「どこで生まれた桃太郎さんは?」

投稿日 2018年5月13日 by tsuboigenzaemon
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岡山市はいま「桃太郎のまち岡山」をかかげ、また「岡山桃太郎空港」の愛称も新しく生まれました。ここ100年の間に名物吉備団子の存在もあり、岡山はすっかり「桃太郎伝説地」として全国の人々に親しまれています。

ではいつごろから言われるようになったのか、その発端はなにか、誰がいいだしたのかそんなことを考えてみたいと思います。

 また桃太郎の伝説地と主張するところは岡山だけではありません。どんなところがあるのか映像で紹介しながら桃太郎はどこで生まれたのか考えてみます。

 <紹介予定DVD>

     ①難波金之助の「桃太郎の史実をたどる」   ②桃太郎三大伝説地「高松・犬山」

     ③そのほか桃太郎ゆかりの地         ④絵本などに描かれた桃太郎

     ⑤挑太郎を世界ヘー小久保桃江-

 桃太郎については私も研究者ではありませんので、皆さんには物足りないかもしれませんが、「なんで岡山がももたろうなの?」と言うことなど知っていただければ幸いです。(古川)

維新前後それぞれの願いを探る

投稿日 2018年5月7日 by tsuboigenzaemon
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平成三十年四月二十八日(於一県立図書館2階多目的ホール)
岡山歴史研究会 平成三〇年度定期総会講演
維新前後それぞれの願いを探る https://youtu.be/v60ebUAff48
定兼 学
1 慶応二年 直吉郎の願い
   乍恐以書付奉歎願上候事
御領内村々惣百姓中奉願上候、其意趣は
一、年貢御蔵納三斗五升計切之事
一、御刎米直し人足御差留之事
一、当寅年御年貢御引米之事
一、関門入用御断之事
一、当寅年宍納金難渋人分年延之事
一、御検見之節、壱合以下之毛御免之事
一、御蔵米似せ俵河下御吟味之事
一、御登米之外御差留之事
一、近来{規之御運上(酉年新法)御免の事
一、諸役人依恬之沙汰偉吟味之事
一、以後御出馬有之侯ても、若党槍持に百姓を御迫候義、御断之事
右拾壱ヶ条之趣、御取調之上、格別之御仁恵を以御許容被
為成下候はゞ、莫大之御慈悲、百姓一同難有仕合に奉存候、此段宜被仰上可被下、以上
東北条郡行重村
慶応二丙寅           百姓代 直吉郎
     十二月日

4 明治六年 美作民衆騒擾(血税一揆)
     明治六年酉五月二十七日より三十一日騒擾ヶ条
一、五ヶ年貢米免助(除)之事
一、断髪従前の通り御服(復)仕の事
一、屠牛御廃止之事
一、田畑へ桑草木植付廃止之事
一、地券入用御貢金之内より御立用之事
一、耕地絵図面入用、右同断
一、徴兵御廃止之事
一、槻多従前之通り之事
御役所
(長光徳和編『備前備中美作百姓一揆史料』第三巻七七七頁)

2 慶応四年 備中松山領民の願い

   奉歎願口上書
乍恐奉歎願候、当松山前領主儀、於大坂表如何之次第御座候
哉、今般京都より御追討被仰出候二付、城地共御預り被遊御
裁許御伺相成候趣奉承知、下方一同二於ても奉恐入、然ル処
下方二而者大坂之始末者勿論、京都之思召如何二候哉、不奉
承知候得共、只管旧主を慕ひ候心底、左二奉申上候、先年前
領主入部被致候以来、政事向改革被致、御自分二而質素倹約
専コー相守下々二而も(後略)
               (県立記録資和絃云蔵 延原家資料)

3 明治二年の騒動参加者 利七の願い

自訴御歎書
        第廿五区久米北条郡
              福田上村  香川利七
                      当亥五十七才
   
右者私儀去ル明治四年七月中呂有罪弐ケ
年徒刑被仰付、相勤罷在候内、心得違自宅へ相帰、右御咎二
而入牢中、尚又心得違脱走仕。諸国相稼罷在候得共、今般真
二悔悟仕急度改心立戻り奉自訴候間、何卒格別之以御仁朧ヲ、
寛典御処置蒙度、依之自訴御歎願奉申上候、以上
        (県立記録資料館所蔵 )

一、諸運上従前之通り御立戻し之事
一、御政事向扁幕府御立戻し之事
            東北条  三十二ヶ村
(長光徳和編『備前備中美乍百姓一揆史料』第五巻二一五一頁)

5 明治六年 小田県雇 犬養毅の休暇願い
      記
                          私儀
当一月中御雇出仕被仰付、難有奉職仕罷在候、然ル処於郷
里老母兼而病気之処、昨今差重り候趣申来、就而者御用繁
中奉恐入候得共、一応帰郷対面仕度、奉存候条、明十日よ
り往復之外五日之間御暇被下度、此段奉願候也
  明治六年十月       犬養毅  印
小田県権令矢野光儀殿
(朱書)
聞届候事 印
(県立記録資料館所蔵 犬養家資料)

