4月 2015 のアーカイブ

市久の風 岡山市民病院

2015年4月13日

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P10503921 矢坂山ツツジ祭 魚見山
一人ノーベル文学賞候補が?

2 市民病院のリハーサルに入る有名病院システム東京から

3 二科展候補写真
明日より天神山文化総合センターで写真展あr(岡山写真研究会主催)

多忙につきダルマにナりそうな生活の中で各種旅行記を読み(趣味人クラブ仲間)各地日々の状況がわかり感謝している。
年を取ると誇大夢想癖がでてくるのか?
今朝5時30分に自宅を出て西環状線で2号国道に向って歩き、御南中学・岡山県南部健康づくりセンターまで歩いていった。6時ごろスパイグラス喫茶店に行くと店主が準備しているところに出会わせ、雨宿りがてら入って  8時ごろまで邪魔をして、昨日の選挙結果見るため山陽新聞を開いたが、結果がすぐにわからず店主によると読売新聞に出ていると見るとW市議員ブービイ当選しているのを見てトップ当選より素晴らしいと大喜びした。そもそも、結婚した当初スポーツが苦手で人に会うと赤面して大汗をかいていた。ところが、岡山c.c.の会員となり1月もならないのに記念大会があり、出場して結果BBだった。最下位は途中棄権とか。そして、表彰式に出てしまって岡山経済界のトップの並ぶ中で表彰された。
当然会社も中途でゴルフどころではなっかた。それでも1度は優勝すぞと密かに通って何年か後に月例で優勝した。
格別美味しいモーニングをご馳走になり、8時30分ごろ出てW議員にお祝いを一言述べ、力足らなかったこと詫び又スパイグラスに戻り雨のため家内を呼びかえった。
そして、国際医療センターになるべくこれから市久が支援すべく各所に連絡をとった。
4月19日(日)には誰でも見学できるので連絡するとO君が姫路に行く途中北長瀬駅で合い見学してもよいとのことであった。

花見

2015年4月9日

矢坂山ツツジ祭再掲

ツツジ種配布予定

Ⅰ部 桜・ツツジ散策会 9時30~

雨天:散策中止 集合:平成27年4月11日(土)9時 大野コミュニティーハウス( 岡山県岡山市北区大安寺東町23−21 )

出発:9時30分 会費:無料

昼食・飲物:各自持参

行程:→魚見山 →スベリ山 →富山城二ノ丸跡 →本丸跡 →鯉ヶ池 →野山尾根 →野山見晴台 →二ノ丸に戻って昼食→法事古墳→大安寺駅方向 →ハウス帰着

Ⅱ部 講演会 14時~

演題: 富山城主浮田詮家は伊賀忍者か?(仮題) 講師:坪井 章

場所: 大野コミュニティーハウス

受付: 14時より

定員:50名(予約要)、定員になり次第〆切

会費:500円(資料代など)  P1030028 つつじ登山ルート P1040141 P1030559 P1030004 P1030018

[市久の風」 1-1 白石の渡

2015年4月6日

岡山市民病院の「北長瀬の風」にならって「市久の風」をシリーズ公開する。
これは最近無くなれたS氏を偲んで書く。
S氏は早くより自分史を準備されていて亡くなる直前に持ってきた下さった。
「幼少時代 芳井町與井の思い出」
岡山大学医学部図書館に寄贈するつもりでおかやまメディカルテクノに持って行ったところ、後に本人が困るとのことで又持って帰った。この本に書いたあったか、岡山の三高があって医者になるため多くの人が行った。この当時は、東京はもちろん全国どこにもなく、その同窓生の中には京都の3高に進んだ人もいたようだ。すでになくなっているので聞けないが、岡山県人はおとなしく「それを云うと忙しくなるためか」書き残したものが少ない。
「御南小学校区に残る 昔話・文化・文化財・歴史」
この17ページに「日美葦原」の位置を確定し、電子町内会にも載っている。非常にこだわって多くの専門誌・地元の人の意見も入れて書いている。
また、大野村史に載っている貝原珴璋さん今村役場に勤めて有名な人などわからないことをいろいろ聞いた。
そもそも、今の白石橋の辺りに渡しがありその船頭が中山道に住んでいた。今の白鬚神社(中山道)は松島?のこじまだった。北長瀬は白洲で沖は海だったとバスガイドが
言ってたように思う。
戦国時代には久米の鉄鋼団地に松田屋敷があり、御津の玉松城より身延山に今保港より出たと大村家文書に残って居る。
豊臣秀吉が高松城水攻めの後、足守川を下ったほうが早かったはずが文献が残っていないのも不思議だ。
つれづれ
写真

修理中の旧国道二号線 橋の下の留めた釣り船 トリックアート?P1050198 P1050279冊子 P1040939学童歩道橋 白石橋この辺りに渡しがあったか もしくは 山陽本線下辺りか 自転車が放り捨てある 芸術亭写真 二科展候補

