ツツジ祭 4/7

投稿日 2018年3月30日 by tsuboigenzaemon
カテゴリー: 未分類


ツツジ鑑賞会20170408dvd%e7%9b%ae%e9%8c%b2k1ツ ツ ジ 祭

平成3041日 

「市久会」「矢坂山を語る会」

春雷が鳴り、梅、曙にウグイス小鳥が蜜を吸い庭が騒がしくなりました。既に桜の開花が伝えられ矢坂山の山桜と山ツツジが楽しみな季節になってきました。

今年も。多くの話題の中より2題を選ました。

 

日 時 : 平成3047日(土)

 9時より16

場 所 :ツツジ鑑賞会  9時より自由登頂など各登山道ただし、ボランティア同行要

 オープン 大野コミュニティーハウス集合 岡山市北区大安寺東町23-21

講演会     1330分より  50名 申込順

演 題:①石井寺・富山城から高松城水攻め     岡山市文化財課  高橋伸二氏   

②岸一太物語「葬られたツルギ号の秘密」近日出版  市久会  坪井 章氏

      

会 費 : ツツジ祭 無料(飲物・昼食など各自)  講演会 500円(資料代)

申込書

  ツツジ鑑賞会 講演会
お名前  
連絡先  
Tel/Fax E-mail  
参加項目    

※参加項目に○、 ないし人数を記入願います。お手伝い頂ける方申し出下さい。

事務局

〒700-0961 岡山市北区北長瀬本町25番14-5号 Fax 086-252-0007 携帯 080-1930-6282

E-mail tsuboi@ballade.plala.or.jp ブログ https://tsuboigenzaemon.wordpress.com/

企画案  ツツジ祭・ 講演会のボランティア募集

投稿日 2018年3月4日 by tsuboigenzaemon
カテゴリー: 未分類


ツツジ鑑賞会20170408

首都岡山計画首都岡山計画ツツジ鑑賞会20180301

例年より欲張った企画をつくりました。

100年後を見てゆっくりと楽しい日本・岡山さらに世界を見て、平和になると良いです。

特に矢坂山は危機的状況にあります。

ツツジの苗を頂けると幸いでです。また、不要な本、登山用品、DVDを頂けると幸いです。

更に良い案を募集していましす。

寄稿      首都岡山計画
 友人 平田幸治(中区福泊)
 ながらかに続く緑の丘、その前方に広がる紺碧の海。雲一つない青空に明るい太陽が燦々と輝いている。極めっきは、丘の上で回っている白い風車だ。どことなく異国を感じさせる、印象的な絵だ。・高嶋哲夫著『風をつかまえて』 「プロローグ」から引用 この小説の内知町の小学生の絵には白い風車が描かれているが、その町には小説が始まる時点では風車はない。だが、白い風車を絵に描けば、風車のある風景になる。
 人間が想像すれば新しい何かを創造することができる。
 さて、先の衆議院議員総選挙で11回目の当選を目指す自民党の逢沢一郎さんは総決起大会の岡山市民会館で「・・未来の岡山首都計画」を提言した(2017年10月18日)。「学者を動員しても・・」と踏み込んだ。
 壇上の和気健・白由民主党岡山市議団長は、未来への公約とも感じた。
 私は和気さんに本紙への寄稿の依頼をうけて後、逢沢さんに確認した。「岡山首都計画の勉強を始めました。勉強研究の準備段階です」というお返事だった。
 和気さんには、この逢沢さんの岡山首都討画には思い当たることがあった。冒頭引用した作家・高嶋哲夫さんの著作『首都崩壊』 (幻冬舎、2014年刊)の逢沢さんのセミナーで首都を吉備高原に移設する案を聴いたのである。
 そして、2018年1月5日「あいさわ一郎年始会」で、逢沢さんは「(岡山首都計画は)例え1O年、100年かかっても・・」と述べた。和気さんは自民党岡山市議団長の同挨拶で、逢沢さんの「岡山首都計画」に賛同した。
 岡山は多角的見方で日本の中間に位置し自然災害も少なく空港や新幹線が整備されており大規模災害の際にも首都機能を十分果たすことが可能だと考えられる。
 和気さんは、岡山首都計画を考える上で適地の核は岡山操車場跡地公園ではないかと考えている。まず絵を描いてみることが大切である。 (ひらた こうじ) 了
 和気たけし

(企画案)ツツジ祭 & 講演会ボランティア募集
平成30年 3月1日 
「市久会」「矢坂山を語る会」
寒四温で日ごとに温かくなり、矢坂山の山桜と山ツツジが楽しみな季節になってきました。
世界遺産登録準備として署名講演協力よろしくお願いたします。
日 時 : 平成29年4月7日(土)~15日(日)
 10時より16時
場 所 : ツツジ鑑賞会  9時より自由登頂など      各登山道ただし、ボランティア同行要
• オープン    大野コミュニティーハウス集合 岡山市北区大安寺東町23-21
• 会期中講演会  正野田公会堂・北長瀬公会堂など

講演会     10時より 各会陽 50名 申込順
演 題(例):①納豆と焼酎のちょっと良い話 倉敷芸術科学大学特任教授 須見洋行氏    ②―日本初の飛行機を作った医師-岸 一太  市久会   坪井 章氏
      募集中 (年齢は問わない)
        要旨 裏面
会 費 : ツツジ祭 無料(飲物・昼食など各自)
          講演会 500円(資料代)

北長瀬北口近く 何処でも、何時でもバスのテスト(中鉄)
他 多くの企画募集

申込書
ツツジ鑑賞会 講演会
お名前
連絡先
Tel/Fax E-mail
参加項目
※参加項目に○、 ないし人数を記入願います。お手伝い頂ける方申し出下さい。
事務局   

 赤羽飛行機製作所と日本飛行機製作所

投稿日 2018年2月22日 by tsuboigenzaemon
カテゴリー: 未分類


赤羽飛行機製作所創立披露と将来の計――川上中尉の帝国義勇飛行会と馬詰氏の中央飛行学校――中島機関大尉予備役編入と「退職の辞」――川西清兵衛氏と提携、合資会社設立――佐藤氏の高度記録――第三次練     習生に飯沼、後藤、田中三氏――沢柳主事の退職――フランス戦線で山中忠雄氏殉職――航空関係出版物の沈滞

 

赤羽飛行機製作所では、工場内に埼玉県大宮の氷川神社から猿田彦命の御影を勧請して赤羽神社を建立し、岸博士自ら衣冠束帯で奉仕してした。

職員には井上武三郎中尉が操縦主任に、宗里悦太郎氏が機体工場長に、佐々木利吉氏が機械工場長に、それから原愛次郎氏は技師長に、また時事新報社員で飛行記者倶楽部の古老だった知覧健彦氏が庶務主任として新たに入って来た。

飛行機はさきに巡回飛行に飛んだ一三年型モ式と今春完成の一四年型モ式のほかに、昨秋失敗の牽引式複葉機を改造した翼幅一三㍍、翼弦一㍍五〇、全長九㍍の複座機があり、いずれも同工場製のルノー式七〇馬力が装備されていた。

岸博士は飛行場と工場施設の一段落を待って十月二十八日、ついに明治四十二年以来の刀圭界引退の披露宴を帝国ホテルに張り、内務大臣後藤新平子爵、逓信大臣田健治郎、農商務大臣仲少路廉、田中館、横田両博士らを初め、朝野多数の来賓を前に将来民間航空工業にたずさわる決意を披歴(ひれき)し、博士得意の剣山から産出のモリブデンで造った小刀を記念品として来賓に贈った。その小刀の鞘(さや)は全部梨地で柄には飛行機と発動機を金蒔絵(きんまきえ)し、身鞘には聴診器を描いた六寸五分のものだった。

越えて十二月一日、飛行場開場式をあげ、この日も多数参列者を擁して井上中尉はモ式一四年型で飛行場附近を縦横に飛んだあと、東京にあしをのばして赤羽飛行場開設披露のビラをまいて帰り、更に五日にも原氏同乗で東京に飛び出したが、発動機の故障で洲崎埋立地に不時着し、修理の上、翌日正午、帰還した。

完成した同飛行場のおもな施設は四機収容の格納庫、飛行機体工場、発動機工場、製鋼所、電気炉、本部事務所、宿舎など各一棟である。

開場式当日、岸博士は「飛行場設立の主意は兵器、武器の研究、すなわち飛行機、発動機、進んでは潜航艇の研究製作にある。そしてかかる研究事業は決して営利ということと両立しない。私の如き算盤珠(そろばんだま)に縁の遠い人間に最も適当した仕事である」とあいさつして抱負の一端を述べた。

近く少年を主にした飛行学校を開設し、飛行機操縦、自動車運転練習生五〇名くらいを収容して修業期間を一年半と予定しているが、練習費はガソリン代だけの実費にするか、それとも外国の例を参考にするか考究中である。

一方に、日本飛行学校で指導の任を頼まれていた川上親孝中尉は早くも九月末、同校を去って帝国義勇飛行会を発起し、事業として飛行学校を創立する計画で大森池上の本門寺附近に事務所をかまえて寄附金募集を開始していた。学校は自動車の運転からはじめ、飛行機は軍隊式に養成する方針を発表し、校長に吉井幸蔵伯爵をかつぐ奔走をしていたが、結局義勇飛行会も学校も実現を見るに至らずして挫折してしまった。

またフランス帰りの徳島県人馬詰駿太郎氏は代々木練兵場近くに寓居(ぐうきよ)をかまえたが、これも中央飛行学校の設立をもくろみ、数寄屋橋附近の某ビルディングにある某氏の事務所を借りて足場とし、退役海軍大尉鳥山嵯峨吉、前記の元陸軍技手河本清一、小林末吉氏らを語らつて飛行機と自動車練習所開設運動を始めて見たが資金が続かず、これまた画餅(がへい)に帰した。

前にも記したが、馬詰氏はなかなかぶ弁舌家で、時には侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を吐いて傾聴させることもあったが、フランスに従軍中の経歴も自称するほどにはつまびらかでないところから、次第に誰いうとなく「口で飛ばす飛行家」として有名になり、本人も別にそれに対して異議を申し立てず、よく向つ腹をたてる性癖でいながら.この陰口には本気で腹も立てなかつたようだが、わが軍民航空界に対する不平を絶えず口にのぼせ、感情家だけに昴(こう)じて来ると聞くにたえぬ罵詈(ばり)雑言を弄んで、ひとり快しと