6 明治七年 兵士 萩原金五郎の願い

  帰省御願書
萩原金五郎儀、昨春以来広島鎮台兵二御編入被仰付罷在候処、
同苗源四郎儀本月中旬ヨリ病発仕、其後引続テ次第差重り、
此節二至候テ(難治之体二罷成、加之老母儀モ折亜敷過日来
重病二罹り、是又同様全快ノ程無覚末趣医師申聞、湯薬ノ世
話モ難行届、親子遠地隔絶看病不相叶ノ情体不看忍、惘然ノ
至二御座候、依之御用先重々奉恐入候得共、往返日数之外廿
日御側河川両側様奉願上候、前条難黙止情実何卒御憐察被成
下、急々御聞済ノ御沙汰被縦下候様伏テ奉歎願候、以上
    第十二大区上房郡小二谷言懸二百八十四番屋敷
明治七年九月廿七日    親・類 縦谷弥五郎 印

小田県権令矢野光儀 殿

  前書之通相違無御座候
             右戸長 足立克譲 印
             副戸長 津田精一 印
             区長  板倉信古 印
 (朱書)
   諸兵隊帰郷之儀者御詮議之次第有之、当分御差止二付
   楠間候事
              (県立記録資料館所蔵「各鎮台往復」)

富山城・石井寺から高松城水攻め 一矢坂山周辺の文化財-

投稿日 2018年4月10日 by tsuboigenzaemon
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1.矢坂山周辺の原始・古代
 ①集落遺跡と貝塚
 ②古墳
  津倉古墳と青陵古墳
  矢坂山の古墳群
2.謎の古代寺院「石井廃寺」と荘園
①石井廃寺
石井廃寺は奈良時代に創建されたとみられる寺院で報恩大師開基伝承のある備前四十八か寺のひとつ。吉乗山(吉祥)石井寺もしくは石井山吉祥寺などの名が残る。寛文6年(1666)池田光政による寺院淘汰により廃寺となる。寺域は現在の妙林寺一帯であったとみられる。

末寺に(万成村)正雲坊・自正院(島田村)住林坊、(上伊福村)福立山宗蓮寺教音坊・常林坊、(西崎)知仙坊、(高柳村)実相院などかある。

3.松山長昌寺地蔵石仏
 花白岩の自然石に花頭窓風に寵部を彫りくぼめ、半肉彫りにされた地蔵菩薩立朧で右手に錫杖、左手に宝珠を持つ。室町時代の応永10年から九年の歳月をかけて彫ちれたもめ。本来は現在地の上部にあった磨崖仏であったと言われるが、天保7年、(1836)の大地震で転落し横倒しになったものを、岡山藩から滑車を借りで引き起こしたとの伝承がある。
しかしながら、天保フ年には大地震の記録が見当たらず、台風などの風水害で転落した可能性が指摘されている。        
    銘文 右「松山長昌寺応永十年(1402)四月廿四日始]
       左[同十九首夏十三 幹縁長昌上人記]
4.富山城と戦国の争乱
富山城は矢坂山山頂に築かれた連郭式の山城で総延長300mにわたって、中心郭が南北に連なる。昭和42~43年(1967~1968)発掘調査される。
発掘調査で大きく時期に区分されることが明らかとなった。
 第1期 明応・永正年間(1491.~1521)頃
     有事龍城型の中世山城
 第2期 天文年間後半(1550)頃~永禄!O年056フ)
     小規模々石垣や一部に瓦葺建物のある戦国末期の山城
 第3期 宇喜多期 永禄H年(1568)~慶長5年(!600)
     石垣や土塀を備え瓦葺の建物の建つ本格的な近世的な山城
応仁元年(1467) 松田元隆 富山氏から城を奪い居城とする松田元成 金川へ
文明15年(1467) 松田元隆 富山氏から城を奪い居城とする
文明17年(1483) 福岡合戦で元親戦死 親家が城主に
応6年(1497)   備前国守護代浦上宗助(三石城主)に攻められるが撃退
永禄11年(1568) 松田氏宇喜多直家に滅ぼされる 直家の弟忠家が城主に
天正7年(1579) 毛利氏備前国侵攻 宇喜多忠家備前備中国境で撃退
慶長4年(1599) 忠家の子左京亮信顕(坂綺出羽守)家中騒動により出奔
慶長6年(1601) 小早川秀秋により廃城となる
5.宇喜多氏と備中高松城水攻め
天正10年(1582)2月八浜合戦
           宇喜多基家討死
        4月 備中侵攻
        6月 高松城開城
・合戦後、備中高松城は宇喜多氏に与えられる。
・関ヶ原合戦で宇喜多氏が失脚後も旧臣の花房氏(徳川家旗本)の所領となり、明治維新まで続く。
宇喜多忠家 ?~慶長14(1609)?
宇喜多詮家 永禄6(1563)?~元和2(1616)

つつじ祭 講演

投稿日 2018年4月3日 by tsuboigenzaemon
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野殿大返し図最終_edited-2「富山城、石井寺から高松城水攻め」 -矢坂山周辺の文化財- 

矢坂山を中心として、文化財を通してみた地域の歴史

内容は「石井」の地名の歴史や謎の多い石井廃寺について。富山城をとおしてみた松田氏や宇喜多氏の攻防から高松城水攻めについて。

https://tsuboigenzaemon.wordpress.com/で検索すると出ます。

矢坂山の春120716 https://www.youtube.com/watch?v=G0Xb05fZsA4

石井学区の歴史いろいろ 岡西公民館https://www.youtube.com/watch?v=iKdIKoqwtlk

吉祥寺石井寺 https://tsuboigenzaemon.wordpress.com/2016/01/29/%e5%90%89%e7%a5%a5%e5%af%ba%e7%9f%b3%e4%ba%95%e5%af%ba/

