岸一太の関西での報道

投稿日 2018年2月3日 by tsuboigenzaemon
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 大正期に岸一太はつるぎ号で東京より大阪に四時間で飛んだことが東京で報道されている。
これについて、関西での報道がどのようであったか大阪府立図書館に調査をお願いした。
・『日本航空史 明治一大正編』(日本航空協会/編集 日本航空協会 1956)p 231 に、「京都伏見の小畑常次郎氏のモーリス・フアルマン式に、岸博士製作の発動機を整備して、試運転を行った」旨の記載があります。
・『朝日新聞』(東京版)1916年10月19日朝刊5頁6段の「弓より思付きし飛行機用材 岸博士新型飛行機を製作し 来月早々洲崎埋立地にて試験」の記事中に「目下『つるぎ号』を携へて関西各地に巡回飛行会を開催中なる・‥」との記載があります。
・『朝日新聞』(東京版)1916年12月29日朝刊6頁2段の「本年の航空界(下) 所謂試験時代 悲しき出来事」にて、「岸博士の其の製造業に罹るルノー型七十馬力発動機を装置した剣号が前飛行将校井上中尉の操縦に依り処女飛行に成功し、長岡中将の設立した国民飛行会と提携して関西各地に実物巡回公演を開催し、…」との記載があります。
・『日本航空史 明治・大正編』(日本航空協会/編集 日本航空協会 1956)のp 274-279 「剣号と国民飛行会提携の巡回飛行」に記された、詳細な巡回の場所や日付を確認しますと、剣号の巡回地は、山陰、四国、九州の各地となっており、大阪の記述は見当たりません。

剣号の処女飛行成功 今朝も七時から
・1916年7月3日東京/朝刊5頁2段
剣号再飛行 一時間の航空 又もや好成績/民間飛行界の誇り 成功した発動機
・1916年9月14日東京/朝刊5頁1段
島津氏二万円を貰ふ 飛行協会懸賞一等発動機 昨日賞金授与式を行ふ/一万円を貰ひ損った友野氏 次に気の毒な岸博士
・1916年10月19日東京/朝刊5頁6段
弓より思付きし飛行機用材 岸博士新型飛行機を製作し 来月早々洲崎埋立地にて試験丿916年11月26日東京/朝刊5頁5段
岸博士の新飛行機<写>
・1916年12月13日東京/朝刊5頁3段
新剣号の破壊 搭乗者の負傷
・1916年12月29日東京/朝刊6頁2段
本年の航空界(下) 所謂試験時代 悲しき出来事
・1917年10月29日東京/朝刊5頁8段記事
岸博士の引退 昨日披露会
・1917年12月2日東京/朝刊5頁6段
岸博士経営の飛行場 昨日赤羽に 盛な開場式
・1919年3月15日東京/朝刊5頁3段
赤羽飛行場に出来る 飛行幼年学校 少年飛行家を養成して 卒業後は軍隊に入営 世界最初の試み
り919年10月14日東京/朝刊5頁2段
民間飛行界覚醒の為め 大々的改造運動 磯部沢柳両少佐等が主となり同志を糾合して会合 飛行協会に対し非難のあるも無理はない と井上中将は語る
・1920年9月16日東京/朝刊5頁9段
職工給不払から赤羽飛行場の動揺 岸場長出張中に勃興 閉鎖説等流布さるるも 事務所主任は断然否認
・1915.01.10飛行発動機披露 岸博士の発明製作 朝刊技術7面
・1915.01.13岸博士の発動機 総て内地産の材料で大成功▽披露会を催▽威力を発揮 ほか朝刊技術7面
・1916.07.02つるぎ号飛ぶ 民間飛行の新威力 岸博士和製新発動機の成功 朝刊サービス
5面
・1916.07.03剣号飛翔一時間 大煙突を掠めて前日同様好成績 朝刊サービス5面
・1916.12.12剣号飛ばん 朝刊サービス5面
・1916.12.13新つるぎ号の墜落 機体多くは破壊 搭乗中尉は無事 朝刊軍事5面
・1917.02.11剣号の飛行 朝刊サービス5面
 (1-3)毎日新聞のデータベース「毎索」では、大正期の新聞についても収録されていますが、キーワード検索対象は昭和62(1987)年1月以降の記事本文のみとなっているため、今回のご質問では使用しませんでした。
(1-4)神戸大学附属図書館新聞記事文庫(神戸大学)
大正期の記事が部分的ではありますが収録されているため検索しましたが、「岸一太」や「赤羽飛行」でヒットはありましたが、岸一太の飛行機関連事業についての記事の収録は見当たりませんでした。
※日付指定のない新聞本紙の調査依頼には、合理的な方法がないため、対応しておりません。
ご来館いただき、閲覧・調査いただくことが可能です。
大正期の『朝日新聞(大阪版)』は大阪府立中央図書館・中之島図書館で、大正7年までの『大阪時事新報』と大正期の『毎日新聞(大阪版)』は中之島図書館で、マイクロ資料として所蔵しています
 (2)図書資料
下記の資料に岸一太の飛行機関係の事業について記載があります。
(2-1)『歴史のなかの中島飛行機』(桂木洋二/著、グランプリ出版、2002.4)
・p70-79の「岸の赤羽飛行機製作所と初期の国産エンジン開発」
2-2)『日本航空史 明治一大正編』(日本航空協会/編集 日本航空協会 1956)
・p 184-187 「懸賞発動機の応募二二種」「陸海軍帰還将校の歓迎と講演」
・p 231 「京都伏見の小畑常次郎氏のモーリス・ファルマン式に、岸博士製作の発動機を整備して.試運転を行った」旨の記述
・p 274-279 「剣号と国民飛行会提携の巡回飛行」
・p334-335「赤羽飛行機製作所創設披露と将来の計」

神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 道路(03-072)
国民新聞 1922.12.20 (大正11)

路面改良の変更に市正会は根本的変更意見
東京市会の市正会は十八日夜尾張町松本楼に曇に鮮満地方視察を遂げたる三木武吉、木下常松両氏の歓迎やら忘年会を兼ねて総会を開いた出席は十数名で来る二十二日の市会議案は当日午後に市会議事堂内で総会を開いて改めて協議することにし目下問題となって居る路面改良事業が国庫補助金の予定した二分ノーが十二分ノ五となり又だ大正十七年迄に交付を受くるのが二十七年度迄に内定したり府税の交付金が十二年度に受けることが出来な<又事業繰延が約五万円近くあるを大正十三年から十五年度迄の竣工期迄に割当る等の関係から公債計画を立て工事費三千九百五十万円口外に利子等に於て約三千万円の増額を余儀なくされたに付いて医学博士岸一太氏及米国の道路を視察して先頃帰った永江技師の出席を求めて道路政策に関する説明を聴取した上で協議したが大体に於て原案の路面改良事業の変更は従来の舗装計画に立脚して予算の変更を求めたのであるけれど該計画たる部分的には完全なる基礎工事を施すが為め下水管を初め水道瓦斯電線等の地下埋設物に対しては掘馨を繰返さねばならぬ関係上下水其の他の埋設物整理せざる限り完全なる舗装は困難なれば成るべくコンクリート杯の廉価なもので広<舗装するが焦眉の急であるし埋設物の整理が十分出来て居らぬ現在の実況から見ても穏当である
故十九日に開く道路評議会では自派選出の小森七兵衛、森脇源三郎両氏が舗装の根本計画から変更した提案を要望する趣旨の下に原案の否決を提唱することにして九時過散会した

データ作成:2002.3神戸大学附属図書館
神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫蚕糸業(05-009)
時事新報1914.4.5(大正3)
岸式人造絹糸
桑口の繊維素より紡出
権利仏人に帰せんとす
人造絹糸は織物界多年の問題にして其成否は帝国産業上に影響する所少からざるが医学博士岸三太氏は苦心研究の結果其一製法を完成し仏国工業株式会社理事バーレー氏は仏国ダブルレーダーシンジケートを代表し去年中旬同博士より二十万円にて権利引受けの約を結び売買委任状を携えて帰国したる由今同博士より其発明の経路を聞くに 発明の動機は一昨年夏同博士が東洋パナマの研究をなしたる節各種樹木チエルローゼ(繊維素)よりそれぞれ異種のセルロイドを生ずるを発見し桑食せる蚕より繭の生ずるは桑のチェルローゼの特異性に起因せずやと思考せしに始まれり爾来博士は多大の経費と苦心とを以て研究に従事し桑等の繊維素を漂白して之を硝化しエーテル、アルコール等に溶解したる後一定量の蜻油を加えて紡出し終に完全なる人造絹糸を製出するに至り昨月六月特許を出願し両三日中に認可状下附せらるる筈なりと
 岸式人造絹の特異点は強度著しく三デニール以上随意に紡出し得る上光沢良く従来の人造絹糸の大欠点たる湿潤煮沸洗篠に耐え感触亦絹糸と異ならざるにあり同博士は信州より織布職工を雇入れ自宅研究室にて織布に従事せしめつつあるが之亦真正絹布と相違なきに近し唯真正絹の異る点は蚕繭固有の窒素を含有せざる点なりしも是亦昨今研究の結果進捗して自然絹と類似するに至れりと而して其製産費は一千キロの装置費に約一千五百円を要するのみにしてーキロに付総製産費三円見当なれば在来の絹糸の市価に比較すれば五分の一の廉価に当る若し製造者に於てエーテルの醸造をも兼ぬる時は生産費は更に減少すべく其経済的価値は著しきものあるべしと云う
 内地事業家の交渉此の如く岸式人造絹糸は在来多種の製品と異なり其実用上の経済的価値少からざるもの存するが如くにして果して然らんには正に帝国織物界に大革命を来すべきものなれば富士紡の和田豊治氏鈴木商店の金子直吉氏等は此発明の権利のむざむざ外人の手に帰するを遺憾とし目下岸博士と交渉中の由にて同博士に於ても若し真実吾国の事業家にして引受るの誠意だにあらば仏国シンジケートに対する契約は如何にしても之を破談すべく金銭上の犠牲の如きは敢て解する所に非ずと明言せり