日記カテゴリ

三島中州

2015年4月5日

5j寺半より散歩に出かけたら、豆で市民病院周りで戻ってきた。3800歩止まりだった。最近8時の朝食までには9000歩歩いているため12000歩毎日目標が厳しくなる。
昨日は午後倉敷市中島の実際寺500年祭で近くの公民館で三島中州について紙芝居と東京の二松學舎大学教授の町泉寿郎氏講演がありビデオ撮影に行った。
1830年現岡山県倉敷市中島に生まれる。1843年、備中松山藩の山田方谷に、1852年からは伊勢国(三重県)津藩の斎藤拙堂に儒学を学んだ。1854年の黒船来航の際は江戸に出向き、危機感を抱いて著した書物が認められ、帰郷すると藩への出仕を勧められた。翌年には再び江戸に上って昌平黌に入り、佐藤一斎や安積艮斎に師事、1859年、故郷に戻り、藩校有終館で陽明学を教えた。中洲は儒学を重要視する一方、技術面では西洋の良いところを取り入れることを献策していたため、尊皇攘夷思想たちには疎んじられていた。明治維新後は政府の大審院判事に取り立てられたが、やがて政府の財政難によって退職し、自宅に漢学塾二松學舍を創設し、二松學舍大学のもとを築いた。
方谷の老年期、亡き後、高梁のために渋沢栄一などに働きかけ中国銀行の祖国立86銀行設立など尽力した。
写真 講師 町泉寿郎氏
紙芝居 絵 森谷いずみ氏
実際寺 三島中州「生歯の碑」があるP1050104 P1050111 P1050125

岡山市民病院「北長瀬の風」

2015年4月4日

表題は5月7日オープン予定の岡山市民病院の広報誌である。インターネットで読める。「市久の里に新しいい風が吹くか」4月17日には市民誰でも見学できる見学会が開かれる。
Vol.4によると1~3階設備や8階建ての病棟が紹介されている。
岡山環状線に隣接し、山陽本線10分ごとに電車来て新幹線駅岡山の隣、さらに岡山空港からのアクセスも30分と勿論屋上にはヘリポートがる。
国際的にも患者、見舞い、もちろん高度以上技術をもった医師、技術者、医療機器、スタッフすぐにこれる条件が整ったいままで地方で見たことがない。さらに数年後には広大な公園ができるとは!
さすが医療都市岡山と言いたくなる。
ところが、毎日周りを散歩する。
今朝、立ち入り禁止かもしれないが、6階の駐車場上がった。車と同じように屋上まで上がって写真を撮った。
気になることはオープン前とはいえ勝手に入れた点だ。階ごとにパトライト警報がなるため、監視システムがあるのではあろうが。
また、駐車番号が無いためどこに止めたかわらなくなる患者さんがでるのではないかなど気が付いた点がいつかあった。
見学会・オープンが楽しみだ。。P1050064 P1050069 P1050070
写真 大安寺中等校・新幹線・矢坂山
岡山駅方向
岡山環状線 奥 吉備の中山