している風があった。

さて待命中の中島機関大尉は十月末、願いの通り予備役に編入されたが、これより先き同氏の飛行機製作会社設立企図を聞いて、大沢の小山荘一郎氏がわが事のように駆けまわり、神戸の雑穀商石川茂兵衛、同茂という兄弟を見つけ出して、これを中島氏に結びつけ、数万円程度の出資契約が成立した。そこで大尉は郷里群馬県太田町の呑竜神社裏、東武鉄道会社所有の元博物館の建物を買収して工場兼事務所、製図室とし、同時に新田郡尾島町と埼玉県大里郡男沼村地先の利根川べり官有地河原二五万坪に目をつけて飛行場敷地の運動を開始していた。

大尉と小山氏の関係は先年、アットウオーター氏が関西で飛んだ時に見学のため出張した折、知己となり、その後、故幾原氏の飛行に際し、大尉は陸軍の故重松中尉と一しよに命令をうけて、その飛行機の整備点検を指導援助した当時、ともに肝胆相砕いた間がらで、今度の斡旋(あっせん)も民間に人のない時、この有為の技術家を守り立たせることの必要を痛感した小山氏の義侠(ぎきよう)と成功でもあった。

しかしわずか五万円そこそこの資本では立ちどころに行きずまり、石川氏兄弟の紹介で新たに川西清兵衛氏の長場となって、はじめて合資会社日本飛行機製作所の設立を見るに至り、また尾島の飛行場は飛行協会借用の名義で埼玉、群馬両県から使用許可を得る段取を作るなど、大尉は一介の武弁や技術家ではなく、なかなかの政治的手腕を蔵していた。

そして十二月二日附、先見の明と洞察を名文卓説に披歴して「退職の辞」を印刷に附し、先輩、同瞭、関係知己の間にくばった。

「宇内の大勢を察するに地上の物資は人類の生活に対し余裕少なく、各国家は互に利の打算に急にして今や、利害のためには国際間に道義なるものを存せず、紙上の盟契、条約の如き殆ど信頼の価値なき事例は欧洲大戦に於て公然と実証せられっっあって、国交は恰も豺狼(さいろう)と伍するが如し。故に国防の機関にして完全ならざらんには国家は累卵(るいらん)の危盤に坐するが如し。而して国防の要義は国家が亨有する能力の利用によって国家を保護するにありて、其の主幹は武力ならざるべからず、故に戦策なるものは其の国情に照らして劃立するを要す。強大なる資力を有し、富に於て優越点を把握せる国家又は四囲の関係より富力を基礎として国防を成立し得る国家は全富力を傾注し得る戦策、即ち富力単位の戦策を採るを最も安全有利とす。されど富力を以て対抗し得ざる貧小なる国家は之と正反対の地位に立つ。即ち富力戦策は必減の策にして危険この上なし。翻て帝国の国情や如何ん。究竟するに我が対手国は欧米の富強にして我が帝国は貧小を以て偉大なる富力に対す。故に富力を傾注し得る戦策に依りて抗せんか、勝敗の決既に瞭(あきら)かにして危険これより大なるはなし。然るに現時海国国防の主幹として各国家が負担を惜まず、其の張勢に努力しつつある大艦戦策は実に無限に富力を吸収するものにして、所詮富力単位の戦策に外ならず、是れにして永続せられんか、皇国の前途は慄然寒心に堪えざるなり。惟うに外敵に対し、皇国安定の途は富力を傾注し得ざる新武器を基礎とする戦策発見の一あるのみ。而して現代に於て、この理想に添う所のものは実に飛行機にして、これが発展によりては能く現行戦策を根底より覆(くつがえ)し、小資をもって国家を泰山の安きに置くことを得べし。夫れ、金剛級戦艦一隻の費を以てせば優に三千の飛行機を製作し得べく、一艦隊の費を以てせば能く数万台を得べし。彼に飛行機相互の間隔を最小限五百米となすも、五万台の単縦陣は一万五千哩の長きに達す。この地球の直径も尚、八千哩に過ぎざるの事実に想倒せば、人類の能力及び現代の通信機関を以てしては斯かる多数の飛行機隊を同時に指揮操作し得べしとは思われず、況んや一局地に限らるべき戦線に使用し得べき両軍の飛行機数は自然、大ならざる制限の下に立たざるべからず。

即ち飛行機に集注し得る資力には大ならざる限度あり、この点に於て国防上の強弱には貧富の差なきを得べし。而して三千の飛行機は特種兵器(魚雪)を携行することにより、その力遥かに金剛に優れり。斯くの如く飛行機発達の如何は国家の存亡を支配す。故に欧米飛行界の進況如何に拘らず、我が帝国は独特の進歩発達を企図せざるべからず。然るに事実は大に之に反し、我が飛行界の現状は其の進歩遅々として欧米の進勢に比すべくもあらず、常に数段の隔おり、随って飛行隊の如きも微々として振わず、実質に於て存在の価値だになし。是れ実に国家を挙げて最大恨事たらざるべからず。而して我が飛行界不振の原因は種々多岐に亘ると雖も、その主因は製作工業が官営たるの一事に坐す。進歩激烈にして具の製作短時日に成る工業を、初年度の計画が議会の協賛か待ち、翌年度に於て初めて実施時期に入るが如き政府事業を以てするは、既に根本に於て不適と云わざるべからず。斯かるものは其の実施に関する諸般の行使が縦横自在なる機関に委し、始めて其の目的を達し得べきなり。実に飛行機は完備せる工場に於てせば計画製造まで一ヶ月の日子を以て完成するを得、故に民営をもって行う時は一ヶ年に十二回の改革を行い得るか、官営にては正式に云えば僅かに一回のみ。故に官営の進歩は民営の十二分の一たるの理なり。欧米の先進諸国が飛行機製作を官営兵器廠にて行わず、専ら民営に委ね居るの事実は一にこの理に存す。斯く帝国の飛行機工業は今や官営をもって欧米先進の民営に対す。既に根本に於て大なる間隔あり。今にして民営を企立し、これが根因を改めずんば竟(つい)に国家の運命を如何にかせん。実に飛行機工業民営企立は国家最大最高の急務にして、国民たるもの皆、これに向って奮然、最善0努力を傾注するの義務あると共に、この高尚なる義務の遂行に一身を捧ぐるは是れ人生最高の栄誉たらざるべからず。

不肖爰に大に決するところあり、一世の誹毀を顧みず、海軍に於ける自己の既得並に将来の地位名望を捨て野に下り、飛行機工業民営起立を劃し、以てこれが進歩回忌に尽し、官民協力国防の本義を完うし、天恩に報ぜんことを期す。今や、海軍を退くにあたり、多年の厚誼を壊い、胸中感慨禁じ難きものあり。然しながら目標は1貫国防の完成にありて、野に下ると雖も官に在ると真の意義に於て何等変るところなし。吾人が国家のた  め最善の努力を振い、諸兄の友情恩誼に応え得るの日は寧ろ今日以後にあり。ここに更めて徒前の如く厚き指導誘腋を賜らんことを希い、併て満腔の敬意を表す」

 

剣号と国民飛行会提携の巡回飛行

投稿日 2018年2月14日 by tsuboigenzaemon
カテゴリー: 未分類


岸博士の剣号完成と発動機製作経過談――国民飛行会と提携――山陰、四国、九州各地飛行――町田鉄之助氏のヤマト・メタル――牽引式複葉の剣号新造――磯部氏と滋野男爵の音信――在米飛行家の動静――大植松太郎氏の殉難