データ作成:2000.5神戸大学附属図書館
神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫製鉄業(05-083)
大阪朝日新聞1920.10.15(大正9)
製鉄自給と砂鉄
団鉱の製法完成
陸軍省にては軍事上製鉄原料自給策に就き焦慮しつつありし際医学博士岸一太氏より曇に帝国内に豊富なる砂鉄を圧搾熔結して団鉱を造り普通鉄鉱に代用するを鉄原料自給の良策とすとの提言あり従来の調査に依れば砂鉄の存在区域は広汎にして就中北海道噴火湾沿岸、青森県下北郡、岩手県九戸郡には多大の砂鉄を見鉱量

のらしい、社長の性格は何時もそんな時には誰にも語らずに独り考えて好いとなると突然のように実行する人であるから此計画も早晩実現されることだろうが、兎も角事柄が大きいし、日本としては初めての試みだけに経費の点や使用する飛行機の構造、又愈々実現さすにしても何ういう方法でやるかなどに就ても充分研究を要することは無論で、目下飛行機に関して造詣の深い吉島法学士が社長の顧問のようになって専心其方面の研究中である、それに飛行協会の阪谷男なども社長に対して色々意見を述べて居られるようである、又飛行協会も一日も早く其実現を期待して居るとの話であるから或は飛行協会に該事業を一任するか、社長が単独でやるか将だ又他の実業家の協力を得てやるかは問題であろう」と語って居た単独経営は先ず困難政府の補助が必要と戸田氏は語る
次で飛行協会を訪うと戸田理事は「協会としてはまだ何等の交渉を受けて居ぬが吉島氏が研究資料蒐集の為め度々協会の技術者徳永大佐に会って相談をして居ることは聞いて居る、協会としては勿論之が実現を歓迎して居る訳であるが協会自身が此計画やら経営を引受けることは性質上出来ぬことと思う、浅野さんにしても之れを独りで始めようとすると却々困難な事業であることは既に航空輸送を実現して居る欧洲諸国の実例が明白に示しで居る、之にはどうしても政府の援助を仰がねばなるまい、其は恰度日本の海運事業が政府の補助によって始めて今日の隆盛を来らしたようなものである、日本の飛行機でも最早充分空中輸送の確信は出来て居る、唯だ金が無いのである、愈々実現されるとなれば現在の飛行機でも優に五十里の道を僅々二十分の時間で荷物を輸送することになって日本運輸界に一大革新を与えることとなろう」と語った

データ作成:2002.7神戸大学附属図書館
神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫繊維工業(06-183)
中外商業新報1936.10.30(昭和11)
ウルトラヤーンからステープルファイバー
製造に成功

浜松一木下技師の苦心
浜松電話=浜松市砂山町日本飛行機塗料会社技師長工学士木下善寿氏は今回ウルトラヤーン(紫外光線糸)及びトーク(飛行機翼布塗料)からステープル・ファイバー糸の製造に成功した、同氏の発明になるウルトラヤーンは白ボロを晒して液体としたものを○・○一ニミリの孔から噴出したものを伸長防糸してつくるもので耐震動、耐油、耐水性等が充分であるのみならず難燃性、弾力性に富み、光沢も頗るよく目方も人絹糸の比重一・五であるのに対し生糸同様一一三である、更にこれを有機酸で処理すればステーブルーファイバーの代用品となりそれによって出来たものは弾力性もあり強度の点て生糸にやや劣っているが、その他の点では生糸より卓越して居り極めて理想的の繊維である、これによって織布されたものは紫外光線を完全に透明することが出来るので着用すれば直接日光光線に当っているのと同様の効果があり、製造原価は人絹よりやや高くなるが、紫外線の透明を利用し得ること、原糸から織布まで一貫作業をなし得るようになついる、右につき木下氏は語るかつて岸―太博士が硝化綿を溶かして人絹糸の製造を始めたが、これは可燃性のものであるため学界から黙殺されそのまま宿題となっているが、今度のものは飛行機の塗料からつくる難燃性のものであって岸博士のやったものよりはその点だけでも勝っていると思う

データ作成:2000.5神戸大学附属図書館
神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫製鉄業(06-094)
大阪朝日新聞1922.1.2(大正11)

春風は何処に吹く
此処に吹くは冷たい風
寂れ行く鉄鉱業
寒流砕け散る津軽の海にそそり立ち其の腹には二億噸からの鉱量を呑むと伝えらるる青森県下北半島の岸壁に化学的の方法で砂鉄の採掘を試みて居た岸゜太博士や藤田組の企てはその後どうなっているであろう?
さなきだに戦後の暴落に起つべがらざる打撃を受けた日本鉄鉱業は更に軍縮問題の将来から暗潅たる呪咀を投げられた、戦時三四百円台にも上った銑鉄が六十円内外にまで下落したばかりか生産費が当時の二三倍に騰っている昨今では鉄鉱山の寂れ方は想像の外である日本最大の鉄山と云われる宮城県釜石が九年度六万噸内外、好況時代の半位で十年末には更に減った、年額五千噸の仙人鉄山(巌手県)四百噸の九里木鉄山(巌手県)などは問題外である、関西では昨年の春頃奈良県大峰山麓の大峰鉄山が休山を宣して職工全部を解雇した、戦時中鳥取、島根、岡山の諸地方で次から次と採掘を願い出た砂鉄採取場は最近に至ってばたばたと休山の貼紙を出し現在事業を継続しているものは当時の幾割にも当らない試みに大阪鉱務署管内二府十六県の砂鉱採取の出願件数を此の数年来の統計に見れば
大正十年二二八件
同七年五三三件
同八年七六件
同九年三三件
で大正十年に入ってば二十件になるやならずである、大正七年には五万人からいた男女鉄山就業員が九年後には二万人内外となり十年末にはそれ以下に減少した右に就て同署柏木鉱政課長を訪えば浮かぬ面持で語る『今のところ日本の鉱業界は殆ど行き詰まりの形で殊に鉄の場合は甚しい、生産費は高く鉄価は廉く日に日に寂びて行く鉄山の前途は涙なしでは見られない、唯僅に不幸中の幸は当署管内の就業坑夫は半農的な人が多いので失業問題で騒ぐことなどは斟いのですがそれにしても軍縮の結果が新しい工業の勃興となって表れるのは何時のことでしょう』