石井学区の歴史いろいろ 岡西公民館

岡西公民館で「石井学区の歴史いろいろ~身近な文化財の見方~」と題して岡山市埋蔵文化財センター 高橋伸二氏による講演があった。デジメを転載する。 はじめに 指定文化財について 国指定・県指定・市指定 1、埋蔵文化財の見方 ・集落遺跡と貝塚 ・古墳 (津倉古墳と青陵古墳、矢坂山の古墳群) ・古代~中世の寺院 (石井廃寺) ・城郭 (富山城) 2、神社仏閣と石造物 ・妙林寺と常福寺 ・国神社 ・松山長昌寺地蔵石仏 3、山陽道 ・古代中世の山陽道 ・近世山陽道(西国往来) 石井廃寺 報恩大師開基伝承のある備前四十八か寺のひとつ。吉乗山(吉祥)石井寺もしくは石井山吉祥寺などの名が残る。寛文6年(1666)池田光政による寺院淘汰により廃寺となる。 石井寺末寺として廃寺となった寺院に、(万成村)正雲坊・自正院。 (島田村)住林坊、(上伊福村)福立山宗蓮寺教音坊・常林坊、(西崎)知仙坊、(高柳村)実相院などがある。 寺域は現在の妙林寺一帯であったとみられる。また、この寺に関する記録はきわめて乏しいものの、北区津寺のには石井寺にあったとされるが伝わっている。 富山城 矢坂山山頂に築かれた連郭式の山城で総延長300mにわたって、中心郭が南 北に連なる。昭和42 ・ 43 年(1967 ・ 1968)発掘調査。 富山城の概史 応仁元年(1467)  松田元隆 富山氏から城を奪い居城とする 文明15年(1481)  松田元成 金川へ帰り弟の元親を城主とする 文明17年(1483)  福岡合戦で元親戦死 親家が城主に 明応6年(1497)  備前国守護代浦上宗助(三石城主)に攻められるが撃退 永禄11年(1568)  松田氏宇喜多直家に滅ぼされる 直家の弟忠家が城主に 天正7年(1573)  毛利氏備前国侵攻 宇喜多忠家備前備中国境で撃退 慶長4年(1599)  忠家の子左京亮信顕(坂崎出羽守)家中騒動により出奔 慶長6年(1601)  小早川秀秋により廃城となる ※ 発掘調査で以下の変遷が明らかになった 明応・永正年間(1491~1521)頃 有事龍城型の中世山城 天文年間後半(1550)頃~永禄10年(1567) 小規模な石垣や一部に瓦葺建物のある戦国末期の山城 宇喜多期 永禄11年(1568)~慶長5年(1600) 石垣や土塀を備え瓦葺の建物の建つ本格的な近世的な山城 小生の調査によると天正17年(1583)岡山城築城の際、浮田詮家(後の坂崎出羽守)が破城・移築させられ家中騒動の原因の一つとなった。 妙林寺 本堂は元文元年(1736)、仁王門は宝暦4年(1754)の建築6池田光政国替の時、鳥取から僧日 意を伴い寛永9年(1632)山崎町(野田屋町)に創建。貞享3年(1686)現在地に移転。授法院・延寿院・観明院・清涼院の塔頭(たっちゅう)寺院がある。 常福寺 本堂は安永4年(1775)の建築。仏像を安置する厨子は。16世紀後半(桃山時代)の作で彫刻・彩色が施される。牛窓大工の作。 寺伝によると養老2年(718)創建。大覚院と称したが永禄年間に浦上宗景が富山城を攻めた際に兵火にかかり焼失。宇喜多氏により保護を受け長福寺と改めたが、小早川秀秋の代に寺領が没収され衰微する。享保元年(1716)常福寺に改められる。昭和24年(1949)牛窓鹿忍の宝光寺の本堂を移築。 国神社 延喜式榊名帳に記載のある式内社とされる。社殿は明治36年(1903)に焼失。 随身門は19世紀後半の建築で石段・鳥居には元禄15年(1702)の銘がある。 松山長昌寺地蔵石仏……:………岡山県指定 花樹岩、自然石の南面に花頭窓風に龕部を彫りくぼめ、半肉彫りにされた地蔵菩薩立像で右手に錫杖、左手に宝珠を持つ。室町時代の応永1 0年から九年の歳月をかけて彫ちれたもめ。本来は現在地の上部にあった磨崖仏であったゲと言われるが、天保7年、(1836)の大地震で転落し横倒しになったものを、岡山藩から滑車を借りで引き起こしたとの伝承がある。 しかしながら、天保7年には大地震の記録が見当たちず、台風などの風水害で転落しだ可

能性が指摘されている。 写真 1 体内より見つかった木札 2 石井寺にあったとされる立像 3. 石井学区西部・東部(石井寺跡谷万成付近) DVD撮影

吉祥寺石井寺

 