 丹精こめた自作発動機が小畑氏の機体に装備されて、ものの役に立ったことは岸博士に大きな感激と勇気を与え、築地明石町の病院構内に新たに工場を建てて機体の製作にも着手したのが今年二月ごろだった。
 機体は旧型のモーリス・ファルマン式で、国産材料を集めて宗里悦太郎氏が主任で工作にあたり、発動機も落選の懸賞発動機を分解取捨し、既成の部分品を装着してわずか一ヵ月で同型の二号発動機を完備して新機体に取り附け、「剣(つるぎ)号」と命名して試験飛行のため東京洲崎埋立地に運び出した。
 剣号の名は博士をして、ここに躍進せしめたモリブデンの発祥地剣ケ嶽に由来したもので機体、発動機ともに国産品をもって全く一人の手に成ったわが民間最初の飛行機である。
 七月一日、井上武三郎中尉が前後二回の飛行に成功したので、翌二日は飛行記者倶楽部員その他を招待して披露飛行し、正味一時間一二分を見事にやってのけて国産機に輝かしい記録を樹立した。
 その席で、博士はここに至るまでの経過を語った。
   「幸か不幸か、私には一つの癖がある。他が為し得ない至難のものがあれば進んでやって見たくなり、それを完成しないうちは如何なる犠牲を払っても中止することが出来ない。物によっては馬鹿を見ることもあり、よくない癖だとも思っている。発動機に手を出したのも全くこの癖からで、ちようど欧洲大戦の始まった頃だった。機体は日本でも造り得るが発動機はまだ完全に造られるようにはなっておらぬ。もちろん、技術が幼稚だからである。技術の幼稚なのは早晩進歩するが製作材料の総てを日本で求められないのでは困る。こんなことでは戦争その他のことで発動機輸入の道が途絶えたり、輸入が出来てもその数が需要に充たなかったりしたら戦時武器として欠くべからざる要具の不足を告げ、作戦上に重要な欠陥を来すことは必然の成行きである。わが国の今の状態が改まらなければ、きっと左  様なことが実現するに違いない。この憂いなからしむるには大急ぎで欠陥を充たさねばならない。そこで私は例の癖が出て、よし、それなら自分が完全な発動機を造って見せようと思し立ったのである。それには国内で産出する物ばかりで出来るようにしなければならぬ。これを試みるには根本的に発明、すなわち創造するには及ばない。まず日本に産する材料をもって既に実用に供せられている外国製発動機の形式をもって、同じような力と生命のあるものを造って見るのが肝要で、これに成功したなら次いで自分のものを創造して本来のものよりも優秀なものに努力するのが順序であると考へたから、とりあえず陸軍省の井上工兵課長に頼んでルノー式の廃品を所沢から貸してもらって早速製図にとりかかった訳である。飛行機体を作った理由は、飛行協会の検定試験くらいでは実際の力をためすには不
  適当であるから、自分の試作した発動機の実力を実験するためにやったことである。ところが発動機も飛行機体も完全であることが確認されたから、これからはいわゆる自己の創意によるものを製作し、機体も改良するつもりで着々準備を進めている」
 そしてモリブデンと鋼鉄を合金して造ったものを、かつて自動車用発動機の要部に応用して効果をあげた例があるので、今度の第二号発動機のシリンダーを初めピストン、クランクシャフト、ペダル、ギアなどにも使った。ただしクラックケースと冷却装置にはアルミニウムを用い、マグネトはボッシュ、ボールベアリングも外国の既成品を使ったと説明した。
 それからアルミニウムは九州の某山で産出することを発見、マグネトはモリブデンをもってモリブデン・マグネト・スチールを製作して、これを自動車の発動機にとりつうけて好結果を得ている。ボールベアリングにも成案があるから結局、外国の力をかりなくても国内でりっぱに製作出来る訳であると結んだ。
 そこで博士は飛行機剣号を無為(むい)に遊ばしておくのも知恵のない話だと無償提供を条件に国民飛行会と握手し、国民飛行会でも渡りに舟と新たに実物講演部を設けて巡回飛行を実施することになったのである。
 ちようど飛行協会でも同じ型式の飛行機で各地を飛行中だったので。ここに期せずしておのずから競走の形となり、画期性のある実践運動となって従来の興行飛行をはるかに超越した純正な普及法であった。しかし国民飛行会側は途中から主催者を求め、会費と称して入場料を徴集するようになったのは民間飛行会と同類視される危険があった。
 すなわち同会では山陰方面から順次九州、四国を巡回すべく理事久能司(後に帝国飛行協会総務理事)中将総指揮のもとに八月十六日、ます松江市外古志原練兵場で最初の出発にっいたが滑走中、草叢にっまずいて小破し、二十二日あらためて第一日を開き、午前二回、午後一回にわたり、七分間乃至二六分間の飛行で、最後には松江市を訪問した。
 ここでは松江飛行後援会が結成され、松陽新報社は号外を発行して二十二日の再飛行を周知せしめる程の協力ぶりだったが、はじめて飛行機を見る地方民の純朴さはここにも表われて、関係者を感激させる奇篤な志しを発見した。それは飛行終了後、久能中将と井上中尉が同市山代神社に参詣の際である。ふと腰のまがった一老婆が社前に願がけの一心不乱なおまいりをしているのを見かけた。
 初めのうちはさして気にもとめなかったが、聞けばこの老婆は近在の農家佐野福太郎氏のお母さんで七六歳の老体だが、きのう井上中尉の飛行をきいて、その無事成就を山代神社に祈念し、半日かかって千度まいりをしたから、今日はその願解きのお礼に千度を踏んでいるのだと分って、久能、井上両氏はしばし言葉もなく、お婆さんの顔を見っめたまま感無量のものがあったという。
 松江をあとにして鳥取県に戻り、米子の皆生灘海浜で二十七日午前、午後の二回、一一分間ないし二六分間を飛び、美保湾の碧海に機影をうつしてはじめての飛行に土地の人気たかぶり、陸と海との観栄二万余を数え、村民有志が数尾の鯉(こい)を大たらいに入れて井上中尉に贈って来だ。今だったら帰りがけに積んで来てしまうところだが、その時は何ともしようがなく宿屋の庭の池に放してやった。
 九月五日、歩兵第二一連隊衛戌地の島根県浜田町練兵場で飛び、午前、午後の二回、浜甲甲学校と劇場で久能中将、井上中尉の講演を行い、翌六日も高等女学校で熟弁をふるって山陰道のプログムを終り、山口県下に入った。
 同県は長岡中将の出身地とて中ッッ上将も一行に加わって山口町の国学院中学、高等女学校、高等商業学校、劇場山口座、小郡町の小学校、防府町の中学校などで得意の講演会を開き、飛行は一七日、桜昌練兵場で十時半から開始、旧藩主毛利家に対する表敬飛行として亀山公園を訪問し、当主の毛利元道公爵も防府町から来場して記念の銀盃二個を寄贈した。
 次いで二十三日は秋町の予定だつだが連日の雨で二十五日に延び、菊力浜海岸で十一時四十分から飛び出し、去来する残雲を縫って遠く越カ浜方面まで二二分間を飛び、午後も二時五十分から第二回の飛行を行って閉会したが、長岡久能両中将及び井上中尉は小、中学校その他で講演会を開き、老体両中将はっいにのどをつぶしてしまうという奮闘ぶりだった。
 萩町から柳井町にうつり、十月一日午前十一時四十七分、宮本浜で飛行したが今度の巡回飛行中、一番の人出といわれる三万余の観衆がつめがけた。
 午後も三時四十分から飛び、はじめて見る飛行機の姿に観衆はただけげんの目をみはるのみだった。
 ここでも学校や劇場を借りて講演会を開き、一ヵ月余の長旅にさすが疲れた久能中将は一行に別れてひとり先に帰京し、長岡中将と岸博士の東京自動車製作所技師の久間九郎氏が臨時に国民飛行会実物講演部主事に嘱託されて後陣を担任することになり、一行は九州に入った。
 そこではまず大分県の宇佐八幡宮司宮成男爵の後援で宇佐参官鉄道会社と在郷軍人分会の共同主催で高田町海岸で十日午前、午後二回飛行し、午後には長州町を訪問して高厦一、〇〇〇㍍、二三分間を飛んで約束をはたしたが閉会後、主催者間にごたごたが起って結局、後援名目の宮成男爵が一、○OO余円の自腹をきったという紛擾があった。
 次ぎは小倉のはずだったが、同地は悪疫が蔓延(まんえん)しているので後日にまわして四国に渡り、松山市に入った。
 二十二日午前、午後二回、同市練兵場で飛び、その前後に長岡中将の講演があり、再び九州に戻って戸畑町に行ったが会場にあてられた競馬場が狭く、幅一三間の滑走路を忍んで離着陸し、要塞地帯のゆえをもって高度二〇〇㍍に制限されて、降りみ降らずみの陰欝な中を飛んだ。
 ここでは下関、関門両新聞社及び報知新聞社支局主催で二日間だったが、二日目の十一月一日も午前、午後にわたって観衆少なく、入場料をとって入れていた主催者側は一、〇〇〇余円の損害だったという。
 それもあしたは佐賀、福岡両県下にまたがって展開される陸軍特別大演習に参加の四機が所沢から豊橋、姫路、広島を経由してはるばる関門海峡を越え、このあたり上空を久留米へ行くという際だったから、一つには天気のせいもあったが土地柄に似ず、観衆の集りが悪かっだのは無理もないことだった。
 一行は早々に引上げて再び四国に立ち寄り、愛媛県今治町で十一月七日、さきの松山市と同じ主催者井上虎之助氏が土地の和田繁一氏と協力して内海新聞社の後援で開催し、午前十時半から二〇分間を飛び、午後は二時半から二三分間を飛行して、次第に円熟した井上中尉の操縦ぶりもあざやかに観衆を満足せしめた。

 次いで同じ井上氏主催、徳島日日新聞社後援で十九日、徳島市の番だったところ、飛行機を今治から船で送ったため風浪に遅れて二十三日に延期された。
 モ式は無蓋貨車でもトンネルを通過する線では積み切れぬ場合かあり、賃金も高いので場所によっては船の方が便利で費用も比較的かからぬところから、今度の巡回中も米子から浜田町へは海路運搬し、ことに各地の飛行はほとんど一日だけたので飛行機の解体組立、運搬には最も苦心し、また労力を費し、時間的にもむだな日数を要し、せめて近距離だけでも空中輸送の必要を痛感したのである。
 さて徳島市では午前十一時、第一回の飛行を行い、午後は三時から小松島を訪問して故幾原氏を弔い、前後一時間に近い飛行に二万余の観衆は熱狂してよろこび、入場料を払ったうえに国民飛行会の会員申込みも少くなかった。
 引続き高知、高松両市とも予約していたが既に機体にも損傷が出て来て大修繕を要する時期に迫っていだので、いったん東京へ引き上げることになり、徳島市を最後に一行は大成功裡にひとまず帰京した。
 この間、岸博士も行をともにしたが、剣号の成績にいよいよ確信を得て将来の方針をかため、二号機の製作に志したのは既に、この夏であった。しかし宗里、久間氏らは旧式の一三年型モ式にあきたらず、牽引式複葉機の設計製作をはじめ、発動機も結局ルノー型七〇馬力だったが長沼豊丸工学士専任で新造されつつあった。
 この岸博士の発動機には第一号機の造り始めから、背後にはやはり元医師の減摩令金研究家町田鉄之助氏がいて、同氏は月島に工場をもち、京橋区三十間堀にヤマト商会を経営していたが、その製造にかかるヤマト・メタルという軸承合金が億万な性能を発揮して岸式発動機に寄与したことは隠れたる功績であった。町田氏は明治二十九年以来、この合金研究に没頭して来たという篤志家である。
 そこで巡回先きから帰京した井上中尉は、ちようど出来あがった新造機を稲毛海岸に運ばせて十二月十二日、岸博士も立ち会って試験飛行に着手した。
 同機は全幅一二㍍五〇で鋭い後退角をもち、全長八㍍五五、V字型脚と前方に予備車輪がもって国産機としては新鋭の感があり、性能は一〇五㌔の速力と一三時間の航続力で宙返りも可能とされ、一見きわめて堅牢であった。
 井上中尉は牽引力を調べたうえ、地上滑走試験を開始したが、著しく左に傾く癖があり、タイヤを破損したので交換して再び滑走を始め、午後一時、慎重に離陸して二〇㍍も行ったところまた左に傾き、極力舵をひねったが回復せざるのみか、よけいに傾斜角度がついてついに左翼を接地し、次いで機尾が落ちて左下翼と尾部支柱を大破、新造機の期待は一瞬にして葬り去られたのである宗里氏はじめ立ち会いの関係者は首をひねりひねり解体して、工場に持ち帰り、同型二号機の設計し直しにとりかかった。