データ作成:200口神戸大学附属図書館
神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫政治(30-111)
大阪毎日新聞1923.831(大正12)
人選中の山本伯犬養毅氏等と会見して内
閣組織の諒解を求む
新内閣組織の第一歩として政界各方面の諒解を求める山本伯の会見は三十日も前日に引続き水交社で行われた、伯は午前八時四十五分早くも自邸を出でて同九時五分水交社に入りそれより先き同社に詰め掛けていた山之内、樺山、浅井諸氏等と協議に耽った、同十時五十五分研究会の青木、黒田両子の来訪あり会談約二時間に亘り両子は辞去したがその間俵孫一氏、高山公通中将等の往来あり午前十時問題の人犬養毅氏が玄関先に其の精悍無比の顔を現し次で十一時半有力な新閣組織の幕僚安楽兼道氏も来り犬養氏は青木、黒田両子が山本伯と会談する間次の間で樺山資英氏と会見新内閣組織の計画を仔細に聴取する所あり研究会の両子爵が辞去した後山本伯と午餐を共にして懇談した(東京電話)
研究会幹部暗に入閣拒絶再度の会見に於いて研究会の青木信光、黒田清輝両子は三十日午前十時山本伯を築地水交社に訪問し前日山本伯から後継内閣組織について諒解を求められたるに対して一応の挨拶をなすべく青木、黒田両子から
青木、黒田両子昨日の閣下の御意見は早速同僚にも伝えておいた、しかし研究会は如何なる内閣に対しても是を是とし非を非として居るので閣下の内閣に対してもこの驀絆を脱することは出来ないと思う、この点は同僚間に意見の一致したところである
とて暗に会内から入閣することの不可能なるをほのめかしたので山本伯は山本伯世間では山本が圧制的の政治をやるだろうと云うて居るそうだが自分は決して左様な意志はない、昨日も申述べた通り現下の内治外交を一瞥するに幾多の重要案件が殺到して居る状態であるが此等は内閣の成立以後慎重審議を遂げ決定するつもりである
と政策問題については其片鱗をも洩らす所な<又研究会側において主張するが如き挙国一致内閣なるものが結局両院の多数勢力を無視したものであって決して政治を円満に運行するの途でないという事については更に弁駁もせず考慮の余地も示さなかったそうである、故に折角再度の会見が行われたにも拘らず研究会が積極的援助を与え延いては会内よりの入閣を実現すると云う段取に至らずして両子は午後零時十五分辞去した(東京電話)
幸三派は傍観各派総会の意見一致
貴族院の公正、茶話、同成三派は何れも三十日午前十時幸倶楽部に臨時総会を開き公正会では宇佐川一正男、茶話会では大島健一氏、同成会では伊沢多喜男、谷森真男両氏から夫れ夫れと後継内閣組織に関する山本伯の意見を紹介しこれが対策について協議したが各派とも山本伯の内閣組織に関する誠意は認めるが果して如何なる政策を以って局面を展開せんとするか暫くこれが推移を傍観し其の政策の決定を待って態度を決すべきものであると云う意見に一致し何れも正午散会した田中大将山本伯の招電で急濾上京
伊豆修善寺温泉菊屋旅館に潜在中の田中義一大将は三十日朝山本伯からの招電に接し急濾午前九時三十一分東海道線三島駅発列車で東上した、同駅から同乗した記者に対し田中男は語る
 後継の山本内閣問題については何等語る事はない、政界の事は更に知らぬが今朝山本伯から至急逢いたいと云う知らせがあったから帰るのだ、伯と会って見ないうちはどんな用事か、それも知れぬ、僕が陸軍大臣に推薦されて居ると云うのも新聞で見た位の事である、今回の政変については東京日日新聞は最も詳しくよく書いてあると語り同紙二面欄にある薩派奏効の記事を読みつづけて笑いを洩していた(御殿場来電)
後藤子邸訪客
伊豆修善寺温泉菊屋旅館に潜在中の田中義一大将は三十日朝本伯からの招電三十日後藤子邸の訪問者は左の通りである
 松木幹一郎氏、望月小太郎氏、永田秀次郎氏、長尾半平氏、安場末禧男、中村是公氏、岸一太氏
山本内閣に対しては友好関係絶無高橋総裁の態度は大出来危機に際会した政友会
政友会の山本内閣に対する態度については二十九日の幹部顧問連合会では内閣の実質も未だ不明であり政策も不明である今日急いで決定すべさ問題ではないというに一致したが高橋総裁に対する山本伯の交渉が既報の通りの如きものであった為め高橋総裁が即座に交渉を拒絶したことを以て総裁近来の上出来となし山本内閣に対して一戦の覚悟をきめたものも少くないようである、即ち往年寺内内閣に対して好意的中立の態度をとった際には両者の間に相当了解があったに反し今回の山本内閣とは未だ何等了解がないばかりか或は可なり手強い政敵として迎えねばならぬようになるかも知れぬ情勢となったので党員中には一種の緊張を示し久しく順境に馴れた
政友会にとって頗る重大な局面に際会したものと見ている、加うるに党内には幹部がこの時局に際して我党内閣一本槍の旗を樹てて最後まで楽観を続けたことに対し幹部の不明を責める声もあり横田総務が延長内閣計画に与ったとの世評に関して同総務の態度に多少批難すべき点ありとなすものもあり政友会としては頗る警戒を要する時期と見られて居る、併し一方には党内における責任問題の有無如何に拘らず外に対しては益々結束を固うし一致協力して敵に当らねばならぬとなす説も有力である、
此論者は所謂政友会の伝統的愛党心に信頼して必ずしも党の将来を悲観しては居ないようである。斯<て山本内閣に対する党内の輿論も目下の所少くとも友好関係の絶無を示しているが幹部は何れ山本内閣の実質その政策及びこれに対する党内の輿論の熟するのを見た上で党の態度を決定する筈であると(東京電話)

日本民間航空通史 航空機の黎明期

投稿日 2018年1月20日 by tsuboigenzaemon
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は じ め
江戸で蘭学塾(のちの慶応義塾)を開設、日本で初めて英語の学問を修めた福沢諭吉(一八三五-一九〇一年)は、三度幕府遣外使節に随行して欧米を視察したが、咸臨丸という船で、横浜からワシントンまで実に三か月の歳月を要した。
 それから百年後の今日では、成田からワシントンまで飛行機でわずか一三時間で行けるようになった。
 人間が空を飛びたいという願いは相当昔からあったが、それはあくまでも夢物語りであった。日本では、江戸時代の戯作者・発明家として有名な平賀源内(一七二八-一七八〇年)が翼をつけて屋根から飛んだが失敗したという逸話もある。
 明治三六年(一九〇三)一二月一七日、アメリカのライト兄弟が、初めて動力飛行に成功してからヨーロッパで飛行熱が高まり、明治の終り頃にはドイツやフランスで飛行機や飛行船が飛び回ってその性能を競い合い、続々と新機種が生まれ、それと共に操縦技術を教える飛行学校ができるようになった。
 その情報に刺激を受けた日本では、遅ればせながら、軍用として飛行機・飛行船を使うことを目的に明治四二年(一九〇九)八月、内閣直属の「臨時軍用気球研究会」が発足、明治四三年(一九一〇)四月、外国から飛行機・飛行船を購入することと、その製作、操縦技術を習得させることを目的として、日野熊蔵、徳川好敏両陸軍大尉をヨーロッパに派遣した。
 両氏が帰国して日本での初飛行は明治四三年こ一月一九日であった。その日、代々木練兵場(現・代々木公園)で徳川好敏工兵大尉の操縦するアンーフォルマン機での飛行距離は3㎞、高度70mであった。ライト兄弟の初飛行より遅れること七年たった。
 その後、「臨時軍用気球研究会」の委員であった奈良原三次海軍大技士(海軍大尉待遇)が臨時軍用気球研究会を辞めて、自分で設計製作した飛行機にノーム50馬力のエンジンをつけて明治四四年(一九一二五月五日、所沢飛行場で自ら操縦して高度5m、距離60mを飛行したが、これが純国産機で民間人が飛んだ日本最初の飛行機であった。
 これに続いて民間の飛行家が続出して手製の飛行機で自由勝手に空を飛び廻るようになったので、これを野放しにしてもおけず陸軍省の外局に「航空局」を設け、操縦士の資格が国家試験となると同時に航空局直轄の乗員養成が始まった。
 特に戦時中は民間航空機操縦士の大量養成を行ったが、民間機のパイロットになった者はごくわずかで、ほとんどが軍に駆り出され多くの民間パイロットが特攻で、あるいは空中戦で戦死した。
 昭和二〇年(一九四五)八月一五日の敗戦を境に、日本人が日本の空を自山に飛べない日が六年余りも続いたが、昭和二六年(一九五一)九月八日、対日平和条約が調印されたのを機に、同年八川一目、日本航空㈱が設立され、ようやく日本人が日本の空を自由に飛べる時代が来たのだった。
佐 藤 一  一
第一章航空機の黎明期
第一節 空を飛びたいという人間の夢
 背中に羽のはえた天使や、羽衣を身にまとって空を飛石天女などは「空を飛んでみたい」と願っていた人間の夢であり想像の世界であった。
 今から二百数十年前に、偉大な芸術家であり科学者でもあったイタリアのレオナルドーダービンチは、鳥の飛ぶのを観察して、羽ばたき飛行機やヘリコプターの設計図を書いていたがこれは実現するには至らなかった。
  それを実現させ、実際に人間が空に上ったのは、二百年以上も前、フランスのモンゴルフィエ兄弟であった。彼らは熱気球を作り、温めた空気を気球の中にためて、大勢の人の見守る中で、ふわっと空中に浮かび上ったのだった。その後、空気より軽い水素を入れることを考えたが、それは「飛ぶ」というより「浮かぶ」と云った方が正しいものであった。それは前に進むことができなかったからである。
  その後、ドイツのリリエンタールが明治二六年(一八九三)に、大きな翼を背中につけ、小高い丘の上がら飛んで滑空に成功した。最近、スポーツとして盛んになってきたバングーグライダーの元祖というべきものである。しかし、気球もグライダーも、空気(風)を利用して短い時問、ゆっくり空を飛ぶだけで、本格的な飛行機というものではなかったのである。

第二節 ライト兄弟が動力飛行に初成功
 明治一五年(一八八二)にロシアのモシヤイスキーが初飛行に成功したとか、明治三〇年(一八九七)にフランスのクレマンーアデールが吐界で初めて動力飛行に成功したという説もあるが、記録も証拠も見つかっていない。
 今、肝界的に認知されているのは、明治三六年(一九〇三)一二月一七日、アメリカのノースカロナイナ州キティホークで、兄のライトと弟のオービル兄弟が複葉機を完成して、前後四回飛行して人類初の動力飛行に成功したことである。
 最初の飛行は、わずか12秒、に取高の滞空時間59秒、飛行距離はミ六〇メートルというものだった。