岡西公民館で石井学区の歴史を講演した岡山市埋蔵文化センター高橋氏に会い石井寺について聞いた。 早速一宮近くの矢吹さんの案内で見に行った。ちなみに共に電動自転車だった。 胎内銘札の検討 長柄葦原は,おそくとも古代末~中世初頭には一応の開発が終り,大安寺の荘園として早くから開墾か展開されていったようである。鎌倉中期には,一時皇室御料となったようであるが,その後の動向については判然としない面が多い。時代はずっと下がるが元文二年に成立した岡山藩の地誌「備陽国誌」」によれば,江戸時代の大安寺村,正野田村,矢坂村の三村を合わせて大安寺荘であったと記され,古代~中世にかけてこの地域か大安寺荘であったことは確かである。大安寺庄内の石井山吉祥寺とは,いかなる寺院であったか詳らかではないが,近世の文献資料にその名をとどめるものがある。現在の旧大安寺荘の推定地域内には石井山吉祥寺と称する寺院は存在しない。しかし,文禄四年の金山寺文書「備前国四拾八ヶ寺領并分国中大社領目録」によれば「石井山拾石」と記され,当時石井山(おそらくは吉祥寺)の存在を知ることができる。その後,寛文六年に池田光政によって強行された寺社整理に合って退転,廃寺となった寺々の書上げによれば,三門村に吉乗山石井寺と称する日蓮宗の寺があったことが知れる。この吉乗②山(吉祥山の誤記か)石井寺は,寺名と山号が逆転してはいるものの石井山吉祥寺に相違なく,寺院の変遷過程一般の中では寺名と山号が転倒する例がしばしばみられることや寺の在った三門村も旧大安寺荘内であったことからしても,天文年間における石井山吉祥寺と吉乗(祥)山石井寺は同一寺院であったに違いない。 石井山吉祥寺は,寛文年間に強行された池田光政による寺社整理に合って廃寺となり,その後再興せられることなく,現在まったくその跡をとどめていない。しかし,石井山吉祥寺に関するいくつかの文献資料と寺跡と推定される地域で古瓦の採集が行なわれ,吉祥寺が存在したことを裏づけている。 石井山吉祥寺に関する最古の文献資料は,現在のところ今回の修理で発見された胎内銘札である。それによれば当時の三野郡大安寺庄内に石井山吉祥寺があり,その南谷の住僧実蔵房の弟子実相房日永によって天文二年に毘沙門天の修理が施されている。銘文中の実蔵房の肩書きを記した部分にわざわざ南谷と但し書きが付してある点が注意される。このことは,実蔵房が吉祥寺そのものやあるいは本房の僧ではなく南谷の院ないしは房の住僧であったことを示し,当時吉祥寺を一山とする数院によって塔頭が形成されていたことを暗に示している。 この資料以前の状況を物語る資料としては,記年が不明のためその成立時期が判然としないが,「備前国金川臥竜山城主松田左近将監権頭元隆伝記」には,「当時他宗に改宗を迫りし寺山は下の如し」と記して「石井山○○寺」を初めとして日応寺,幸福寺等々の合計11ヶ寺の名を書上げている。この石井山○○寺は,おそらく石井山吉祥寺に相違なく,備前松田氏の十代に当る元隆によって吉祥寺が改宗されたことを伝えている。松田元隆は,松田氏系譜によれば寛政四年正月二十二日生,天文四年二月二十日卒となっており,その間73年を数え,当時とすれば非常に長命であったようである。元隆は,大永二年に左近将監に任じられ,権守を称している。彼に関する信頼できる文献資料としては,備前吉備津彦神社資料の中に文明二月六月四日付の「松田元隆花押下知状」があり,系譜に伝える④。時期に存在した人物であることが知れる。とすれば,彼が備前,備中で改宗を迫った時期は,彼の生存期間中であり,彼の没した天文四年以前であることは確かである。毘沙門天胎内銘札からしても少なくとも天文元年以前に石井山吉祥寺は松田元隆によって日蓮宗に改宗せられていたようである。改宗前の吉祥寺が何宗に属したいかなる寺院であったかについては一切不明である。(根木 修)仏像保存修理報告書より 写真 大覚大僧正が佐渡に島流の絵(祖粗堂) 石井寺跡近く A宅 美術館 妙林寺うえ辺りの古墳跡また富山城主弟の城跡

中國大返しと富山城

高松城水攻めの後、太閤記などによると1日にして姫路ないし大阪に帰り明智光秀を討って天下人になったと書かれ語り伝えてこられた。可笑しいと思いながら当時凄いことが起こったとしか思っていなった。現実にはありえない事である。講談調の語りであった。

秀吉は毛利氏との和睦交渉を終えると、光秀を討伐すべく上洛の途についた。その直後、毛利氏は信長横死の情報を人手したという。これを知った吉川元春は、和睦を破棄して秀吉を追撃すべきであると息巻いた。しかし、小早川隆景は「誓書の墨が乾かないうちに和睦を破棄するわけにはいかない」と真っ向から反対したという(『川角太閤記』)。実際には、この時点で毛利方は信長の死を知らなかったというのが正しく、この逸話は単なる俗説として退けなくてはならない。

備中高松城を発った秀吉は、常識を超えたスピードで東上の途についた。これがいわゆる「中国人返し」と称されるものであるが、通説には疑義が認められる。最初に、これまでの通説を確認しておこう。秀吉は毛利氏と和睦を締結したのち、同月六日まで動くことができなかった。その理由は和睦を結んだとはいえ、毛利氏の軍勢が脅威として存在し、容易に動けなかったからである。ようやく毛利氏が撤退したのは、六日のことであった。