懸賞発動機の製作応募申込

投稿日 2018年2月11日 by tsuboigenzaemon
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飛行協会が発表した製作奨励の飛行機用発動機の応募申込は予想以上に好成績で、わずか五ヶ月足らずの期間たったが、旧暦末日の締切までに一八件二二種の多数に達し、時期尚早論を破って協会当局者をほくそ笑ましたのだった。
 実物の言否はとにかくとして、この時代にこれだけのまじめな応募者があったことに、大いいに意を強くするところであり、次表最上欄の番号は申込書類の到着順である。
 こらで見ると大阪の島津楢蔵氏が既製のルノー式改造型と、ル・ローン式を計画し、東京の岸医学博士も既に試作済みのルノー式をもって成功を期している。
 (備考)(一)直径及び行程欄中、*印はミリメートルか示す。(二)第七号発動機は回動式にして、火薬若しくはガソリソを用う。笛に相当するもの一個にして特殊の構造のものなり。
 その他、都築鉄三郎氏が某工業家と提携して進出し、浦賀船渠株式会社の町川豊千代氏、大沢の発動機製作所などの人物があり、また東京麻部布に小さな鉄工所を経営する新進の友野直二氏(後に東京都会議員)も、この時から航空界に注目される人となった。
 飛行協会ではかねて栖原工学士に委嘱して、この申込書類の整理を煩わしていたが、いよいよ近く検定委員を編成して本格的の検定準備を闘始することになり、まず新春一月二十五日、交詢社に技術委員会を開いて製作規定細則について協議を進めた。
 一方、所沢では尾崎、扇野両練習生のために体を設計し、前述の園田武彦氏からグリーン式六〇馬力の譲渡を図ったが、まとまらなかったのと、ルムプラー式の応召で急に模様替えとなり、あらためて理事会や技術委員会を経てイギリスのオホストロー・ダイムラー水冷式九〇馬力一基を買うことになって、三井物産会社の手で注文した。そして磯部技師は設計し直しの機体を製作しながら発動機の到着を待っていたが旧臘十一日、積み出され、一月末もしくは二月上句、横浜着の予報か入った。
 それと同時に初歩練習用として一三年型モーリスーフアルマン式も二台分の機休製作を進め、発動機に研究会の斡旋で東京砲兵工廠製のルノー式七○馬力を譲ってもらうことに決定していた。砲兵工廠では既に同式発動機の製作に一応は成功し、検討改善を加えつつ徐々に生産が行われいたのである。
 それについて協会には木工の熟連者を、気球研究会からまわしてもらっていたが、発励機の技術者がいないので、かねて海軍当局にその幹旋を頼んでおいたところ、ちようど追浜を満期除隊の機関兵曹鳥海正次郎氏が山内四郎大佐から紹介されて来て、技手の石で所沢飛行場に勤務することになった。
 同氏は千葉県君津郡出身の寡黙諜厳、温厚篤実な人格者で、追浜の航空術研究委員の下で発動機整備を専門に勤め、短期間だったが第二次出動部隊に選ばれて青島にも出征し、信頼性の厚い優秀な技術者だった。
 さて飛行協会では出征両航空部隊の光栄ある帰還も終了したので、一夕の歓迎察を催す手はずだったが、両部隊の郡合が照らし合わされたので二月七日夕、帝国ホテルを会場にして歓迎晩餐会を催し、その労苦と戦功をねぎらつた。
 所沢側からは隊長有川鷹一中佐、中柴末純、弘中暁両少佐、石本祥吉、益田済、伊藤赳、福井重記各大尉、佐波求己、沢田秀、中田武実、阪元守吉、真壁祐松、深山成人、武田次郎各中尉の一四氏、追浜側からは隊長山内四郎大佐、河野三古少佐、井上二三雄、大崎教信両大尉、武部鷹雄、難波即岨、馬越喜七各中尉及び和宮丸艦長猪山綱太郎大佐の八氏で、陸軍から徳川、長沢、海軍から・令子、山田、和田、飯介ら、武勲赫々の士公寂務の都合で見えなかったのに残念であった。
 協会からは阪谷副会長、日疋、倉知両常務理事、井上大佐、小川、須旧、末延、田中館、横田両博士、また会員のおもな人は警視総監伊沢多喜男、広沢金次郎伯爵、岸一太博士及び都下新聞記者団ら七一名の盛会だった。
 大広間で一竜斎貞山の講談「赤垣源蔵」の一席を聞いてから立堂を闘き、陸海軍両将校入りまじって居ならび、デザートーコースに入ると阪谷副会長が立って祝辞を述べた。
  (前略)「今回の戦略におきまして、両航空隊が奮戦努力ぜられ、少しの損害もなく最後まで任務を完全に遂行せられたことは実に特筆すべき勲功であって慶賀に堪えない次第であります。これひつよう航空隊の技術の優秀と、その勇武とを遺憾なく証明せられたものであると信じます。ことに私どもの最も欣喜おく能わざるゆえんのものは、日本陸軍海軍あって以来初めての航空戦において、かようなりっばな成積をあげられたことでありまして、これは実に帝国あらん限り、陸海車に対する偉勲であると信じております。
   すべて物には、その出発当初において少しでも磋趺するか、もしくは過失がある場合、それは実に末代までも瑕瑠(かきん)として残るのみならず、その瑕瑾はますます大となるのであります。しかもわが航空戦の第一頁を飾るべき青島戦において、最も満足なる教訓を与えられましたのはひとり現在においてのみならず、将来に向って大いに感謝すべき次第であると申さねばたりません」「下略」
 これに対して。山内大佐が両航空隊を代表して答礼の挨拶を述べ、終って有川中佐の発声で飛行協会の万歳が三唱された。

岸一太の関西での報道

投稿日 2018年2月3日 by tsuboigenzaemon
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 大正期に岸一太はつるぎ号で東京より大阪に四時間で飛んだことが東京で報道されている。
これについて、関西での報道がどのようであったか大阪府立図書館に調査をお願いした。
・『日本航空史 明治一大正編』(日本航空協会/編集 日本航空協会 1956)p 231 に、「京都伏見の小畑常次郎氏のモーリス・フアルマン式に、岸博士製作の発動機を整備して、試運転を行った」旨の記載があります。
・『朝日新聞』(東京版)1916年10月19日朝刊5頁6段の「弓より思付きし飛行機用材 岸博士新型飛行機を製作し 来月早々洲崎埋立地にて試験」の記事中に「目下『つるぎ号』を携へて関西各地に巡回飛行会を開催中なる・‥」との記載があります。
・『朝日新聞』(東京版)1916年12月29日朝刊6頁2段の「本年の航空界(下) 所謂試験時代 悲しき出来事」にて、「岸博士の其の製造業に罹るルノー型七十馬力発動機を装置した剣号が前飛行将校井上中尉の操縦に依り処女飛行に成功し、長岡中将の設立した国民飛行会と提携して関西各地に実物巡回公演を開催し、…」との記載があります。
・『日本航空史 明治・大正編』(日本航空協会/編集 日本航空協会 1956)のp 274-279 「剣号と国民飛行会提携の巡回飛行」に記された、詳細な巡回の場所や日付を確認しますと、剣号の巡回地は、山陰、四国、九州の各地となっており、大阪の記述は見当たりません。

剣号の処女飛行成功 今朝も七時から
・1916年7月3日東京/朝刊5頁2段
剣号再飛行 一時間の航空 又もや好成績/民間飛行界の誇り 成功した発動機
・1916年9月14日東京/朝刊5頁1段
島津氏二万円を貰ふ 飛行協会懸賞一等発動機 昨日賞金授与式を行ふ/一万円を貰ひ損った友野氏 次に気の毒な岸博士
・1916年10月19日東京/朝刊5頁6段
弓より思付きし飛行機用材 岸博士新型飛行機を製作し 来月早々洲崎埋立地にて試験丿916年11月26日東京/朝刊5頁5段
岸博士の新飛行機<写>
・1916年12月13日東京/朝刊5頁3段
新剣号の破壊 搭乗者の負傷
・1916年12月29日東京/朝刊6頁2段
本年の航空界(下) 所謂試験時代 悲しき出来事
・1917年10月29日東京/朝刊5頁8段記事
岸博士の引退 昨日披露会
・1917年12月2日東京/朝刊5頁6段
岸博士経営の飛行場 昨日赤羽に 盛な開場式
・1919年3月15日東京/朝刊5頁3段
赤羽飛行場に出来る 飛行幼年学校 少年飛行家を養成して 卒業後は軍隊に入営 世界最初の試み
り919年10月14日東京/朝刊5頁2段
民間飛行界覚醒の為め 大々的改造運動 磯部沢柳両少佐等が主となり同志を糾合して会合 飛行協会に対し非難のあるも無理はない と井上中将は語る
・1920年9月16日東京/朝刊5頁9段
職工給不払から赤羽飛行場の動揺 岸場長出張中に勃興 閉鎖説等流布さるるも 事務所主任は断然否認
・1915.01.10飛行発動機披露 岸博士の発明製作 朝刊技術7面
・1915.01.13岸博士の発動機 総て内地産の材料で大成功▽披露会を催▽威力を発揮 ほか朝刊技術7面
・1916.07.02つるぎ号飛ぶ 民間飛行の新威力 岸博士和製新発動機の成功 朝刊サービス
5面
・1916.07.03剣号飛翔一時間 大煙突を掠めて前日同様好成績 朝刊サービス5面
・1916.12.12剣号飛ばん 朝刊サービス5面
・1916.12.13新つるぎ号の墜落 機体多くは破壊 搭乗中尉は無事 朝刊軍事5面
・1917.02.11剣号の飛行 朝刊サービス5面
 (1-3)毎日新聞のデータベース「毎索」では、大正期の新聞についても収録されていますが、キーワード検索対象は昭和62(1987)年1月以降の記事本文のみとなっているため、今回のご質問では使用しませんでした。
(1-4)神戸大学附属図書館新聞記事文庫(神戸大学)
大正期の記事が部分的ではありますが収録されているため検索しましたが、「岸一太」や「赤羽飛行」でヒットはありましたが、岸一太の飛行機関連事業についての記事の収録は見当たりませんでした。
※日付指定のない新聞本紙の調査依頼には、合理的な方法がないため、対応しておりません。
ご来館いただき、閲覧・調査いただくことが可能です。
大正期の『朝日新聞(大阪版)』は大阪府立中央図書館・中之島図書館で、大正7年までの『大阪時事新報』と大正期の『毎日新聞(大阪版)』は中之島図書館で、マイクロ資料として所蔵しています
 (2)図書資料
下記の資料に岸一太の飛行機関係の事業について記載があります。
(2-1)『歴史のなかの中島飛行機』(桂木洋二/著、グランプリ出版、2002.4)
・p70-79の「岸の赤羽飛行機製作所と初期の国産エンジン開発」
2-2)『日本航空史 明治一大正編』(日本航空協会/編集 日本航空協会 1956)
・p 184-187 「懸賞発動機の応募二二種」「陸海軍帰還将校の歓迎と講演」
・p 231 「京都伏見の小畑常次郎氏のモーリス・ファルマン式に、岸博士製作の発動機を整備して.試運転を行った」旨の記述
・p 274-279 「剣号と国民飛行会提携の巡回飛行」
・p334-335「赤羽飛行機製作所創設披露と将来の計」