第三節 日本で「臨時軍用気球研究会」発足
 アメリカのライト兄弟が、肝一界初の動力飛行に成功したというニュースに刺激を受けたヨーロッパでは、長年夢であった「人間が鳥のように空を飛べる」という事実に、アメリカよりも飛行熱が高まった。そして明治の終り頃には、ドイツやフランスで続々と新機種が生まれ、飛行機や飛行船が盛んに飛び回ってその性能を競い合い、さらには操縦術を教える飛行学校までができるようになったのである。
 それに刺激を受けた日本でも、軍用としで飛行機・飛行船を使用することとなり、明治四二年(八月、内閣直属の「臨時車用気球研究会」が発足した.
 最初の研究会委員には
  〔陸軍から〕
 会長 長岡外史中将(当時の軍務局長)
 幹事 井上仁郎大佐(当時の工兵課長)
 委員 有川鷹一少佐(砲工学校教官)
 同  徳永熊雄少佐(気球隊長)
 同  徳川好敏大尉(気球隊付)
 同  日野熊蔵大尉(砲兵工廠付)等
  〔海軍から〕
 委員 山屋他人大佐
 同  牛奥励三  (造船小監)
 同  相原四郎大尉
 同  小浜方彦大尉
 同  奈良原三次 (造兵中技士)等
  〔学識経験者から〕
 委員 田中館愛橘 (理学博士)
 同  井口在屋  (工学博士)
同  中村精男 (理学博士)
同  横田成平 (工学博士)
等が就任した。

 第四節 臨時軍用気球研究会の仕事とは

 さて、こうして発足した研究会では、差しあたり次の仕事に取りかかることとなった。
 第一は、日本国内で、日本製の飛行機や飛行船を試作することであった。
 飛行船の方は徳永、徳川、小浜の諸委員を中心に、当時気球隊付であった伊藤赳工兵中尉、岩本周平(東大教授、当時気球隊付陸軍技士)が設計試作員として設計に当った。
 一方、飛行機の方は、日野、奈良原委員が、それぞれの考案を各自の助手を使って設計製図に当ることになった。
 第二は、各委員が設計のために実験したり、実物を.工作したりするための実験雫、.L場、飛行船に必要な水素ガスエ場、飛行機、飛行船の格納庫等の建設であった。
 第三は、飛行機、飛行船の性能テスト、実用試験をするために必要な飛行場の設定、建設であった。
 これは徳永少佐と、岩元周平が担当することになり、地質・地勢・水利・常習風向・土地の価格調査等に自転車で踏査し、埼玉県所沢巾の平坦な、いも畑約八万坪(一反歩=三〇〇坪=百円)を適当地として買収することに内定したのだった。しかし、日本では初めての飛行場建設であるから、果してこの面積でこと足りるのか不安もあって、急拠田中館博士(昭和一九年文化勲章受章)をヨーロッパに派遣した。田中館博士にヨーロッパ各国の飛行場を視察した結果、敷地の広さや施設など所沢の計画で支障なしと判断し、その結果、電報でその旨を報告しました。この報告を受けた臨時軍用気球研究会では、早速十地の買収に着手し、地ならし、建築と矢継ぎ早やに計画に移した。
 第四は、外国ですでに完成している飛行機、飛行船を購入し、これを研究すると共に試験をすること、そして操縦の技術を習得することであった。
 そこで日野熊蔵陸軍歩兵大尉と、徳川好敏陸軍工兵大尉の一一人が選ばれた。二人は明治四三年(一九一〇)四月、シベリア鉄道で渡欧し、徳川大尉はフランスで、アンリー・フォルマン式複葉一機(八、三六三円)、ブレリオ式単葉一機を購入して、操縦術の訓練もわずか二週間で卒業して帰国した。
 日野大尉は、ドイツでグラーデ式単葉一機(五二九六円)と、ドイツ製ライト複葉一機を購入して帰国したが、同年中に着いたのは徳川大尉の購入したフォルマン機と、日野大尉が購入したグラーデ機で、あとの二機は翌四四年三月に到着した。

第五節 日本での初飛行
 日本で「臨時軍用気球研究会」が発足した頃、フランス海軍中尉ルプリェルが、田中館博上の指導で、帝大(東京大学)構内で滑空機(グライダーを組立て、不忍池畔で試験飛行を行なった。自動車で滑空機を引かせて滑走し、高さ一五・六メートル位飛び上ったところで綱をはずし、無事に滑空で着陸し一応成あって、ルプリェル中尉の飛んだあと、同機に搭乗して一応飛び上ったが、綱の片方がはずれて横すべりして池の泥のなかに落ちて失敗した。
 しかし、これは当時見物していた日本人に「人間も空を飛ぶことができるんだ。」という証拠を見せた最初のことであった。
 本格的な日本での動力初飛行は、明治四三年(一九一〇)一二月一九日、代々木練兵場(現・代々木公園)で行われた。
 ドイツーフランスから飛行機を買付け、操縦技術を学んできた徳川・日野両人尉によるものだった。
 徳川好敏工兵大尉がフランスで購入したアンリー・フォルマン式複便機で、距離三キロメートル、高度七○メートル、飛行時間五分というものであった。ライト兄弟の初飛行より遅れること七年目のことである。
 今、この地に「所沢航空発祥記念館」が設けられている。(平成五年三月二七日開館)
 しかし実際には、これより五日前のて一月一四日、日野熊蔵陸軍歩兵大尉がドイツから購入してきたドイツ製(ンスーグラーデ式単葉機で二メートルの高さで一OOメートルの距離の初飛行に成功していたが、「公式飛揚」ではないので、日本航空史では一二月一九日が、日本における初飛行と記録されているのである。

第六節 臨時軍用気球研究会の廃止
 その後、明治四四年(一九一一)一〇月、徳川大尉はアンリー・フォルマン式に気球研究会で改良した国産第一号機を操縦して高度八五メートル、距離千六百メートルを飛行した。
 一方、飛行船の方は、明治四四年にドイツのパルセバール式飛行船を購入することになり、その製造・整備・監督と、取扱い操縦練習のため、石本工兵大尉が総合事務を、益田工兵人尉が取扱い操縦を、山下海軍機関人尉が機関と整備を、岩本周平が製造取扱いをそれぞれ学ぶ目的でドイツに派遣され、P13号(日本では、パ式航空船と命名)の竣工検査に立ち合い、明治四五年(一九一二)六月、シベリア鉄道で帰国した。
  この留守中、明治四四年一0月、伊藤中尉を船長に、中島知久平海軍機関中尉(のち中島飛行機会社を興し、鉄道相、軍需相となる)を機関長として「イ号飛行船」の初飛行が行われ、百メートルほど上昇してエンジンをかけ、ゆっくり飛行場の周辺を飛び廻った。
 これが「イ号気球」と命名された目本で初めて製作された国産飛行船で飛んだ記録第一号である。
 その後、航空機・飛行船の発達ぶりを貴族院議員(現在の参議院議員)や衆議院議員を招いて見てもらおうと大正二年(一九二三)三月二八日、青山練兵場(現・明治神宮外苑)で航空祭を催した。所沢から飛び立った飛行機や飛行船を青山練兵場に着陸させ、更に離陸して所沢に還るという計画であった。ところが飛行船のクセを卜分克服していない操縦未熟の為に、事故をおこしてしまったのである。
 今も香川県仲多度郡仲南町の二宮公園内には京都から分社した「飛行神社」(口絵2頁)が設けられ、忠八翁の銅像が聳え建ち、忠八太鼓が響き渡っている。   

 第三章民間航空の先覚者たち
          第一節 民間航空の第一人者奈良原三次男爵

 日本民間航空の先駆者を語るとすれば、奈良原三次(後男爵・口絵1頁)を置いてほかにあるまい。
 奈良原家は、明治維新のころまでは薩摩(鹿児島県)の島津家の家老の家柄であった。先祖の奈良原助八は、十一代薩摩藩主島津忠昌公が病身のため乱れた領内を平定できないことを恥じて切腹して果てた。助八は、その忠昌公の葬列が菩提寺に入るのを見届けると、その門前でみごとに追腹を切って殉死した。島津家七百年の歴史の中で初めてで最後の殉死者であった。こうして奈良原家には代々熱血漢が生まれた。
 明治維新の生麦事件(文久二年〈一八六二〉薩摩藩の島津久光一行が江戸からの帰途、横浜生麦村にさしかかった際、騎馬のまま行列を横切った英国人四人を殺傷した事件。↓薩英戦争)の発頭人奈良原喜左衛門は三次の叔父にあたる。
 また、京都の寺田屋事件(文久二年〈一八六二〉尊王攘夷派の薩摩藩士有馬新七らが、関白九条尚忠・所司代酒井忠義の殺害を企て京都伏見の舟宿寺田屋に結集したのを、島津久光が家臣を遣わして襲い、殺害した事件、(寺田屋騒動。)で名高い奈良原繁(のち沖縄県知事。男爵)は、三次の父君であった。 
 三次は次男だったが、長兄がドイツ留学中客死したので、三次が奈良原家の世継となったのである。
 三次は岡山第六高等学校から東京帝国大学(現・東大)工学部造兵科に学び、卒業後海軍に入って明治四二年(一九〇二)内閣直属の「臨時軍用気球研究会」が発足するや、委員(当時造兵中技士=中尉待遇)に選ばれて、飛行機の設計、製作にあたった。