ここから秀吉の軍勢も一斉に上洛をめざすことになった。

ひとつの説としては、六日のうちに備中高松城を出発し、その日のうちに約二十二キロメートル離れた沼城に到着したという。そして、翌七日に秀吉軍は沼城を発ち、翌八日の朝に姫路城に到着したと伝える。沼城から姫路城までの距離は、約七十キロメートルもある。前者については問題ないと考えられるが、後者は相当な強行軍である。兵卒の装備は重たく、道も状態が良くなかったはずである。

ところが、秀吉の書状には、さらに厳しい強行日程が記されている。六月七日に備中高松城を出発すると、約九十キロメートル離れた姫路まで、わずか一昼夜で到着したというのである(「滋賀県立女土城考博物館所蔵文書」)。この書状は、本能寺の変からわずか四ヵ月後に書かれたものである。ただ、この書状は例のごとく、高揚した気分で大袈裟に書いており、一次史料とは言いながらも信用を置けないところがある。

ふたつの説が根本的に間違っているのは、備中高松城を離れた日を六月六日もしくは七日としていることである。『黒田家譜』には、姫路城における官兵衛の進言が記されている。官兵衛は姫路城へ立ち寄ることなく、すぐに合戦のために進軍すべきであると秀吉に意見を述べたという。しかし、後述するとおり、秀吉らが姫路城に滞在した事実が認められるので、この説は誤りと考えられる。{渡辺大門)

宇喜多直家が岡山(石山)城共に毛利に対する最前線であった富山城を忠家が築城し、忠家は6万石の治行を持っていた。直家が毛利より信長に従うことになり重要度が増した。増してや直家が亡くなった、当時は松田の時代からの野殿城は弟の忠家の屋敷として使われ、高松城水攻めの最前線作戦本部が置かれていた。

 備前軍記によると、高松城水攻めのより毛利と和睦後、 さて6月6日の早朝、備前勢がまず岡山に帰陣し、次いで同日未の刻(午後2時ごろ)秀吉が陣を引き払って辛川村に至り、ここで人数を分け、主力は半田山の前の古道から旭川の釣の渡を越え、先陣から順次東進した。秀吉は旗本の人数だけを従え、矢坂を越えて岡山に赴いた。

東軍の大部分は、旧古山陽道に辛川から入り、宇喜多軍は矢坂大橋を渡り沼城への道を帰った。

宇喜多忠家は高松城水攻めの最大の功労者であった。東軍、秀吉、重臣と宇喜多重臣は野殿屋敷に戻り、毛利の動きと明智光秀の討伐の軍議を行った。そして、秀吉は摂津茨木城(大阪府茨木市)の城主で明智光秀に近い中川清秀に対して、事を自らの有利に運ぼうと画策した返書を送った。そして、まとまった所で岡山城に向かい八郎後の秀家に報告した。

宇喜多八郎は明石飛騨を従え、岡山城下の町口まで迎えた。秀吉は懇ろに挨拶して岡山城に人り、暫く八郎と対面した。八郎の家臣浮田七郎兵衛・浮田左京・明石飛騨・戸川助七郎・長船又右衛門・花房弥左衛門らも次の間に控えていた。このとき戸川平右衛門は関東の草津へ入湯に赴き留守であった。(備前軍記)

この辺りを検証する意味でも、富山城祭を野殿中心に6月4~7日に開くことを検討している。字図と現代図を重ねた。

笹ヶ瀬川は直線でなく大川を蛇行して野殿地区は備中領であった。

五輪の字当たりの南が野殿交差点、西署。大川沼の跡に大野小学校、大安寺中等校がある。

上に太然時があり、城ノ内に野殿城、忠家御殿があった。

 

 

ツツジ祭 4/7

投稿日 2018年3月30日 by tsuboigenzaemon
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ツツジ鑑賞会20170408dvd%e7%9b%ae%e9%8c%b2k1ツ ツ ジ 祭

平成3041日 

「市久会」「矢坂山を語る会」

春雷が鳴り、梅、曙にウグイス小鳥が蜜を吸い庭が騒がしくなりました。既に桜の開花が伝えられ矢坂山の山桜と山ツツジが楽しみな季節になってきました。

今年も。多くの話題の中より2題を選ました。

 

日 時 : 平成3047日(土)

 9時より16

場 所 :ツツジ鑑賞会  9時より自由登頂など各登山道ただし、ボランティア同行要

 オープン 大野コミュニティーハウス集合 岡山市北区大安寺東町23-21

講演会     1330分より  50名 申込順

演 題:①石井寺・富山城から高松城水攻め     岡山市文化財課  高橋伸二氏   

②岸一太物語「葬られたツルギ号の秘密」近日出版  市久会  坪井 章氏

      

会 費 : ツツジ祭 無料(飲物・昼食など各自)  講演会 500円(資料代)

申込書

  ツツジ鑑賞会 講演会
お名前  
連絡先  
Tel/Fax E-mail  
参加項目    

※参加項目に○、 ないし人数を記入願います。お手伝い頂ける方申し出下さい。

事務局

〒700-0961 岡山市北区北長瀬本町25番14-5号 Fax 086-252-0007 携帯 080-1930-6282

E-mail tsuboi@ballade.plala.or.jp ブログ https://tsuboigenzaemon.wordpress.com/

企画案  ツツジ祭・ 講演会のボランティア募集

投稿日 2018年3月4日 by tsuboigenzaemon
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ツツジ鑑賞会20170408