神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 道路(03-072)
国民新聞 1922.12.20 (大正11)

路面改良の変更に市正会は根本的変更意見
東京市会の市正会は十八日夜尾張町松本楼に曇に鮮満地方視察を遂げたる三木武吉、木下常松両氏の歓迎やら忘年会を兼ねて総会を開いた出席は十数名で来る二十二日の市会議案は当日午後に市会議事堂内で総会を開いて改めて協議することにし目下問題となって居る路面改良事業が国庫補助金の予定した二分ノーが十二分ノ五となり又だ大正十七年迄に交付を受くるのが二十七年度迄に内定したり府税の交付金が十二年度に受けることが出来な<又事業繰延が約五万円近くあるを大正十三年から十五年度迄の竣工期迄に割当る等の関係から公債計画を立て工事費三千九百五十万円口外に利子等に於て約三千万円の増額を余儀なくされたに付いて医学博士岸一太氏及米国の道路を視察して先頃帰った永江技師の出席を求めて道路政策に関する説明を聴取した上で協議したが大体に於て原案の路面改良事業の変更は従来の舗装計画に立脚して予算の変更を求めたのであるけれど該計画たる部分的には完全なる基礎工事を施すが為め下水管を初め水道瓦斯電線等の地下埋設物に対しては掘馨を繰返さねばならぬ関係上下水其の他の埋設物整理せざる限り完全なる舗装は困難なれば成るべくコンクリート杯の廉価なもので広<舗装するが焦眉の急であるし埋設物の整理が十分出来て居らぬ現在の実況から見ても穏当である
故十九日に開く道路評議会では自派選出の小森七兵衛、森脇源三郎両氏が舗装の根本計画から変更した提案を要望する趣旨の下に原案の否決を提唱することにして九時過散会した

データ作成:2002.3神戸大学附属図書館
神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫蚕糸業(05-009)
時事新報1914.4.5(大正3)
岸式人造絹糸
桑口の繊維素より紡出
権利仏人に帰せんとす
人造絹糸は織物界多年の問題にして其成否は帝国産業上に影響する所少からざるが医学博士岸三太氏は苦心研究の結果其一製法を完成し仏国工業株式会社理事バーレー氏は仏国ダブルレーダーシンジケートを代表し去年中旬同博士より二十万円にて権利引受けの約を結び売買委任状を携えて帰国したる由今同博士より其発明の経路を聞くに 発明の動機は一昨年夏同博士が東洋パナマの研究をなしたる節各種樹木チエルローゼ(繊維素)よりそれぞれ異種のセルロイドを生ずるを発見し桑食せる蚕より繭の生ずるは桑のチェルローゼの特異性に起因せずやと思考せしに始まれり爾来博士は多大の経費と苦心とを以て研究に従事し桑等の繊維素を漂白して之を硝化しエーテル、アルコール等に溶解したる後一定量の蜻油を加えて紡出し終に完全なる人造絹糸を製出するに至り昨月六月特許を出願し両三日中に認可状下附せらるる筈なりと
 岸式人造絹の特異点は強度著しく三デニール以上随意に紡出し得る上光沢良く従来の人造絹糸の大欠点たる湿潤煮沸洗篠に耐え感触亦絹糸と異ならざるにあり同博士は信州より織布職工を雇入れ自宅研究室にて織布に従事せしめつつあるが之亦真正絹布と相違なきに近し唯真正絹の異る点は蚕繭固有の窒素を含有せざる点なりしも是亦昨今研究の結果進捗して自然絹と類似するに至れりと而して其製産費は一千キロの装置費に約一千五百円を要するのみにしてーキロに付総製産費三円見当なれば在来の絹糸の市価に比較すれば五分の一の廉価に当る若し製造者に於てエーテルの醸造をも兼ぬる時は生産費は更に減少すべく其経済的価値は著しきものあるべしと云う
 内地事業家の交渉此の如く岸式人造絹糸は在来多種の製品と異なり其実用上の経済的価値少からざるもの存するが如くにして果して然らんには正に帝国織物界に大革命を来すべきものなれば富士紡の和田豊治氏鈴木商店の金子直吉氏等は此発明の権利のむざむざ外人の手に帰するを遺憾とし目下岸博士と交渉中の由にて同博士に於ても若し真実吾国の事業家にして引受るの誠意だにあらば仏国シンジケートに対する契約は如何にしても之を破談すべく金銭上の犠牲の如きは敢て解する所に非ずと明言せり

データ作成:2000.5神戸大学附属図書館
神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫製鉄業(05-083)
大阪朝日新聞1920.10.15(大正9)
製鉄自給と砂鉄
団鉱の製法完成
陸軍省にては軍事上製鉄原料自給策に就き焦慮しつつありし際医学博士岸一太氏より曇に帝国内に豊富なる砂鉄を圧搾熔結して団鉱を造り普通鉄鉱に代用するを鉄原料自給の良策とすとの提言あり従来の調査に依れば砂鉄の存在区域は広汎にして就中北海道噴火湾沿岸、青森県下北郡、岩手県九戸郡には多大の砂鉄を見鉱量

のらしい、社長の性格は何時もそんな時には誰にも語らずに独り考えて好いとなると突然のように実行する人であるから此計画も早晩実現されることだろうが、兎も角事柄が大きいし、日本としては初めての試みだけに経費の点や使用する飛行機の構造、又愈々実現さすにしても何ういう方法でやるかなどに就ても充分研究を要することは無論で、目下飛行機に関して造詣の深い吉島法学士が社長の顧問のようになって専心其方面の研究中である、それに飛行協会の阪谷男なども社長に対して色々意見を述べて居られるようである、又飛行協会も一日も早く其実現を期待して居るとの話であるから或は飛行協会に該事業を一任するか、社長が単独でやるか将だ又他の実業家の協力を得てやるかは問題であろう」と語って居た単独経営は先ず困難政府の補助が必要と戸田氏は語る
次で飛行協会を訪うと戸田理事は「協会としてはまだ何等の交渉を受けて居ぬが吉島氏が研究資料蒐集の為め度々協会の技術者徳永大佐に会って相談をして居ることは聞いて居る、協会としては勿論之が実現を歓迎して居る訳であるが協会自身が此計画やら経営を引受けることは性質上出来ぬことと思う、浅野さんにしても之れを独りで始めようとすると却々困難な事業であることは既に航空輸送を実現して居る欧洲諸国の実例が明白に示しで居る、之にはどうしても政府の援助を仰がねばなるまい、其は恰度日本の海運事業が政府の補助によって始めて今日の隆盛を来らしたようなものである、日本の飛行機でも最早充分空中輸送の確信は出来て居る、唯だ金が無いのである、愈々実現されるとなれば現在の飛行機でも優に五十里の道を僅々二十分の時間で荷物を輸送することになって日本運輸界に一大革新を与えることとなろう」と語った

データ作成:2002.7神戸大学附属図書館
神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫繊維工業(06-183)
中外商業新報1936.10.30(昭和11)
ウルトラヤーンからステープルファイバー
製造に成功

浜松一木下技師の苦心
浜松電話=浜松市砂山町日本飛行機塗料会社技師長工学士木下善寿氏は今回ウルトラヤーン(紫外光線糸)及びトーク(飛行機翼布塗料)からステープル・ファイバー糸の製造に成功した、同氏の発明になるウルトラヤーンは白ボロを晒して液体としたものを○・○一ニミリの孔から噴出したものを伸長防糸してつくるもので耐震動、耐油、耐水性等が充分であるのみならず難燃性、弾力性に富み、光沢も頗るよく目方も人絹糸の比重一・五であるのに対し生糸同様一一三である、更にこれを有機酸で処理すればステーブルーファイバーの代用品となりそれによって出来たものは弾力性もあり強度の点て生糸にやや劣っているが、その他の点では生糸より卓越して居り極めて理想的の繊維である、これによって織布されたものは紫外光線を完全に透明することが出来るので着用すれば直接日光光線に当っているのと同様の効果があり、製造原価は人絹よりやや高くなるが、紫外線の透明を利用し得ること、原糸から織布まで一貫作業をなし得るようになついる、右につき木下氏は語るかつて岸―太博士が硝化綿を溶かして人絹糸の製造を始めたが、これは可燃性のものであるため学界から黙殺されそのまま宿題となっているが、今度のものは飛行機の塗料からつくる難燃性のものであって岸博士のやったものよりはその点だけでも勝っていると思う

データ作成:2000.5神戸大学附属図書館
神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫製鉄業(06-094)
大阪朝日新聞1922.1.2(大正11)

春風は何処に吹く
此処に吹くは冷たい風
寂れ行く鉄鉱業
寒流砕け散る津軽の海にそそり立ち其の腹には二億噸からの鉱量を呑むと伝えらるる青森県下北半島の岸壁に化学的の方法で砂鉄の採掘を試みて居た岸゜太博士や藤田組の企てはその後どうなっているであろう?
さなきだに戦後の暴落に起つべがらざる打撃を受けた日本鉄鉱業は更に軍縮問題の将来から暗潅たる呪咀を投げられた、戦時三四百円台にも上った銑鉄が六十円内外にまで下落したばかりか生産費が当時の二三倍に騰っている昨今では鉄鉱山の寂れ方は想像の外である日本最大の鉄山と云われる宮城県釜石が九年度六万噸内外、好況時代の半位で十年末には更に減った、年額五千噸の仙人鉄山(巌手県)四百噸の九里木鉄山(巌手県)などは問題外である、関西では昨年の春頃奈良県大峰山麓の大峰鉄山が休山を宣して職工全部を解雇した、戦時中鳥取、島根、岡山の諸地方で次から次と採掘を願い出た砂鉄採取場は最近に至ってばたばたと休山の貼紙を出し現在事業を継続しているものは当時の幾割にも当らない試みに大阪鉱務署管内二府十六県の砂鉱採取の出願件数を此の数年来の統計に見れば
大正十年二二八件
同七年五三三件
同八年七六件
同九年三三件
で大正十年に入ってば二十件になるやならずである、大正七年には五万人からいた男女鉄山就業員が九年後には二万人内外となり十年末にはそれ以下に減少した右に就て同署柏木鉱政課長を訪えば浮かぬ面持で語る『今のところ日本の鉱業界は殆ど行き詰まりの形で殊に鉄の場合は甚しい、生産費は高く鉄価は廉く日に日に寂びて行く鉄山の前途は涙なしでは見られない、唯僅に不幸中の幸は当署管内の就業坑夫は半農的な人が多いので失業問題で騒ぐことなどは斟いのですがそれにしても軍縮の結果が新しい工業の勃興となって表れるのは何時のことでしょう』

