水之北の山によぢ登り、小田原城首尾に至る、城近し、城内より鉄砲を打て山の峯へ不被

出し、鉄砲可放様なし、中吉与兵衛百挺之頭にて、足軽召連来りて、前二者不被出故空へ放ちける、是ニ而合戦始る音す、天下の御旗本ハ向ふの松山なれハ、近ふして聞へ、則、為上意御使被ド、糒・酒樽卓散に拝領す、堅固に可持固よし御掟也、備前三家老ハ  日替りに先手す、今度ハ押掛りの事なれハ、肥後守首尾(尾首)の山へ押詰陣を取る、長船紀伊守其日の先手に当る故、延原土佐守組頭にて旗印足軽とも押立来る、戸川玄蕃(肥後守弟、後助左衛門)跡勢が具して来る、延原言、今日ハ紀伊守番日なり、玄蕃殿待給へといふ、玄蕃鎚を取て怒て言、何と申そ土佐、敵に向て跡役とて可退か、戦ニ向て戦ニハ当番等にす迚、其場を可渡様なし、宿老歴々なれとも、一足もやるましと鎗を取 て馬より下る、玄蕃(16才也)佐功者ニて、玄蕃殿若して強情なり、尤とて拍て先へ押しむ、中村弥右衛門といふもの旗奉行ニて来る、始紀伊守組子に居たる者也、土佐組の内より言、弥右衛門ハ昨今迄同組ニ居て、今此定を破り不知顔に押と言、弥右衛門返答に、紀伊守殿組ならハ其趣ニすべし、今肥後に従ヘハ不用、武士道不知して申かと言て、旗を進めて尾首山に登り、旗を建けり、是より後此寄口を不去して、柵を振り井楼を上ヶて大筒を打ける、以後金堀を呼て穴を掘、櫓へほり付けるニ内より砂を炒て懸ける也、諸手ともに如此落城迄相詰攻之、其後、小田原滅却して埓明き、奥州へ御進発、備前宰相秀家も御供也、しら川におゐて検地承り、肥後守組家人等を出し、急に検地調ひ、御帰陣の後、賞美金銀等被下、此小田原陣ハ、所々の手様々の城責ニ品あり、備前の手の構ハぬ事ハ不戴之

一同19年の頃、浮田宰相秀家成人ましまし、器量といゝ公儀人前熱申計、天下の御壻にて御威勢盛んなり、家老分ハ代る代る大坂へ詰る、岡豊前守宿老にて、勇武人に勝れ、才智有て、能臣と世にも言へり、秀吉公の御前能して、物事に付て言上して勤之、備前の国仕置、大坂屋鋪ともに一人して申付るに、異儀(議)言ものなし、公私ともに順に熟して、誠に秀吉公の全盛といふへし、肥後守ハ豊州壻たるに依て、家臣の内ニは打続て威あり、大坂幕下に奉進勤、其夏夜に、秀吉公秀家の亭に御成あって、涼所の茶屋に御座、小西摂津守御前にあり、明年高麗御進発の軍儀(議)、茶屋廊下に肥後守踞る、肥後守罷出此様子承り候へと御諚ニて、掾(緑)の上に畏る、小西朝鮮の事を手に取るよふに申上る、御機嫌不斜、御座鋪へ入御の時、茶屋と座敷の間に土檀あり、肥後守負候へと上意にて、奉負て掾に上る、扨々強き負様哉と御褒美なり

 

 

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