首都岡山計画首都岡山計画ツツジ鑑賞会20180301

例年より欲張った企画をつくりました。

100年後を見てゆっくりと楽しい日本・岡山さらに世界を見て、平和になると良いです。

特に矢坂山は危機的状況にあります。

ツツジの苗を頂けると幸いでです。また、不要な本、登山用品、DVDを頂けると幸いです。

更に良い案を募集していましす。

寄稿      首都岡山計画
 友人 平田幸治(中区福泊)
 ながらかに続く緑の丘、その前方に広がる紺碧の海。雲一つない青空に明るい太陽が燦々と輝いている。極めっきは、丘の上で回っている白い風車だ。どことなく異国を感じさせる、印象的な絵だ。・高嶋哲夫著『風をつかまえて』 「プロローグ」から引用 この小説の内知町の小学生の絵には白い風車が描かれているが、その町には小説が始まる時点では風車はない。だが、白い風車を絵に描けば、風車のある風景になる。
 人間が想像すれば新しい何かを創造することができる。
 さて、先の衆議院議員総選挙で11回目の当選を目指す自民党の逢沢一郎さんは総決起大会の岡山市民会館で「・・未来の岡山首都計画」を提言した(2017年10月18日)。「学者を動員しても・・」と踏み込んだ。
 壇上の和気健・白由民主党岡山市議団長は、未来への公約とも感じた。
 私は和気さんに本紙への寄稿の依頼をうけて後、逢沢さんに確認した。「岡山首都計画の勉強を始めました。勉強研究の準備段階です」というお返事だった。
 和気さんには、この逢沢さんの岡山首都討画には思い当たることがあった。冒頭引用した作家・高嶋哲夫さんの著作『首都崩壊』 (幻冬舎、2014年刊)の逢沢さんのセミナーで首都を吉備高原に移設する案を聴いたのである。
 そして、2018年1月5日「あいさわ一郎年始会」で、逢沢さんは「(岡山首都計画は)例え1O年、100年かかっても・・」と述べた。和気さんは自民党岡山市議団長の同挨拶で、逢沢さんの「岡山首都計画」に賛同した。
 岡山は多角的見方で日本の中間に位置し自然災害も少なく空港や新幹線が整備されており大規模災害の際にも首都機能を十分果たすことが可能だと考えられる。
 和気さんは、岡山首都計画を考える上で適地の核は岡山操車場跡地公園ではないかと考えている。まず絵を描いてみることが大切である。 (ひらた こうじ) 了
 和気たけし

(企画案)ツツジ祭 & 講演会ボランティア募集
平成30年 3月1日 
「市久会」「矢坂山を語る会」
寒四温で日ごとに温かくなり、矢坂山の山桜と山ツツジが楽しみな季節になってきました。
世界遺産登録準備として署名講演協力よろしくお願いたします。
日 時 : 平成29年4月7日(土)~15日(日)
 10時より16時
場 所 : ツツジ鑑賞会  9時より自由登頂など      各登山道ただし、ボランティア同行要
• オープン    大野コミュニティーハウス集合 岡山市北区大安寺東町23-21
• 会期中講演会  正野田公会堂・北長瀬公会堂など

講演会     10時より 各会陽 50名 申込順
演 題(例):①納豆と焼酎のちょっと良い話 倉敷芸術科学大学特任教授 須見洋行氏    ②―日本初の飛行機を作った医師-岸 一太  市久会   坪井 章氏
      募集中 (年齢は問わない)
        要旨 裏面
会 費 : ツツジ祭 無料(飲物・昼食など各自)
          講演会 500円(資料代)

北長瀬北口近く 何処でも、何時でもバスのテスト(中鉄)
他 多くの企画募集

申込書
ツツジ鑑賞会 講演会
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連絡先
Tel/Fax E-mail
参加項目
※参加項目に○、 ないし人数を記入願います。お手伝い頂ける方申し出下さい。
事務局   

 赤羽飛行機製作所と日本飛行機製作所

投稿日 2018年2月22日 by tsuboigenzaemon
カテゴリー: 未分類


赤羽飛行機製作所創立披露と将来の計――川上中尉の帝国義勇飛行会と馬詰氏の中央飛行学校――中島機関大尉予備役編入と「退職の辞」――川西清兵衛氏と提携、合資会社設立――佐藤氏の高度記録――第三次練     習生に飯沼、後藤、田中三氏――沢柳主事の退職――フランス戦線で山中忠雄氏殉職――航空関係出版物の沈滞

 

赤羽飛行機製作所では、工場内に埼玉県大宮の氷川神社から猿田彦命の御影を勧請して赤羽神社を建立し、岸博士自ら衣冠束帯で奉仕してした。

職員には井上武三郎中尉が操縦主任に、宗里悦太郎氏が機体工場長に、佐々木利吉氏が機械工場長に、それから原愛次郎氏は技師長に、また時事新報社員で飛行記者倶楽部の古老だった知覧健彦氏が庶務主任として新たに入って来た。

飛行機はさきに巡回飛行に飛んだ一三年型モ式と今春完成の一四年型モ式のほかに、昨秋失敗の牽引式複葉機を改造した翼幅一三㍍、翼弦一㍍五〇、全長九㍍の複座機があり、いずれも同工場製のルノー式七〇馬力が装備されていた。