データ作成:200口神戸大学附属図書館
神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫政治(30-111)
大阪毎日新聞1923.831(大正12)
人選中の山本伯犬養毅氏等と会見して内
閣組織の諒解を求む
新内閣組織の第一歩として政界各方面の諒解を求める山本伯の会見は三十日も前日に引続き水交社で行われた、伯は午前八時四十五分早くも自邸を出でて同九時五分水交社に入りそれより先き同社に詰め掛けていた山之内、樺山、浅井諸氏等と協議に耽った、同十時五十五分研究会の青木、黒田両子の来訪あり会談約二時間に亘り両子は辞去したがその間俵孫一氏、高山公通中将等の往来あり午前十時問題の人犬養毅氏が玄関先に其の精悍無比の顔を現し次で十一時半有力な新閣組織の幕僚安楽兼道氏も来り犬養氏は青木、黒田両子が山本伯と会談する間次の間で樺山資英氏と会見新内閣組織の計画を仔細に聴取する所あり研究会の両子爵が辞去した後山本伯と午餐を共にして懇談した(東京電話)
研究会幹部暗に入閣拒絶再度の会見に於いて研究会の青木信光、黒田清輝両子は三十日午前十時山本伯を築地水交社に訪問し前日山本伯から後継内閣組織について諒解を求められたるに対して一応の挨拶をなすべく青木、黒田両子から
青木、黒田両子昨日の閣下の御意見は早速同僚にも伝えておいた、しかし研究会は如何なる内閣に対しても是を是とし非を非として居るので閣下の内閣に対してもこの驀絆を脱することは出来ないと思う、この点は同僚間に意見の一致したところである
とて暗に会内から入閣することの不可能なるをほのめかしたので山本伯は山本伯世間では山本が圧制的の政治をやるだろうと云うて居るそうだが自分は決して左様な意志はない、昨日も申述べた通り現下の内治外交を一瞥するに幾多の重要案件が殺到して居る状態であるが此等は内閣の成立以後慎重審議を遂げ決定するつもりである
と政策問題については其片鱗をも洩らす所な<又研究会側において主張するが如き挙国一致内閣なるものが結局両院の多数勢力を無視したものであって決して政治を円満に運行するの途でないという事については更に弁駁もせず考慮の余地も示さなかったそうである、故に折角再度の会見が行われたにも拘らず研究会が積極的援助を与え延いては会内よりの入閣を実現すると云う段取に至らずして両子は午後零時十五分辞去した(東京電話)
幸三派は傍観各派総会の意見一致
貴族院の公正、茶話、同成三派は何れも三十日午前十時幸倶楽部に臨時総会を開き公正会では宇佐川一正男、茶話会では大島健一氏、同成会では伊沢多喜男、谷森真男両氏から夫れ夫れと後継内閣組織に関する山本伯の意見を紹介しこれが対策について協議したが各派とも山本伯の内閣組織に関する誠意は認めるが果して如何なる政策を以って局面を展開せんとするか暫くこれが推移を傍観し其の政策の決定を待って態度を決すべきものであると云う意見に一致し何れも正午散会した田中大将山本伯の招電で急濾上京
伊豆修善寺温泉菊屋旅館に潜在中の田中義一大将は三十日朝山本伯からの招電に接し急濾午前九時三十一分東海道線三島駅発列車で東上した、同駅から同乗した記者に対し田中男は語る
 後継の山本内閣問題については何等語る事はない、政界の事は更に知らぬが今朝山本伯から至急逢いたいと云う知らせがあったから帰るのだ、伯と会って見ないうちはどんな用事か、それも知れぬ、僕が陸軍大臣に推薦されて居ると云うのも新聞で見た位の事である、今回の政変については東京日日新聞は最も詳しくよく書いてあると語り同紙二面欄にある薩派奏効の記事を読みつづけて笑いを洩していた(御殿場来電)
後藤子邸訪客
伊豆修善寺温泉菊屋旅館に潜在中の田中義一大将は三十日朝本伯からの招電三十日後藤子邸の訪問者は左の通りである
 松木幹一郎氏、望月小太郎氏、永田秀次郎氏、長尾半平氏、安場末禧男、中村是公氏、岸一太氏
山本内閣に対しては友好関係絶無高橋総裁の態度は大出来危機に際会した政友会
政友会の山本内閣に対する態度については二十九日の幹部顧問連合会では内閣の実質も未だ不明であり政策も不明である今日急いで決定すべさ問題ではないというに一致したが高橋総裁に対する山本伯の交渉が既報の通りの如きものであった為め高橋総裁が即座に交渉を拒絶したことを以て総裁近来の上出来となし山本内閣に対して一戦の覚悟をきめたものも少くないようである、即ち往年寺内内閣に対して好意的中立の態度をとった際には両者の間に相当了解があったに反し今回の山本内閣とは未だ何等了解がないばかりか或は可なり手強い政敵として迎えねばならぬようになるかも知れぬ情勢となったので党員中には一種の緊張を示し久しく順境に馴れた
政友会にとって頗る重大な局面に際会したものと見ている、加うるに党内には幹部がこの時局に際して我党内閣一本槍の旗を樹てて最後まで楽観を続けたことに対し幹部の不明を責める声もあり横田総務が延長内閣計画に与ったとの世評に関して同総務の態度に多少批難すべき点ありとなすものもあり政友会としては頗る警戒を要する時期と見られて居る、併し一方には党内における責任問題の有無如何に拘らず外に対しては益々結束を固うし一致協力して敵に当らねばならぬとなす説も有力である、
此論者は所謂政友会の伝統的愛党心に信頼して必ずしも党の将来を悲観しては居ないようである。斯<て山本内閣に対する党内の輿論も目下の所少くとも友好関係の絶無を示しているが幹部は何れ山本内閣の実質その政策及びこれに対する党内の輿論の熟するのを見た上で党の態度を決定する筈であると(東京電話)

日本民間航空通史 航空機の黎明期

投稿日 2018年1月20日 by tsuboigenzaemon
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は じ め
江戸で蘭学塾(のちの慶応義塾)を開設、日本で初めて英語の学問を修めた福沢諭吉(一八三五-一九〇一年)は、三度幕府遣外使節に随行して欧米を視察したが、咸臨丸という船で、横浜からワシントンまで実に三か月の歳月を要した。
 それから百年後の今日では、成田からワシントンまで飛行機でわずか一三時間で行けるようになった。
 人間が空を飛びたいという願いは相当昔からあったが、それはあくまでも夢物語りであった。日本では、江戸時代の戯作者・発明家として有名な平賀源内(一七二八-一七八〇年)が翼をつけて屋根から飛んだが失敗したという逸話もある。
 明治三六年(一九〇三)一二月一七日、アメリカのライト兄弟が、初めて動力飛行に成功してからヨーロッパで飛行熱が高まり、明治の終り頃にはドイツやフランスで飛行機や飛行船が飛び回ってその性能を競い合い、続々と新機種が生まれ、それと共に操縦技術を教える飛行学校ができるようになった。
 その情報に刺激を受けた日本では、遅ればせながら、軍用として飛行機・飛行船を使うことを目的に明治四二年(一九〇九)八月、内閣直属の「臨時軍用気球研究会」が発足、明治四三年(一九一〇)四月、外国から飛行機・飛行船を購入することと、その製作、操縦技術を習得させることを目的として、日野熊蔵、徳川好敏両陸軍大尉をヨーロッパに派遣した。
 両氏が帰国して日本での初飛行は明治四三年こ一月一九日であった。その日、代々木練兵場(現・代々木公園)で徳川好敏工兵大尉の操縦するアンーフォルマン機での飛行距離は3㎞、高度70mであった。ライト兄弟の初飛行より遅れること七年たった。
 その後、「臨時軍用気球研究会」の委員であった奈良原三次海軍大技士(海軍大尉待遇)が臨時軍用気球研究会を辞めて、自分で設計製作した飛行機にノーム50馬力のエンジンをつけて明治四四年(一九一二五月五日、所沢飛行場で自ら操縦して高度5m、距離60mを飛行したが、これが純国産機で民間人が飛んだ日本最初の飛行機であった。
 これに続いて民間の飛行家が続出して手製の飛行機で自由勝手に空を飛び廻るようになったので、これを野放しにしてもおけず陸軍省の外局に「航空局」を設け、操縦士の資格が国家試験となると同時に航空局直轄の乗員養成が始まった。
 特に戦時中は民間航空機操縦士の大量養成を行ったが、民間機のパイロットになった者はごくわずかで、ほとんどが軍に駆り出され多くの民間パイロットが特攻で、あるいは空中戦で戦死した。
 昭和二〇年(一九四五)八月一五日の敗戦を境に、日本人が日本の空を自山に飛べない日が六年余りも続いたが、昭和二六年(一九五一)九月八日、対日平和条約が調印されたのを機に、同年八川一目、日本航空㈱が設立され、ようやく日本人が日本の空を自由に飛べる時代が来たのだった。
佐 藤 一  一
第一章航空機の黎明期
第一節 空を飛びたいという人間の夢
 背中に羽のはえた天使や、羽衣を身にまとって空を飛石天女などは「空を飛んでみたい」と願っていた人間の夢であり想像の世界であった。
 今から二百数十年前に、偉大な芸術家であり科学者でもあったイタリアのレオナルドーダービンチは、鳥の飛ぶのを観察して、羽ばたき飛行機やヘリコプターの設計図を書いていたがこれは実現するには至らなかった。
  それを実現させ、実際に人間が空に上ったのは、二百年以上も前、フランスのモンゴルフィエ兄弟であった。彼らは熱気球を作り、温めた空気を気球の中にためて、大勢の人の見守る中で、ふわっと空中に浮かび上ったのだった。その後、空気より軽い水素を入れることを考えたが、それは「飛ぶ」というより「浮かぶ」と云った方が正しいものであった。それは前に進むことができなかったからである。
  その後、ドイツのリリエンタールが明治二六年(一八九三)に、大きな翼を背中につけ、小高い丘の上がら飛んで滑空に成功した。最近、スポーツとして盛んになってきたバングーグライダーの元祖というべきものである。しかし、気球もグライダーも、空気(風)を利用して短い時問、ゆっくり空を飛ぶだけで、本格的な飛行機というものではなかったのである。