手製の飛行機を造り初飛行
 明治四三年(一九〇三)、日野、徳川両大尉が欧州で飛行技術を学んで帰朝、同こ一月一九日、代々木練兵場で日本最初の飛行に成功する半年も前に、三次は当時東京・四谷塩町にあった父繁男爵家の庭を作業場として鹿児島から送らせた丸竹を主材とした「奈良原式1号機」を完成していた。その費用は肖時の金で二〇〇〇円程かかっていた。
 海軍大技L大尉待遇)で海車を退官した余良原ミ次はで史にフランスから購人したブーム50馬力のエンジンを取り付けた「奈良原式2リ機」を完成した。明治四四年(。九い川)斤八几目、ミ次はこの「余良原式2号機」を所沢飛行場で自ら操縦して初飛行を行った。高度.aメートル、距離六〇メートルというものだったが、純国産機で民間人が飛んだ日本最初の飛行であった。
 当時は操縦技術などを教えてくれる教官もなく、飛行機も手づくりの飛行機だったので、まったく「手製の飛行機」で「我流の操縦」だったのである。
 その後、男爵の後継者たる者が、危険極まりない飛行機で事故をおこして万が一のことでもあったり怪我でもしたら大変なことだということで、三次の親戚一同から大反対をされた為に、その後べ次が自ら操 明治四三年(一九〇三)、日野、徳川両大尉が欧州で飛行技術を学んで帰朝、同一二月一九日、代々木練兵場で日本最初の飛行に成功する半年も前に、三次は当時東京・四谷塩町にあった父繁男爵家の庭を作業場として鹿児島から送らせた丸竹を主材とした「奈良原式1号機」を完成していた。その費用は肖時の金で二〇〇〇円程かかっていた。
 海軍大技士大尉待遇)で海車を退官した奈良原三次は、更にフランスから購人したノーム50馬力のエンジンを取り付けた「奈良原式2号機」を完成した。明治四四年(一九〇四)五月五日、三次はこの「奈良原式2号機」を所沢飛行場で自ら操縦して初飛行を行った。高度.五メートル、距離六〇メートルというものだったが、純国産機で民間人が飛んだ日本最初の飛行であった。
 当時は操縦技術などを教えてくれる教官もなく、飛行機も手づくりの飛行機だったので、まったく「手製の飛行機」で「我流の操縦」だったのである。
 その後、男爵の後継者たる者が、危険極まりない飛行機で事故をおこして万が一のことでもあったり怪我でもしたら大変なことだということで、三次の親戚一同から大反対をされた為に、その後三次が自ら操縦するということはなかった。

会社を興して失敗する

 三次が再び操縦稈を握ることがなくなってから中野の気球隊で徳川好敏大尉の部下だった白戸栄之助軍曽が除隊したので、三次の製作した飛行機で白戸が練習飛行することになった。
 その頃三次は、「束京飛行機製作所」という会社を興し「臨時軍用気球研究会」の御用として、ライト式やグラデー式の飛行機の修理、研究用のプロペラ製作などを商っていた。その会社に住吉貞次郎という男を支配人格で採用し、三次はこの住吉をすっかり信用して一切の仕事をまかせ、実印まで預けていた。ところが住吉は信用されていることを良いことに、三次名儀で高利貸しから借りられるだけの金を借りて使っていたのである。住吉は自分で勝手に借金をしておきながら、今度は債権者側に寝返って、壮子(政党に雇われた川心棒)上りの子分数名をひき連れて、三次に厳しく債務の取り立てを責め立てた。その時、三次の作った「奈良原式3号機」の試験飛行中だったが、この3号機の発動機まで差し押さえてしまった。そのため3号機は試験飛行もできなくなったので、三次は止むなく東京に引きあげてしまった。
 明治四三年(一九〇三)、日野、徳川両大尉が欧州で飛行技術を学んで帰朝、同一二月一九日、代々木練兵場で日本最初の飛行に成功する半年も前に、三次は当時東京・四谷塩町にあった父繁男爵家の庭を作業場として鹿児島から送らせた丸竹を主材とした「奈良原式1号機」を完成していた。その費用は肖時の金で二〇〇〇円程かかっていた。
 海軍大技士大尉待遇)で海車を退官した奈良原三次は、更にフランスから購人したノーム50馬力のエンジンを取り付けた「奈良原式2号機」を完成した。明治四四年(一九〇四)五月五日、三次はこの「奈良原式2号機」を所沢飛行場で自ら操縦して初飛行を行った。高度.五メートル、距離六〇メートルというものだったが、純国産機で民間人が飛んだ日本最初の飛行であった。
 当時は操縦技術などを教えてくれる教官もなく、飛行機も手づくりの飛行機だったので、まったく「手製の飛行機」で「我流の操縦」だったのである。
 その後、男爵の後継者たる者が、危険極まりない飛行機で事故をおこして万が一のことでもあったり怪我でもしたら大変なことだということで、三次の親戚一同から大反対をされた為に、その後三次が自ら操縦するということはなかった。

有料公開飛行を実施
 その後、新しく出資してくれる人が現われたので、東京・京橋八丁堀(現・中央区)に「東洋飛行機商会」という新会社を設立して明治四五年(一九一二)三月、「奈良原式4号機]を完成した。そしてその飛行機
 尚、戦時中、日本の逓信省航空局、高等(又は地方)航空機乗員養成所で学んだ朝鮮人たちもいたが、その分は第二編・戦中編で述べることとする

第七章民間航空草創期に羽ばたいた女性飛行家たち

 明治、大正の女性はおとなしく、しとやかで優雅な茫ち居振るまいをするものと定義づけられていた。
従って、女性が自転車に乗ったり自動車の運転をしたりすれば、あれは「お転婆だ」、「男まさりだ」「嫁のもらい手がないぞ」などと云われた時代であった。
 昭和七年(一九三二) 一二月一六日、午前九時すぎ、東京・日本橋の白木屋呉服店四階の玩具売場から火災が発生、火は三時間にわたって燃え続け、三九八二坪を全焼、死者一四人、重傷者百十数人を出す大惨事がおこった。当時の女性はほとんど着物姿で仕事をし、従って下着をはいていなかった。この時の死亡者一四人中、一三人は和服だったので消防署員が下に幕を張って飛び降りるよう指示したが、飛び降りる時着物のすそが開くのを気にして逃げおくれたために犠牲者が増えたのだった。
 これを機に日本の女性も外で働く者は洋服を着、下着を身につけるようになったのである。
 そんな時代背景の中でも多くの女性が空にあこがれ、飛行家になる夢を抱いて羽ばたいていったのである。

女性飛行家第一号 兵頭 精

 大正一一年(一九二二)三月二四日付で三等飛行機操縦士(免許番号第三八号)の免状を取得、日本における女性飛行家第一号になったのが兵頭精である。
 精は、明治三二年(一八九九)四月六日、愛媛県北宇和郡東仲村二五番戸(現・広見町東仲)において兵頭林太郎、同民子の四女として出生した。
 父林太郎は田舎には珍らしい読書家で、明治二〇年代に早くも空を飛ぶことを夢見て絵図面などを書いていたが、明治四三年六月三日、満五三歳で亡くなった。精一一才の時である。精はそういう父の血を受けたのか、母民子から話を聞いていたのか、とにかく自分も飛行家になりたいという淡い希望を抱いていた。
大正四年(一九一五) 一二月、アメリカのチヤールズーナイルスという女性飛行家が来日して青山練兵場で宙返りを披露した。また翌五年一二月には、キャサリン・スチンソン嬢が同じ場所で宙返り飛行をしてみせた。肖時、松山巾・斉笑高等女学校に在学していた精は、この話を聞いたり新聞で読んだりして「女性でも飛行家になれるんだ」ということを知り、ますます飛行家になりたいという夢がふくらんでいった。
 父ござあと、姉のカソエが父親がわりに一家を支えていたが、精の飛行家希望に対しては「女だてらに飛行機乗りになるうとは」と猛烈に反対した。精は止むなく女学校を卒業すると安原医院に薬剤師に見習として働くようになった。しかし人空への夢は忘れられず、合間をみては東京の相羽有が経営する日本飛行学校発行の『飛行機講議論』をとり寄せ独学していた。それを知った姉カゾエは精の思い込みに根負けして「そんなに飛行機が好きならやってみるがいい。」と大枚1千円を援助してくれた。カゾエは、精のいわば自分と共通した男性的路線を生き抜こうとする姿勢に共鳴し、期待し、応援することにしたのである。
 精はこの金を持って二○歳の年の一一月一五日上京した。ところが期待していた日本飛行学校(校長相羽有)では、こ年前の人正六年(一九十七) 一〇月一目の台風で、東京・羽田穴守にあった飛行場は水びたしになり、たった一機の玉井式二号キャメロン機が流され、更にその半年前の五月、操縦教官の玉井清太郎が墜死するという大打撃を受け、相羽は飛行機事業から手を引いて自動車部だけしかなく、飛行機は『講議録』を発行するだけで、飛行機操縦など何一つ教えてはいなかったのである。
 止むなく精は赤羽飛行機製作所(岸一太医学博士が経営し、井上武三郎陸軍予備役中尉が操縦教官)を訪ねたが、ここでは「女では駄目だ」と断られてしまった 精が途方にくれていたところ、ある人から伊藤音次郎が経営する津田沼(現・千葉県習志野市津田沼)の伊藤飛行機研究所を教えてもらった。早速訪れて音次郎に入学を願ったところ、どうせ一時の出来心で長続きはしないだろうが、大金を持ってやってきた相手が男であろうと女であろうと拒む理由はないと、直
ちに入学を許可した。所長の伊藤音次郎はこの時、まだ二八歳、飛行家として実力、人気ともに上昇中で、精が訪れた頃は、設計者に稲垣知足、操縦教官に山懸豊太郎を据え、新機の製作と共に操縦士の養成に専念中でありました。彼は多くの鳥人を育て、奈良原三次に次ぐ民間航空育ての親ともいうべき人物であるが、昭和四六年(一九七一)一二月六日、八〇歳でこの世を去った。