岸博士は飛行場と工場施設の一段落を待って十月二十八日、ついに明治四十二年以来の刀圭界引退の披露宴を帝国ホテルに張り、内務大臣後藤新平子爵、逓信大臣田健治郎、農商務大臣仲少路廉、田中館、横田両博士らを初め、朝野多数の来賓を前に将来民間航空工業にたずさわる決意を披歴(ひれき)し、博士得意の剣山から産出のモリブデンで造った小刀を記念品として来賓に贈った。その小刀の鞘(さや)は全部梨地で柄には飛行機と発動機を金蒔絵(きんまきえ)し、身鞘には聴診器を描いた六寸五分のものだった。

越えて十二月一日、飛行場開場式をあげ、この日も多数参列者を擁して井上中尉はモ式一四年型で飛行場附近を縦横に飛んだあと、東京にあしをのばして赤羽飛行場開設披露のビラをまいて帰り、更に五日にも原氏同乗で東京に飛び出したが、発動機の故障で洲崎埋立地に不時着し、修理の上、翌日正午、帰還した。

完成した同飛行場のおもな施設は四機収容の格納庫、飛行機体工場、発動機工場、製鋼所、電気炉、本部事務所、宿舎など各一棟である。

開場式当日、岸博士は「飛行場設立の主意は兵器、武器の研究、すなわち飛行機、発動機、進んでは潜航艇の研究製作にある。そしてかかる研究事業は決して営利ということと両立しない。私の如き算盤珠(そろばんだま)に縁の遠い人間に最も適当した仕事である」とあいさつして抱負の一端を述べた。

近く少年を主にした飛行学校を開設し、飛行機操縦、自動車運転練習生五〇名くらいを収容して修業期間を一年半と予定しているが、練習費はガソリン代だけの実費にするか、それとも外国の例を参考にするか考究中である。

一方に、日本飛行学校で指導の任を頼まれていた川上親孝中尉は早くも九月末、同校を去って帝国義勇飛行会を発起し、事業として飛行学校を創立する計画で大森池上の本門寺附近に事務所をかまえて寄附金募集を開始していた。学校は自動車の運転からはじめ、飛行機は軍隊式に養成する方針を発表し、校長に吉井幸蔵伯爵をかつぐ奔走をしていたが、結局義勇飛行会も学校も実現を見るに至らずして挫折してしまった。

またフランス帰りの徳島県人馬詰駿太郎氏は代々木練兵場近くに寓居(ぐうきよ)をかまえたが、これも中央飛行学校の設立をもくろみ、数寄屋橋附近の某ビルディングにある某氏の事務所を借りて足場とし、退役海軍大尉鳥山嵯峨吉、前記の元陸軍技手河本清一、小林末吉氏らを語らつて飛行機と自動車練習所開設運動を始めて見たが資金が続かず、これまた画餅(がへい)に帰した。

前にも記したが、馬詰氏はなかなかぶ弁舌家で、時には侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を吐いて傾聴させることもあったが、フランスに従軍中の経歴も自称するほどにはつまびらかでないところから、次第に誰いうとなく「口で飛ばす飛行家」として有名になり、本人も別にそれに対して異議を申し立てず、よく向つ腹をたてる性癖でいながら.この陰口には本気で腹も立てなかつたようだが、わが軍民航空界に対する不平を絶えず口にのぼせ、感情家だけに昴(こう)じて来ると聞くにたえぬ罵詈(ばり)雑言を弄んで、ひとり快しと

している風があった。

さて待命中の中島機関大尉は十月末、願いの通り予備役に編入されたが、これより先き同氏の飛行機製作会社設立企図を聞いて、大沢の小山荘一郎氏がわが事のように駆けまわり、神戸の雑穀商石川茂兵衛、同茂という兄弟を見つけ出して、これを中島氏に結びつけ、数万円程度の出資契約が成立した。そこで大尉は郷里群馬県太田町の呑竜神社裏、東武鉄道会社所有の元博物館の建物を買収して工場兼事務所、製図室とし、同時に新田郡尾島町と埼玉県大里郡男沼村地先の利根川べり官有地河原二五万坪に目をつけて飛行場敷地の運動を開始していた。

大尉と小山氏の関係は先年、アットウオーター氏が関西で飛んだ時に見学のため出張した折、知己となり、その後、故幾原氏の飛行に際し、大尉は陸軍の故重松中尉と一しよに命令をうけて、その飛行機の整備点検を指導援助した当時、ともに肝胆相砕いた間がらで、今度の斡旋(あっせん)も民間に人のない時、この有為の技術家を守り立たせることの必要を痛感した小山氏の義侠(ぎきよう)と成功でもあった。

しかしわずか五万円そこそこの資本では立ちどころに行きずまり、石川氏兄弟の紹介で新たに川西清兵衛氏の長場となって、はじめて合資会社日本飛行機製作所の設立を見るに至り、また尾島の飛行場は飛行協会借用の名義で埼玉、群馬両県から使用許可を得る段取を作るなど、大尉は一介の武弁や技術家ではなく、なかなかの政治的手腕を蔵していた。