第二節 ライト兄弟が動力飛行に初成功
 明治一五年(一八八二)にロシアのモシヤイスキーが初飛行に成功したとか、明治三〇年(一八九七)にフランスのクレマンーアデールが吐界で初めて動力飛行に成功したという説もあるが、記録も証拠も見つかっていない。
 今、肝界的に認知されているのは、明治三六年(一九〇三)一二月一七日、アメリカのノースカロナイナ州キティホークで、兄のライトと弟のオービル兄弟が複葉機を完成して、前後四回飛行して人類初の動力飛行に成功したことである。
 最初の飛行は、わずか12秒、に取高の滞空時間59秒、飛行距離はミ六〇メートルというものだった。

第三節 日本で「臨時軍用気球研究会」発足
 アメリカのライト兄弟が、肝一界初の動力飛行に成功したというニュースに刺激を受けたヨーロッパでは、長年夢であった「人間が鳥のように空を飛べる」という事実に、アメリカよりも飛行熱が高まった。そして明治の終り頃には、ドイツやフランスで続々と新機種が生まれ、飛行機や飛行船が盛んに飛び回ってその性能を競い合い、さらには操縦術を教える飛行学校までができるようになったのである。
 それに刺激を受けた日本でも、軍用としで飛行機・飛行船を使用することとなり、明治四二年(八月、内閣直属の「臨時車用気球研究会」が発足した.
 最初の研究会委員には
  〔陸軍から〕
 会長 長岡外史中将(当時の軍務局長)
 幹事 井上仁郎大佐(当時の工兵課長)
 委員 有川鷹一少佐(砲工学校教官)
 同  徳永熊雄少佐(気球隊長)
 同  徳川好敏大尉(気球隊付)
 同  日野熊蔵大尉(砲兵工廠付)等
  〔海軍から〕
 委員 山屋他人大佐
 同  牛奥励三  (造船小監)
 同  相原四郎大尉
 同  小浜方彦大尉
 同  奈良原三次 (造兵中技士)等
  〔学識経験者から〕
 委員 田中館愛橘 (理学博士)
 同  井口在屋  (工学博士)
同  中村精男 (理学博士)
同  横田成平 (工学博士)
等が就任した。

 第四節 臨時軍用気球研究会の仕事とは

 さて、こうして発足した研究会では、差しあたり次の仕事に取りかかることとなった。
 第一は、日本国内で、日本製の飛行機や飛行船を試作することであった。
 飛行船の方は徳永、徳川、小浜の諸委員を中心に、当時気球隊付であった伊藤赳工兵中尉、岩本周平(東大教授、当時気球隊付陸軍技士)が設計試作員として設計に当った。
 一方、飛行機の方は、日野、奈良原委員が、それぞれの考案を各自の助手を使って設計製図に当ることになった。
 第二は、各委員が設計のために実験したり、実物を.工作したりするための実験雫、.L場、飛行船に必要な水素ガスエ場、飛行機、飛行船の格納庫等の建設であった。
 第三は、飛行機、飛行船の性能テスト、実用試験をするために必要な飛行場の設定、建設であった。
 これは徳永少佐と、岩元周平が担当することになり、地質・地勢・水利・常習風向・土地の価格調査等に自転車で踏査し、埼玉県所沢巾の平坦な、いも畑約八万坪(一反歩=三〇〇坪=百円)を適当地として買収することに内定したのだった。しかし、日本では初めての飛行場建設であるから、果してこの面積でこと足りるのか不安もあって、急拠田中館博士(昭和一九年文化勲章受章)をヨーロッパに派遣した。田中館博士にヨーロッパ各国の飛行場を視察した結果、敷地の広さや施設など所沢の計画で支障なしと判断し、その結果、電報でその旨を報告しました。この報告を受けた臨時軍用気球研究会では、早速十地の買収に着手し、地ならし、建築と矢継ぎ早やに計画に移した。
 第四は、外国ですでに完成している飛行機、飛行船を購入し、これを研究すると共に試験をすること、そして操縦の技術を習得することであった。
 そこで日野熊蔵陸軍歩兵大尉と、徳川好敏陸軍工兵大尉の一一人が選ばれた。二人は明治四三年(一九一〇)四月、シベリア鉄道で渡欧し、徳川大尉はフランスで、アンリー・フォルマン式複葉一機(八、三六三円)、ブレリオ式単葉一機を購入して、操縦術の訓練もわずか二週間で卒業して帰国した。
 日野大尉は、ドイツでグラーデ式単葉一機(五二九六円)と、ドイツ製ライト複葉一機を購入して帰国したが、同年中に着いたのは徳川大尉の購入したフォルマン機と、日野大尉が購入したグラーデ機で、あとの二機は翌四四年三月に到着した。

第五節 日本での初飛行
 日本で「臨時軍用気球研究会」が発足した頃、フランス海軍中尉ルプリェルが、田中館博上の指導で、帝大(東京大学)構内で滑空機(グライダーを組立て、不忍池畔で試験飛行を行なった。自動車で滑空機を引かせて滑走し、高さ一五・六メートル位飛び上ったところで綱をはずし、無事に滑空で着陸し一応成あって、ルプリェル中尉の飛んだあと、同機に搭乗して一応飛び上ったが、綱の片方がはずれて横すべりして池の泥のなかに落ちて失敗した。
 しかし、これは当時見物していた日本人に「人間も空を飛ぶことができるんだ。」という証拠を見せた最初のことであった。
 本格的な日本での動力初飛行は、明治四三年(一九一〇)一二月一九日、代々木練兵場(現・代々木公園)で行われた。
 ドイツーフランスから飛行機を買付け、操縦技術を学んできた徳川・日野両人尉によるものだった。
 徳川好敏工兵大尉がフランスで購入したアンリー・フォルマン式複便機で、距離三キロメートル、高度七○メートル、飛行時間五分というものであった。ライト兄弟の初飛行より遅れること七年目のことである。
 今、この地に「所沢航空発祥記念館」が設けられている。(平成五年三月二七日開館)
 しかし実際には、これより五日前のて一月一四日、日野熊蔵陸軍歩兵大尉がドイツから購入してきたドイツ製(ンスーグラーデ式単葉機で二メートルの高さで一OOメートルの距離の初飛行に成功していたが、「公式飛揚」ではないので、日本航空史では一二月一九日が、日本における初飛行と記録されているのである。

第六節 臨時軍用気球研究会の廃止
 その後、明治四四年(一九一一)一〇月、徳川大尉はアンリー・フォルマン式に気球研究会で改良した国産第一号機を操縦して高度八五メートル、距離千六百メートルを飛行した。
 一方、飛行船の方は、明治四四年にドイツのパルセバール式飛行船を購入することになり、その製造・整備・監督と、取扱い操縦練習のため、石本工兵大尉が総合事務を、益田工兵人尉が取扱い操縦を、山下海軍機関人尉が機関と整備を、岩本周平が製造取扱いをそれぞれ学ぶ目的でドイツに派遣され、P13号(日本では、パ式航空船と命名)の竣工検査に立ち合い、明治四五年(一九一二)六月、シベリア鉄道で帰国した。
  この留守中、明治四四年一0月、伊藤中尉を船長に、中島知久平海軍機関中尉(のち中島飛行機会社を興し、鉄道相、軍需相となる)を機関長として「イ号飛行船」の初飛行が行われ、百メートルほど上昇してエンジンをかけ、ゆっくり飛行場の周辺を飛び廻った。
 これが「イ号気球」と命名された目本で初めて製作された国産飛行船で飛んだ記録第一号である。
 その後、航空機・飛行船の発達ぶりを貴族院議員(現在の参議院議員)や衆議院議員を招いて見てもらおうと大正二年(一九二三)三月二八日、青山練兵場(現・明治神宮外苑)で航空祭を催した。所沢から飛び立った飛行機や飛行船を青山練兵場に着陸させ、更に離陸して所沢に還るという計画であった。ところが飛行船のクセを卜分克服していない操縦未熟の為に、事故をおこしてしまったのである。
 今も香川県仲多度郡仲南町の二宮公園内には京都から分社した「飛行神社」(口絵2頁)が設けられ、忠八翁の銅像が聳え建ち、忠八太鼓が響き渡っている。   

 第三章民間航空の先覚者たち
          第一節 民間航空の第一人者奈良原三次男爵

 日本民間航空の先駆者を語るとすれば、奈良原三次(後男爵・口絵1頁)を置いてほかにあるまい。
 奈良原家は、明治維新のころまでは薩摩(鹿児島県)の島津家の家老の家柄であった。先祖の奈良原助八は、十一代薩摩藩主島津忠昌公が病身のため乱れた領内を平定できないことを恥じて切腹して果てた。助八は、その忠昌公の葬列が菩提寺に入るのを見届けると、その門前でみごとに追腹を切って殉死した。島津家七百年の歴史の中で初めてで最後の殉死者であった。こうして奈良原家には代々熱血漢が生まれた。
 明治維新の生麦事件(文久二年〈一八六二〉薩摩藩の島津久光一行が江戸からの帰途、横浜生麦村にさしかかった際、騎馬のまま行列を横切った英国人四人を殺傷した事件。↓薩英戦争)の発頭人奈良原喜左衛門は三次の叔父にあたる。
 また、京都の寺田屋事件(文久二年〈一八六二〉尊王攘夷派の薩摩藩士有馬新七らが、関白九条尚忠・所司代酒井忠義の殺害を企て京都伏見の舟宿寺田屋に結集したのを、島津久光が家臣を遣わして襲い、殺害した事件、(寺田屋騒動。)で名高い奈良原繁(のち沖縄県知事。男爵)は、三次の父君であった。 
 三次は次男だったが、長兄がドイツ留学中客死したので、三次が奈良原家の世継となったのである。
 三次は岡山第六高等学校から東京帝国大学(現・東大)工学部造兵科に学び、卒業後海軍に入って明治四二年(一九〇二)内閣直属の「臨時軍用気球研究会」が発足するや、委員(当時造兵中技士=中尉待遇)に選ばれて、飛行機の設計、製作にあたった。