岸一太の山陽新聞記事

投稿日 2017年12月13日 by tsuboigenzaemon
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1890(明治23年)8月29日
関西高校の前進の岡山薬学校に通学当時か?
提籃の需用
御野郡大野村大字北長瀬なる岸一太氏は同郡鹿田村大供にて組提籃と筵提籃を製造し神戸商館に見本持ち行き売り口を求めたるに非常に称賛を得直ちに1万個の注文を受けたるを以て支那豪州等夫々向口の品を製造中なるが当今は其の職人の少なきに困るほどなりといふ盛んに製造するに至れば輸出品の一部に数えらるに至るべしとの事

1912(明治45)年6月2日
関東軍督府技師兼満鉄大連病院長を3年した後、帰国し東京に上京する前であろうか?
@医学博士岸一太君に与う
岡山医学専門学校学生同志委員
合田 獃成

進んで足下との会見談と右演説を対のんに足下の演説には委貝の述ふ所大部分之に賛同する能はざりきと是れ何の言はりや委員が意見を述べるや始め足下は此の問題を以て学生のなす可らざるのなりと云ひき然れども論戦の結果吾人が誠心誠意に足下を説破して学生としてなすも可なりと明言せられたるにあらずや論議の結果吾人の取れる所凡て善を尽くせども只そ形式に於いて聊か暇ぐる所ありとに所論一致したるにはあらずや然らば何を以て足下が大部に賛同する能はざりきなと云い得るや吾人怪牙訝の念に堪えざるなり、又足下の言の此形式の足らずるなを補ハ、然らば、吾等の同志超えたといはれたり而かも演説には其の補足の事たる期しがたき事、実なりと云はり初より出来ざる相談と知りながら之勘むることは何事かりきや、誠に不親切も甚だしく苟も後進の者を指導する紳士の態度と云ふを得べきか、実に言語同断なりと云はざるを得ず。
足下は専ら勉強のみをする以て足れりと只此の一言を以て俺掩ひ去らんとす。
此の消極的行動をのみ学生の半分となすは出理に眛菖思想のみ事苟も自己の利害問題にして又学校に発展に間する事あらば其の向上発展を期して起つは元より当然にして又此の進取的元気こそ青年の至実なれ然れども其常軌を達せる行動ある可らざるや勿論なり。
道辻説をなすものあり岡山医専向上を欲せざる某氏上京して盛んに此運動に向て幾就若くは防塵を加へんとし各方面に其の方法を講ぜり。而して其の結果足下も亦。その確認中の一人となりて之れが阻害に供与するに至れるなりと吾人直に是直に之れを信ずるに能はらずと蹴も又以て全く之れを否定し得ざるなり内にとなれば吾人と会見の結果足下は其の足らざるを補へ然らば助力せんと唱え(学生してなすの不可ならざるは勿論)且学会の為にには1ケ年2千円を支出うる事となし居れり故に必要の場合奮って義援金をもないこの問題の発展を計らん前日に壮語しながら翌日は早手拿を翻すが如く前言を食むに於いては其の問何ら等の消息ながる可らず、世間性々足下の人格に就いて云々するものあり果たして然らば吾人足下の為に之れを悲まずんばある可らず、
吾人の足下の演説を聞きて一言を發せざりし所以のものは之一に
先輩に対する道を思えばのみ其の不遇の言を聞きながら之れに堪えざる可べかららざりしが吾人の心事実に熱涙を飲むの概あり切歯せざる能はざりき然るに足下は東部にありて頻りに足下は東部にありて頻りに足下の辨を以て吾人を説破して遂ひ反したたるなりと得々然たるものありと是れ吾人を悶着せざるものなり吾人同志会の宣言書には苟も此の問題に向かって阻止を加ふるもの対しては相当の防御を施し絶対に排斥するの手段を講ぜざるを得ずと宣せり茲に於いてか吾人又止まる所を知らず本書を呈して足下の回答を聴かんとするのみ。
(完)

庭の紅葉

投稿日 2017年12月7日 by tsuboigenzaemon
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黒部ダムの紅葉が残念ながら見れず、栂池で撮影した写真を楽しんでいます。緑川洋一の写真展が瀬戸内美術館
?で開かれいています。日の出など日本各地で撮影した彩どりを堪能できるでしょう。我が家の写真集を取り出して見ます。
今朝、庭先の紅葉を撮影しまいた。
運動公園のポプラ、楓、岡大のイチョウ、農学部前の楷とありますが、何度撮影しても難しです。
 巨大な楷(かい)の木は『旧閑谷学校』のシンボル。中国山東省の孔子廟から持ち帰った種子から成長したもので、孔子にちなんで『学問の木』と呼ばれています。
写真
風呂前のドウダンツツジ、岡大図書館
前 楷

オルガ、餅つき、美術館

投稿日 2017年12月3日 by tsuboigenzaemon
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9時に家を自転車で出て、西口のオルガの環境フォーラムを聴きに行きました。
中国四国地方環境事務所の環境対策課原田幸也さんがパリ協定と地域再省蓄エネ活用による地域課題の解決についてた話した。経済成長:鍵は「炭素生産性の大幅向上」  高付加価値化によって、「量ではなく質で稼ぐ」を目指す点においては、付加価値生産性と炭素生産性は同じ方向性を向いている。
地方創生・国土強靭化
・地域エネルギーの活用
一再エネ関連の事業・雇用の剔出、国土強靭化等
・市街地のコンパクト化
一人口密度向上による労働生産性の向上、市街地活性化等
・自然資本の維持・充実
一地域の独自性に基づく高付加価値な財・サービスの源泉
地域再・省・蓄エネの意義②
     地域経済の活性化
・エネルギーの地産地消が進むことで、地域内での資金循環が活発化。
・地域企業の設立による安定的な雇用の剔出や税収
 増といった経済効果が見込まれる。
   地域再・省・蓄エネの意義③
      地域課題の解決
・エネルギー販売事業と合わせて介護サービスや福祉サービス等の事業を行うことで、副次的に地域課題の解決にも寄与。(高齢者見守り、子育て支援等)
地域版・自治体新電力の増加
地域に存在する再エネ等のエネルギー資源を地域内で消費し、エネルギー代金を地域内に循環させるため、自治体が地域の企業等と共同して電力事業を立ち上げるヶ-スが浸透。
域内で生み出される再エネや、廃棄物処理で発生する排熱などを活用する事例が多い。
他都市の例は、静岡県浜松市(株)浜松新電力
政令指定都市として全国初の新電力。資本金6,000万円(市の出資比率:8.33%)
現在は、太陽光発電所、清掃工場の電気を買取、市内の需要家へ供給。将来的にはコジェネ、蓄電池等からも電力を調
達し、浜松新電力がスマートシティの担い手となる構想。を上げた。
西口地下道に向かうとパン屋の前で餅つきをしていた。
県立美術館せ文化フォラムを聞いた。
近世の実像を求め 史料の語る近世岡山
「倉敷の町と大橋家一族 山本太郎[倉敷市総務局総務部副参事(歴史資料整備室担当)]
山本太郎[倉敷市総務局総務部副参事(歴史資料整備室担当)]
江戸時代には備中国窪屋郡倉敷村は、幕府代官陣屋が置かれた陣屋元村として町場が発達した。在町倉敷には、周辺農村から多くの人々が流入した。ここでは、倉敷村の豪農商として知られる大橋家を取り上げ、大橋家が倉敷の町場へ移住して力をつけた歴史的経緯や、代官役所支配にも地域の成り立ちにも不可欠な役割を果たしながら、近代における名望家へとつながっていく過程を史料から跡付けてみたい。
「村の記録と向きあう
  和気郡豪農大森家の系図調査より」
森元純一 [和気町歴史民俗資料館職員]
和気郡尺所村の大國家(近世には大森)には、膨大な古文書が残されている。近世も後期になって大森家は、自身の系図を作成して子孫に残したが、膨大な古文書をひもとくと、どのように調査して系図は確定されたのか、その詳細が判明して興味深い。その背景には、近世の村社会が、必然的に豊富な種類の古文書を持っていたことがある。ここでは、大森家の系図調査を通して、そのような豊かな古文書世界を再確認したい。

武家社会に生きる
   ―津山藩松平家文書の武士たち一」
 尾島 治 [津山郷土博物館館長]
江戸時代の武士は、擲楡的にサラリーマン武士とも称されてる如く、その多くは日ノマの勤務に励みながら、それぞれの家の格式に縛られた中で、ささやかな出世を願って生きていた。そんな彼らの実際の暮らしや誇りや諾憤が、今に伝えられる膨大な古文書の中に隠されている。また、大名自身も家を守るためヽ幕府役人を相手に奮闘していた。ここでは、ステレオタイプの武士像ではない彼らの現実を、生の史料から汲み取っている。
DSC_0321[1]