そして十二月二日附、先見の明と洞察を名文卓説に披歴して「退職の辞」を印刷に附し、先輩、同瞭、関係知己の間にくばった。

「宇内の大勢を察するに地上の物資は人類の生活に対し余裕少なく、各国家は互に利の打算に急にして今や、利害のためには国際間に道義なるものを存せず、紙上の盟契、条約の如き殆ど信頼の価値なき事例は欧洲大戦に於て公然と実証せられっっあって、国交は恰も豺狼(さいろう)と伍するが如し。故に国防の機関にして完全ならざらんには国家は累卵(るいらん)の危盤に坐するが如し。而して国防の要義は国家が亨有する能力の利用によって国家を保護するにありて、其の主幹は武力ならざるべからず、故に戦策なるものは其の国情に照らして劃立するを要す。強大なる資力を有し、富に於て優越点を把握せる国家又は四囲の関係より富力を基礎として国防を成立し得る国家は全富力を傾注し得る戦策、即ち富力単位の戦策を採るを最も安全有利とす。されど富力を以て対抗し得ざる貧小なる国家は之と正反対の地位に立つ。即ち富力戦策は必減の策にして危険この上なし。翻て帝国の国情や如何ん。究竟するに我が対手国は欧米の富強にして我が帝国は貧小を以て偉大なる富力に対す。故に富力を傾注し得る戦策に依りて抗せんか、勝敗の決既に瞭(あきら)かにして危険これより大なるはなし。然るに現時海国国防の主幹として各国家が負担を惜まず、其の張勢に努力しつつある大艦戦策は実に無限に富力を吸収するものにして、所詮富力単位の戦策に外ならず、是れにして永続せられんか、皇国の前途は慄然寒心に堪えざるなり。惟うに外敵に対し、皇国安定の途は富力を傾注し得ざる新武器を基礎とする戦策発見の一あるのみ。而して現代に於て、この理想に添う所のものは実に飛行機にして、これが発展によりては能く現行戦策を根底より覆(くつがえ)し、小資をもって国家を泰山の安きに置くことを得べし。夫れ、金剛級戦艦一隻の費を以てせば優に三千の飛行機を製作し得べく、一艦隊の費を以てせば能く数万台を得べし。彼に飛行機相互の間隔を最小限五百米となすも、五万台の単縦陣は一万五千哩の長きに達す。この地球の直径も尚、八千哩に過ぎざるの事実に想倒せば、人類の能力及び現代の通信機関を以てしては斯かる多数の飛行機隊を同時に指揮操作し得べしとは思われず、況んや一局地に限らるべき戦線に使用し得べき両軍の飛行機数は自然、大ならざる制限の下に立たざるべからず。

即ち飛行機に集注し得る資力には大ならざる限度あり、この点に於て国防上の強弱には貧富の差なきを得べし。而して三千の飛行機は特種兵器(魚雪)を携行することにより、その力遥かに金剛に優れり。斯くの如く飛行機発達の如何は国家の存亡を支配す。故に欧米飛行界の進況如何に拘らず、我が帝国は独特の進歩発達を企図せざるべからず。然るに事実は大に之に反し、我が飛行界の現状は其の進歩遅々として欧米の進勢に比すべくもあらず、常に数段の隔おり、随って飛行隊の如きも微々として振わず、実質に於て存在の価値だになし。是れ実に国家を挙げて最大恨事たらざるべからず。而して我が飛行界不振の原因は種々多岐に亘ると雖も、その主因は製作工業が官営たるの一事に坐す。進歩激烈にして具の製作短時日に成る工業を、初年度の計画が議会の協賛か待ち、翌年度に於て初めて実施時期に入るが如き政府事業を以てするは、既に根本に於て不適と云わざるべからず。斯かるものは其の実施に関する諸般の行使が縦横自在なる機関に委し、始めて其の目的を達し得べきなり。実に飛行機は完備せる工場に於てせば計画製造まで一ヶ月の日子を以て完成するを得、故に民営をもって行う時は一ヶ年に十二回の改革を行い得るか、官営にては正式に云えば僅かに一回のみ。故に官営の進歩は民営の十二分の一たるの理なり。欧米の先進諸国が飛行機製作を官営兵器廠にて行わず、専ら民営に委ね居るの事実は一にこの理に存す。斯く帝国の飛行機工業は今や官営をもって欧米先進の民営に対す。既に根本に於て大なる間隔あり。今にして民営を企立し、これが根因を改めずんば竟(つい)に国家の運命を如何にかせん。実に飛行機工業民営企立は国家最大最高の急務にして、国民たるもの皆、これに向って奮然、最善0努力を傾注するの義務あると共に、この高尚なる義務の遂行に一身を捧ぐるは是れ人生最高の栄誉たらざるべからず。

不肖爰に大に決するところあり、一世の誹毀を顧みず、海軍に於ける自己の既得並に将来の地位名望を捨て野に下り、飛行機工業民営起立を劃し、以てこれが進歩回忌に尽し、官民協力国防の本義を完うし、天恩に報ぜんことを期す。今や、海軍を退くにあたり、多年の厚誼を壊い、胸中感慨禁じ難きものあり。然しながら目標は1貫国防の完成にありて、野に下ると雖も官に在ると真の意義に於て何等変るところなし。吾人が国家のた  め最善の努力を振い、諸兄の友情恩誼に応え得るの日は寧ろ今日以後にあり。ここに更めて徒前の如く厚き指導誘腋を賜らんことを希い、併て満腔の敬意を表す」