手製の飛行機を造り初飛行
 明治四三年(一九〇三)、日野、徳川両大尉が欧州で飛行技術を学んで帰朝、同こ一月一九日、代々木練兵場で日本最初の飛行に成功する半年も前に、三次は当時東京・四谷塩町にあった父繁男爵家の庭を作業場として鹿児島から送らせた丸竹を主材とした「奈良原式1号機」を完成していた。その費用は肖時の金で二〇〇〇円程かかっていた。
 海軍大技L大尉待遇)で海車を退官した余良原ミ次はで史にフランスから購人したブーム50馬力のエンジンを取り付けた「奈良原式2リ機」を完成した。明治四四年(。九い川)斤八几目、ミ次はこの「余良原式2号機」を所沢飛行場で自ら操縦して初飛行を行った。高度.aメートル、距離六〇メートルというものだったが、純国産機で民間人が飛んだ日本最初の飛行であった。
 当時は操縦技術などを教えてくれる教官もなく、飛行機も手づくりの飛行機だったので、まったく「手製の飛行機」で「我流の操縦」だったのである。
 その後、男爵の後継者たる者が、危険極まりない飛行機で事故をおこして万が一のことでもあったり怪我でもしたら大変なことだということで、三次の親戚一同から大反対をされた為に、その後べ次が自ら操 明治四三年(一九〇三)、日野、徳川両大尉が欧州で飛行技術を学んで帰朝、同一二月一九日、代々木練兵場で日本最初の飛行に成功する半年も前に、三次は当時東京・四谷塩町にあった父繁男爵家の庭を作業場として鹿児島から送らせた丸竹を主材とした「奈良原式1号機」を完成していた。その費用は肖時の金で二〇〇〇円程かかっていた。
 海軍大技士大尉待遇)で海車を退官した奈良原三次は、更にフランスから購人したノーム50馬力のエンジンを取り付けた「奈良原式2号機」を完成した。明治四四年(一九〇四)五月五日、三次はこの「奈良原式2号機」を所沢飛行場で自ら操縦して初飛行を行った。高度.五メートル、距離六〇メートルというものだったが、純国産機で民間人が飛んだ日本最初の飛行であった。
 当時は操縦技術などを教えてくれる教官もなく、飛行機も手づくりの飛行機だったので、まったく「手製の飛行機」で「我流の操縦」だったのである。
 その後、男爵の後継者たる者が、危険極まりない飛行機で事故をおこして万が一のことでもあったり怪我でもしたら大変なことだということで、三次の親戚一同から大反対をされた為に、その後三次が自ら操縦するということはなかった。

会社を興して失敗する

 三次が再び操縦稈を握ることがなくなってから中野の気球隊で徳川好敏大尉の部下だった白戸栄之助軍曽が除隊したので、三次の製作した飛行機で白戸が練習飛行することになった。
 その頃三次は、「束京飛行機製作所」という会社を興し「臨時軍用気球研究会」の御用として、ライト式やグラデー式の飛行機の修理、研究用のプロペラ製作などを商っていた。その会社に住吉貞次郎という男を支配人格で採用し、三次はこの住吉をすっかり信用して一切の仕事をまかせ、実印まで預けていた。ところが住吉は信用されていることを良いことに、三次名儀で高利貸しから借りられるだけの金を借りて使っていたのである。住吉は自分で勝手に借金をしておきながら、今度は債権者側に寝返って、壮子(政党に雇われた川心棒)上りの子分数名をひき連れて、三次に厳しく債務の取り立てを責め立てた。その時、三次の作った「奈良原式3号機」の試験飛行中だったが、この3号機の発動機まで差し押さえてしまった。そのため3号機は試験飛行もできなくなったので、三次は止むなく東京に引きあげてしまった。
 明治四三年(一九〇三)、日野、徳川両大尉が欧州で飛行技術を学んで帰朝、同一二月一九日、代々木練兵場で日本最初の飛行に成功する半年も前に、三次は当時東京・四谷塩町にあった父繁男爵家の庭を作業場として鹿児島から送らせた丸竹を主材とした「奈良原式1号機」を完成していた。その費用は肖時の金で二〇〇〇円程かかっていた。
 海軍大技士大尉待遇)で海車を退官した奈良原三次は、更にフランスから購人したノーム50馬力のエンジンを取り付けた「奈良原式2号機」を完成した。明治四四年(一九〇四)五月五日、三次はこの「奈良原式2号機」を所沢飛行場で自ら操縦して初飛行を行った。高度.五メートル、距離六〇メートルというものだったが、純国産機で民間人が飛んだ日本最初の飛行であった。
 当時は操縦技術などを教えてくれる教官もなく、飛行機も手づくりの飛行機だったので、まったく「手製の飛行機」で「我流の操縦」だったのである。
 その後、男爵の後継者たる者が、危険極まりない飛行機で事故をおこして万が一のことでもあったり怪我でもしたら大変なことだということで、三次の親戚一同から大反対をされた為に、その後三次が自ら操縦するということはなかった。

有料公開飛行を実施
 その後、新しく出資してくれる人が現われたので、東京・京橋八丁堀(現・中央区)に「東洋飛行機商会」という新会社を設立して明治四五年(一九一二)三月、「奈良原式4号機]を完成した。そしてその飛行機
 尚、戦時中、日本の逓信省航空局、高等(又は地方)航空機乗員養成所で学んだ朝鮮人たちもいたが、その分は第二編・戦中編で述べることとする

第七章民間航空草創期に羽ばたいた女性飛行家たち

 明治、大正の女性はおとなしく、しとやかで優雅な茫ち居振るまいをするものと定義づけられていた。
従って、女性が自転車に乗ったり自動車の運転をしたりすれば、あれは「お転婆だ」、「男まさりだ」「嫁のもらい手がないぞ」などと云われた時代であった。
 昭和七年(一九三二) 一二月一六日、午前九時すぎ、東京・日本橋の白木屋呉服店四階の玩具売場から火災が発生、火は三時間にわたって燃え続け、三九八二坪を全焼、死者一四人、重傷者百十数人を出す大惨事がおこった。当時の女性はほとんど着物姿で仕事をし、従って下着をはいていなかった。この時の死亡者一四人中、一三人は和服だったので消防署員が下に幕を張って飛び降りるよう指示したが、飛び降りる時着物のすそが開くのを気にして逃げおくれたために犠牲者が増えたのだった。
 これを機に日本の女性も外で働く者は洋服を着、下着を身につけるようになったのである。
 そんな時代背景の中でも多くの女性が空にあこがれ、飛行家になる夢を抱いて羽ばたいていったのである。

女性飛行家第一号 兵頭 精

 大正一一年(一九二二)三月二四日付で三等飛行機操縦士(免許番号第三八号)の免状を取得、日本における女性飛行家第一号になったのが兵頭精である。
 精は、明治三二年(一八九九)四月六日、愛媛県北宇和郡東仲村二五番戸(現・広見町東仲)において兵頭林太郎、同民子の四女として出生した。
 父林太郎は田舎には珍らしい読書家で、明治二〇年代に早くも空を飛ぶことを夢見て絵図面などを書いていたが、明治四三年六月三日、満五三歳で亡くなった。精一一才の時である。精はそういう父の血を受けたのか、母民子から話を聞いていたのか、とにかく自分も飛行家になりたいという淡い希望を抱いていた。
大正四年(一九一五) 一二月、アメリカのチヤールズーナイルスという女性飛行家が来日して青山練兵場で宙返りを披露した。また翌五年一二月には、キャサリン・スチンソン嬢が同じ場所で宙返り飛行をしてみせた。肖時、松山巾・斉笑高等女学校に在学していた精は、この話を聞いたり新聞で読んだりして「女性でも飛行家になれるんだ」ということを知り、ますます飛行家になりたいという夢がふくらんでいった。
 父ござあと、姉のカソエが父親がわりに一家を支えていたが、精の飛行家希望に対しては「女だてらに飛行機乗りになるうとは」と猛烈に反対した。精は止むなく女学校を卒業すると安原医院に薬剤師に見習として働くようになった。しかし人空への夢は忘れられず、合間をみては東京の相羽有が経営する日本飛行学校発行の『飛行機講議論』をとり寄せ独学していた。それを知った姉カゾエは精の思い込みに根負けして「そんなに飛行機が好きならやってみるがいい。」と大枚1千円を援助してくれた。カゾエは、精のいわば自分と共通した男性的路線を生き抜こうとする姿勢に共鳴し、期待し、応援することにしたのである。
 精はこの金を持って二○歳の年の一一月一五日上京した。ところが期待していた日本飛行学校(校長相羽有)では、こ年前の人正六年(一九十七) 一〇月一目の台風で、東京・羽田穴守にあった飛行場は水びたしになり、たった一機の玉井式二号キャメロン機が流され、更にその半年前の五月、操縦教官の玉井清太郎が墜死するという大打撃を受け、相羽は飛行機事業から手を引いて自動車部だけしかなく、飛行機は『講議録』を発行するだけで、飛行機操縦など何一つ教えてはいなかったのである。
 止むなく精は赤羽飛行機製作所(岸一太医学博士が経営し、井上武三郎陸軍予備役中尉が操縦教官)を訪ねたが、ここでは「女では駄目だ」と断られてしまった 精が途方にくれていたところ、ある人から伊藤音次郎が経営する津田沼(現・千葉県習志野市津田沼)の伊藤飛行機研究所を教えてもらった。早速訪れて音次郎に入学を願ったところ、どうせ一時の出来心で長続きはしないだろうが、大金を持ってやってきた相手が男であろうと女であろうと拒む理由はないと、直
ちに入学を許可した。所長の伊藤音次郎はこの時、まだ二八歳、飛行家として実力、人気ともに上昇中で、精が訪れた頃は、設計者に稲垣知足、操縦教官に山懸豊太郎を据え、新機の製作と共に操縦士の養成に専念中でありました。彼は多くの鳥人を育て、奈良原三次に次ぐ民間航空育ての親ともいうべき人物であるが、昭和四六年(一九七一)一二月六日、八〇歳でこの世を去った。