赤羽飛行機製作所・飛行場100周年記念如何に顕彰するか

投稿日 2017年12月2日 by tsuboigenzaemon
カテゴリー: 未分類


魚見山で日の出を祝う日が近づいた。毎年、頂上が一杯となり8畳岩にだれが占拠するか争うこととなる。まだ周りには日の出を見える場所がある。
今から100年前に岸一太は、赤羽飛行機製作所・飛行場を作った。
岡山では全く報道されず他にも多くの方が読売新聞中心に賑やかした。
大正時代2年に中国大連から帰って築地に病院を開業しました。この当時の東京は今と問題は変わらずゴミ、電力、人口過密、防災対策が無い、
そして、関東大震災が起こった。
1922(大正11)年7月25日岸一太博士が世界的の発見
東京市1年の塵芥処分から6千キロから9千キロの電流を起こせる。
他に副産物として酪酸、揮発油が出来て、而も経済的で多大の利益を得られる 博士は今年も亜炭も発明した
この次は糞尿の研究に取り掛かると
  露天焼却
東京湾におけるごみ埋立ての歴史は江戸初期にまでさかのぼることができます。当時はリサイクルの仕組みが整えられていたため、埋立処分は不燃物や建物廃材といったものが主体となっていました。
ところが明治に入ると人口増加、経済発展の影響でごみ量が増加し、ついには家庭の生ごみも埋め立てられるようになりました。生ごみは腐るので、臭気が発生し、ハエやネズミなど害虫獣が巣食うことになります。当初は『溝下水ヨリ生ジタル汚泥』(当時の東京市発行の冊子より)でごみ層の表面を覆う方法(覆土といいます)で対処していましたが、海外から侵入したコレラ、ペスト、赤痢などの伝染病が相次いで流行したため、衛生上の観点からのごみ問題への対応が求められるようになりました。
こういった背景から明治33年「汚物掃除法」が成立、行政がごみ処理の義務を負う法的根拠ができました。この法律を受けた施行規則に『塵芥ハ可成(なるべく)之ヲ焼却スヘシ』(5条)という指針が示されています。
本来ならば専門の焼却場を逐次建設していくべきなのでしょうが、建設計画は付近住民の反対などによって次々に頓挫します。現23区に初めて建設されるには、大正13年まで待たなければなりません。
手近に焼却するなら、処分場に移送されたごみをその場所で燃やす手段があります。
これを「露天焼却」と呼びます。
現在の江東区塩浜にあたる1号埋立地(埋立期間:明治43年〜大正10年)から露天焼却が始まりました。現在の江東区潮見にあたる8号地(埋立期間:昭和2年〜昭和37年)までは、焼却場での焼却と平行して露天焼却が続けられましたが、昭和30年代前半には煙や粉じんに対する苦情が相次いだため行われなくなりました。
「夢の島」という通称で知られる14号地(埋立期間:昭和32年〜昭和41年)以後は行われていません。
露天焼却は野焼きともいわれますが、現在は、『廃棄物の処理及び清掃に関する法律』によって禁止されています。
1921年11月29日
渋谷発電所に勤務のドイツ人技師レ氏月給350円を頂戴して機械装置に汗みどろ 近く大大的に結果は発表
「関東大震災」まで稼働していた「渋谷発電所」
大正期の「東京市電気局」(現「東京都交通局」)は、市電の運行の他、電燈の供給も行っており、1911(明治44)年に前身である「東京鉄道株式会社」から受け継いだ3ヵ所の火力発電所を運営していた。そのうちの一つが「渋谷発電所」。1923(大正12)年の「関東大震災」で被災し廃止されるまで稼働していた。画像は1919(大正8)年の地図で、南東に見える発電所の地図記号が「渋谷発電所」。
1916年12月13日
新つるぎ号の墜落
 千葉県 海岸  井上中将は無事
 夏目漱石葬儀
1915年11月19日
ドイツ夫人の涙物語2 愛を失った夫人には愛児が生命
100円をゼルマの生活費として終生しおくること
をもって6月9日日本を、 後藤の令嬢栄子
1915年5月20日
 岸博士の起訴
岸一太氏の離婚訴訟
大正4年11月22日
岸一太氏は、医師から飛行機技師に転向し、「つるぎ号」を製作した人として名前が残っていますが、彼の離婚訴訟について、大正4年11月の読売新聞に連載が掲載されていましたので、記録として残しておきます。
(上記写真は、インターネット航空雑誌ヒコーキ雲さんよりお借りしました)
馴れ初めからドイツに帰るまで
医学博士岸一太氏は、ドイツ留学中にゼルマさんと出会い、岸氏が心を込めて求婚し、結婚することになりました。
岸氏は前妻との間に子供があることを、ゼルマ夫人に隠していました。
その内に夫人に発覚し、岸氏は「隠したのはあなたを愛するあまりだ」と答えています。
まもなく長男一麿が生まれましたが、夫妻は長男をドイツに残したまま、台湾に赴任することになりました。
岸氏は台湾で奉職中、当時の民政長官後藤新平に気に入られています。
その内に岸氏の愛情は冷め、岸氏はゼルマ夫人に離婚を迫ります。
ついに明治44年、岸氏は、
「ドイツに残しておいた一麿を教育するため、またお前がいれば十分な立身出世を妨げられる点があるから、ひとまずドイツに帰れ。こちらからは子供の養育費と生活費は必ず送る。」
と、公証人を立てて、
「ゼルマはドイツに帰って、子供の教育に従事すること。その費用として、岸一太は毎月30円を子供の養育費、100円を夫人の生活費として終生送ること。送金は毎月5日とする。その義務を怠れば、直ちに強制執行しても意義なし。
一太の収入が400円/月に達すれば、仕送りを120円とし、700円に達すれば130円とする。
ゼルマは6月9日に、日本を出発せねばならぬ。」
という文書を作り、夫人をドイツに追い返しました。
溜まりかねた夫人は、博士の旧師である金杉博士(*金杉英五郎、慈恵医大初代学長)に事情を訴え、金杉博士は後藤男爵や岸博士の態度を非難し、岸博士に忠告の手紙を出しました。
それもむなしく、契約通り6月9日、夫人は懐妊の身でドイツに旅立ちました。
ドイツ帰国後
ドイツに帰った夫人は、次男かづ太を出産。
一麿とかづ太の養育を行なっていて、岸氏も約束通りのお金を送金してきて、そのうち生活費を30円増額してきました。
ところが約1年を経過した大正元年10月に、博士からの送金が途絶えます。音信も取れなくなりました。
そしてその12月に、博士から離婚の訴訟があり、公示送達によって答弁の機会もなく、離婚の判決が下されてしまいました。
博士は判決が確定されると、新たに妻を迎え、ゼルマ夫人からの手紙に対して、何の返事もよこしません。
夫人はとうとう大正2年の7月、日本に戻り、執達吏に依頼して、滞納の生活費を強制執行します。
博士は直ちに異議の訴訟を起こし、この問題が表沙汰になりました。
裁判の争点
岸博士の主張
ゼルマは長男一麿を養育せず、他人に与えるとか売ったという噂があり、契約を誠実に履行していなかった。
よって契約を解除し、離婚訴訟を起こしたのである。
裁判が確定したため、証書に記載されている義務は消滅している。
ゼルマ夫人の主張
原告岸一太の主張は、不実、不法なものである。
契約を解除されたこともなく、一麿の教育も怠らず行なっていた。
原告が使用したドイツの探偵は、ドイツでは悪名高い探偵社で、全く信用の価値はない。
離婚訴訟は、ゼルマの不在に乗じた公示送達の方法で行われ、ゼルマは答弁の機会を得ず、形式上離婚された形になっているが、この判決を知り東京控訴院に控訴中である。
よって裁判は継続中で、離婚は確定していない。
これ以外にもドイツに帰って次男を生んでおり、それは岸も認め、岸の戸籍に登録してあるが、この次男に対する養育料は一銭も送っていない。
連載のまとめ
「この事件を皆さんはどう見るでしょうか、社会の判断を仰ぎます。」と、記事は結ばれています。
飛行機製作にお金が必要だったのか、医師会からの転身に、何か関係があるかもしれません。
 37:16. 2009年11月13日 17:27 投稿 … ドイツの文豪ゲーテが24歳から82歳までかかって書き上げたファウスト、それは古代ドイツの伝説である。多くの作家 …. CIAの罠にはまり親友を失った傭兵が、友の復讐を誓い、新たなミッションを遂行するアクション。 … 出演は「イントゥ・ザ・サン」のスティーヴン・セガール、「ブレイド2」のルーク・ゴス、「マルコムX」のロジャー・グーンヴァー・スミス。 …. 出演は新鋭のジョージナ・ケイツ、「クローズ・マイ・アイズ」「いつか晴れた日に」のアラン・リックマン、「9か月」のヒュー・グラントほか