宇垣一成

2015年4月3日

岡山の偉人で忘れらた。軍人で総理となり天皇よりその組閣を言い渡されながら、軍から妨害されまた当時国民から支持されながら断念した人物。
それも備前松田の筆頭家老でありながら下記のように流矢にあたり松田家の滅亡前夜のことである。そして宇垣家は庄屋を務めていた頃もあったであろうが一成のころは小作並みの生活となっていた。その生涯は、日記として記録されている。
大正末期から昭和初期にかけて長州出身者に代わって陸軍の実権を握り、宇垣閥と称される勢力を築いた。陸軍大臣として宇垣軍縮を断行したほか、クーデター未遂計画である3月事件に関与した。予備役入り後に組閣の大命が下ったが陸軍の反対で頓挫し、以後も幾度か首相に擬せられたがいずれも実現しなかった。短期間外相を務めた後公職から引退し、戦後になり参議院議員となったが在職中に死去した。
昭和12年(1937年)に廣田内閣が総辞職した。重臣会議において宇垣が指名され組閣の大命が降下したが、宇垣軍縮や三月事件における宇垣の対応に反感を持つ陸軍が陸相を出すのを拒否したため組閣流産となった。
組閣大命の下る前、昭和6年(1931年)の満州事変、翌昭和7年(1932年)の五・一五事件、翌昭和8年(1933年)の国際連盟脱退、昭和11年(1936年)には二・二六事件など、軍部による策謀や日本の国際的孤立化、さらには陸軍皇道派などによるテロ事件の発生、新聞報道による政治批判と政党政治の腐敗による国民の政治家不信などにより政情が不安定化していた。そして、それをきっかけとして軍部の政治への干渉が著しくなり、危険な戦争への突入が懸念された。
慶応4年(1868年)備前国磐梨郡潟瀬村大内(現・岡山県岡山市東区瀬戸町大内)
標高222メートルの臥龍山頂に本丸を置く金川城は、旭川と宇け川の合流点にある要害である。
松川氏の遠祖は、相模国足柄郡松田村を領地としていた。備前岡御野郡へ移住したのは、鎌倉幕府の命により、伊福郷の地頭となったためである。
松田氏は南北朝のはじめは備前守護職であったが、その後台頭した赤松氏に守護職の座を譲り、守護代となった。
赤松氏の勢力が衰退し、浦上氏が勃興すると、備前の制覇をあらそって戦うが勝敗は定まらず、備前を東西に二分して併立することになった。
直家は名門の松川氏を滅ぼし、その領地を併呑する機をうかがっていた。松田元輝は日蓮宗の熱心な信者で、戦国乱世に生きる武将としては、攻撃本能に欠ける人物であった。
元輝は、わが領内の寺々を日蓮宗に改めさせ、従わなかった金山観音寺、吉備津宮などを焼きはらい、金川城の二の丸、三の丸に日蓮宗の道場を建立した。
このため、家中の侍衆、領内の百姓のなかには元輝の措置を憤って、他郷へ退散してゆく者が多かった。
直家は金川城下の内情を探索し、元輝を計滅する好機であると思ったが、松田の家老、横井土佐、宇垣市郎兵衛らが家中を統制しているので、つけいる隙がなかった。
横井土佐は医術にくわしく、領民の病む者を療治して、仁愛の聞こえが高かった、宇垣市郎兵衛とその弟与右衛門は、謀臣である。直家は彼らを抹殺せねばならない。
海雨も近づいた頃、直家は亀山城から金川城へ出向き、元輝に会った。
「それがしが今日推参いたせしは、鹿狩りを所望いたしての事でござるのじゃ。ともに狩倉をいたそうではないか」
元輝は誘いに応じ、長男元賢とともに鹿狩りに出向いた。
人勢の勢子を繰りだし、狩りをおこなっているとき、宇垣与右衛門が流れ矢をうけて死んだ。誰が射た矢であるか分がらなかったが、元輝は詮議をしなかった。宇喜多家の家来が誤射した疑いがあったが、調べあげれば、直家との好誼をそこなうおそれがある。
宇垣市郎兵衛は、弟が直家に謀殺されたと察知して、主君元輝に進占しようとしたが、わが身辺に直家の放った刺客の于がのびているのを知って、遁走して三村元親を頼った。
(宇喜多直家より)000053676宇垣 Kazushige_Ugaki_with_signature

甘酒

2015年4月3日

4月11日の矢坂山ツツジ祭に甘酒を振舞おうと準備している。
所が、意外と難しいことの事に気づき難儀している。
それでも市販品にないスペシャルドリンクが完成した。
甘酒の起源は古墳時代に遡り、『日本書紀』に甘酒の起源とされる天甜酒(あまのたむざけ)に関する記述がある。古くは「一夜酒(ひとよざけ)」または「醴酒(こさけ、こざけ(「濃い酒」の意))」と呼ばれた]。

かつては夏に、「甘い・甘い・あ〜ま〜ざ〜け〜」などの文句で行商も多く、俳句において夏の季語となっている。夏に飲む場合は夏バテを防ぐ意味合いもあり、栄養豊富な甘酒は体力回復に効果的ないわば「夏の栄養ドリンク」として、江戸時代には夏の風物詩だった。守貞漫稿には、「夏月専ら売り巡るもの」が「甘酒売り」と書かれており、非常に人気がある飲み物であった。当時の江戸幕府は庶民の健康を守るため、老若男女問わず購入できるよう甘酒の価格を最高で4文に制限しており、武士の内職としても甘酒造りが行われていた。
甘酒には、ビタミンB1、ビタミンB2、ビタミンB6、葉酸、食物繊維、オリゴ糖や、システイン、アルギニン、グルタミンなどのアミノ酸、そして大量のブドウ糖が含まれているが、これらの栄養はいわゆる栄養剤としての点滴とほぼ同じ内容であることから、「飲む点滴」と称されることもある。
そもそも、H社に入社したとき、新建材開発研究から、バイオテクノジーに転嫁するため、面接のとき基礎研究をやりたいと云ってしまった。そして、O大学の大原農研(元クラレ)に行き、S先生に指導いだき襖培養をした。そこで、翌年の春ごろグルコアミラーゼの結晶化に成功し東京で発表した。所が、帰って電気泳動でみると、2つに分かれていて「アイソザイム」の発見となった。前職が外資系で英文投稿した。今では、異性化糖などブドウ糖生産技術で教科書にも出てくる。当時医学分野では海外で知られていた。
写真 雑然としているが、おかゆを炊いて麹を入れ保温50~60℃10時間で甘酒の出来上がり。
麹菌で米麹も出きる。P1050061