新幹線祭 柿

投稿日 2017年11月30日 by tsuboigenzaemon
カテゴリー: 未分類


11/27妙丹柿を配ろうと自転車で出かけると青山前で電池が少ないことに気付き、新幹線祭の中を帰った。バテリーを付替えしようとすると鍵が見つからない。駅前のコムスを予約し、大安寺東町より矢坂東町まで1時間程で配り終えた。1050円だった。28日の福島の電気自動車の試みをNHKがしていた。三菱i-MiEVだ。天井に太陽光パネルも取り付けいる。3時間500円と割安だ。
新幹線祭は毎年の北長瀬の行事だ。岸一太が飛行機を目指しいたのもわかる。
事前に申し込んだ家族連れら約7千人 (主催者発表)が写亭撮影や車両見学などを楽しんだ。
 東海道・山陽新幹線で2編成しか走っていない黄色い車体の検査車両「ドクターイエロー」や、人気アニメ「新世紀エヴァングリオン」のデザインをあしらった500系こだま号など5種類が会場に並んだ。子どもたちは、運転士の制服を着て先頭車両の前で写真を撮ったり、運転席や床下の機器を見学したりした。ラクター「カンセンジャー」のショーや点検時に使われる「レールカード」の乗車体験も人気を集めた。(山陽新聞)
幼少の子供連れの夫婦が駅より会場まで網がっていた。
植物は、自然状態では、毎年開花・結実する植物でもその量は大きく変化することがよくあります。なぜでしょうか?1つめの理由は、光合成での稼ぎと、最適な開花・結実の規模の関係の不一致があります。日本のようなところでは、ほとんどの植物は1年に1回花を咲かせ実をつけます。しかし、1年という時間が、植物の繁殖のリズムに最適なのかどうか、というのは別の話です。植物が花をさかせ実をつけるのには、いろいろな理由から、ちょうどいい規模、というのがあるような気がします。ちょっとしか花を咲かせなければ、花粉を運ぶ虫に見向きもされず花粉媒介がうまくいかないかもしれませんが、たくさんつけすぎると、こんどは虫が足りなくなって無駄が多くなるかも知れません。
1年の光合成の稼ぎと、1回の開花・結実に最適な光合成量に差があると、稼ぎを1年以上ためておいて、実をつけるは2年に1回でいいや、とか3年に2回くらいでいいかな、となったりします。しかし、なり年でない年も花が全く咲かないことはあまりありません。それは、植物がそんなにうまく開花をコントロールできないこともあるかもしれませんし、来年の開花まで生きていられるとは限らない、とか、稼ぎがあまるんだったらつかっちゃおうとか、いろいろな理由が考えられます。また、種子を食べる害虫との関係でも、コンスタントに種子を生産するのは、得策ではないと考えられています。不作と豊作が交互にあれば、不作の年に害虫の数が減るので豊作の年の種子を食べきれずに残してしまうかもしれませんが、コンスタントに毎年種子を生産していれば、毎年全滅させてしまうかもしれません。
2つめの理由は、不確定な要素がいろいろあることです。花芽が寒さでだめになってしまったり、花が咲いても咲いた時期に天候不順で受粉がうまくいかなければ、結実量が減ります。実が付かなければ、その分稼ぎを使う量が減りますから、来年の花や実の量はぐっと増えることになるかもしれません。結実量が増えた次の年は、木も疲れて、またぐっと減ってしまうでしょう。農家の方々は、毎年コンスタントに実がなるように手入れをされるのだと思うのですが、それでも変化してしまうのですね。あまり手をいれていない木では、その差はさらに大きくなると思います。
・隔年は、距離が離れた地域でも同期しているのでしょうか。同期しているならば、なぜでしょうか。
植物の種類や距離にもよりますが、広い地域でなり年が同調する現象はよくみられます。同期には、植物が積極的に同調させている場合と、天候など(上で述べた寒さや天候不順など)が広域で同調するために植物の豊作・凶作も同調する場合があります。後者については、あまり説明は必要ないと思います。前者については、次のように説明することができます。植物が花を咲かせるのは、花粉を交換するという目的があるのですが、たくさんの木がたくさんの花を咲かせていたほうが花粉の交換がうまくいく確率が高くなります。したがって、花が多い年と少ない年があるのなら、自分もそれにあわせた方が得なのです。また、上にのべた種子を食べる害虫との関係を考えても、豊作の年に自分もたくさん実をつけたほうがよさそうです。そのため、たくさんの植物で開花を同調させる仕組みを持っている植物がいます。たとえば、5月がとても寒い年には花を咲かせよう、とか、夏が暑ければ次の春に花を咲かせよう、というわけです。でも、同調のメカニズムはあまりよくわかっていません。
酒井 章子(京都大学・総合地球環境学研究所)
https://deraumafuyugaki.wordpress.com/2017/07/
虫害の場合
○「ヘタ虫」と言う害虫が発生すると、虫が付いた場合、6,7月の花芽期、また、9、10月に発生し、ひどいときは、ずべての実が「ヘタ虫」に負けて落下します。スミチオン剤の1000倍を、6、7月、9,10月に散布すれば、大丈夫です。カイガラムシの場合もあります。
強風、長雨の場合
○長雨で受精期の未受粉が起きます。柿の花は受精しなくても結実しますが、長雨で、花粉を運ぶ虫が飛来しない場合、実が未受精で、落下しやすくなります。
品種によって、雄、雌異株の柿も有ります。その場合、雌だけですと、近所に雄木があったものが、突然無くなった場合、突然結実しなくなります。
雌雄異株がどうか、確認してください。雌だけの場合、雄株を一緒にうえれば解決します。
○6,7月、9、10月に強風がありませんでしたか。未熟な実が落下した可能性があります。
人為的な場合
○昨年、収穫した時、実がなっていた枝ごと、もぎ取りませんでしたか。
柿の実がなっている枝の、先端から3,4番目が、来年実がなる花芽です。よく高枝きりバサミを使っている方で、このようなケースがみられます。来年の花芽まで切ってしまうからです。また、柿の木はおれ易いので注意してください。
収穫の際は、必ず、来年の花芽は残すよう注意してください。
○肥料過多
あまり、窒素が多い肥料をあげますと、地中の窒素が過剰になって、ある年、突然全く結実しなくなります。若木に多いケースです。カリウム、燐酸を主体とした肥料に切り替えましょう。
この中の原因の何れかだと思います。
わたしの家の柿では、そのような事は幸いにも有りませんでした。
今年は雨が多かったですが、実が大きい傾向にあります。
宜しく参考になさってください。
 多くの果樹は、子孫を残すために実をつけます。
土壌が良すぎれば、幹や枝を伸ばします。微妙な力関係があります。
逆に果樹農家の立場から、コントロールの術を記します。
柿は、前年に伸びた枝に、花芽をつける芽をつけます。
つまり、その年に伸びた枝に実をつけます。
前年に実をつけた枝には実をつけません。
また、ひこばえとかシュート=とちょうしと呼ばれる力強く伸びる枝も花芽をつけます。
この枝は、横に伸ばすように曲げれば、花芽をつける枝をつけやすくなります。
同じ場所からでる一番元気な枝は基から落とします。逆に細すぎる枝も落とします。
土壌が良いとシュートが伸びて、実は少なくなるのです。
シュートを切り、実のなる枝を伸ばすのです。2年目、3年目で実をとったら、基から切り落とします。
このように、主幹から3本ほど支幹を伸ばし、先の方でさらに2~3の副支幹を少しだけ伸ばします。
副支幹と支幹に実をつける枝を伸ばし、3年過ぎたら基から落とすのです。
全ての幹は、手の届く高さに抑えます。
次第に、副支幹まで、太くなってその先の枝が極端に細い(3年生位まで)形状になります。
強い風にも比較的強いのです。摘果は7枚前後の葉に実を一つ位残します。
実が多すぎたり、剪定が強すぎたりすると、柿は自ら実を落としてしまいます。『今年は、実は少なくして枝葉を伸ばそう!』とするのだそうです。6月頃末までは、要注意です。
では、どうするか?
概ね、何個の柿が採れたか、柿の木一本毎に記帳するのです。過去3年くらいの平均の実数+αを、当年の実の数として、摘果すると、妥当な数の柿の実が当たり外れなく収穫できます。α分だけ、終了は増加します。
収穫後と、春先の芽が出る前に、肥料を与えます。
  詳細は柿の施肥でググってください。
http://kakinosaibai.web.fc2.com/hiryo.html
  大粒の甘柿を生産するコツの一部を、私の尊敬する先生の教えを基に記しました。
干し柿用の数を頼みとする小粒の渋柿は、自然の伸びに任せてもよいようです。
 採果するときに、枝毎もぎ取り、翌年の花芽をつける枝数を、経験でコントロールしているようです。
施肥(肥料を与える)
肥料を与えるのは、開花中や生育中、実を付けるときと
実を付けた後(お礼肥)です。お礼肥として収穫後に乾燥鶏糞、油かす、化成肥料、硫酸カリの複合肥料を与えると良いでしょう。
また、柿はカリウムを多く必要とするため、8月末~9月に塩化カリを施すと肥大した甘味の増した果実が実ります。
一般的に植え替え直後には肥料は上げない方がよいとされています。
植え替え直後に肥料を与えると柿の木にダメージを与え傷んでしまうからです。
同じく、植物が弱っている時に肥料をあげるのも枯れる原因です。
植物が弱っているときに肥料を与えるのではなく、日の当たり方や水分などを見直しましょう。
 皆で芋ほりとピーナツを収穫、乾燥しているとN君が散歩の途中、手押し車を直してくれました・
写真 
1.駅模様
2.近所の富有柿
3.安穏芋