懸賞発動機の製作応募申込


飛行協会が発表した製作奨励の飛行機用発動機の応募申込は予想以上に好成績で、わずか五ヶ月足らずの期間たったが、旧暦末日の締切までに一八件二二種の多数に達し、時期尚早論を破って協会当局者をほくそ笑ましたのだった。
 実物の言否はとにかくとして、この時代にこれだけのまじめな応募者があったことに、大いいに意を強くするところであり、次表最上欄の番号は申込書類の到着順である。
 こらで見ると大阪の島津楢蔵氏が既製のルノー式改造型と、ル・ローン式を計画し、東京の岸医学博士も既に試作済みのルノー式をもって成功を期している。
 (備考)(一)直径及び行程欄中、*印はミリメートルか示す。(二)第七号発動機は回動式にして、火薬若しくはガソリソを用う。笛に相当するもの一個にして特殊の構造のものなり。
 その他、都築鉄三郎氏が某工業家と提携して進出し、浦賀船渠株式会社の町川豊千代氏、大沢の発動機製作所などの人物があり、また東京麻部布に小さな鉄工所を経営する新進の友野直二氏(後に東京都会議員)も、この時から航空界に注目される人となった。
 飛行協会ではかねて栖原工学士に委嘱して、この申込書類の整理を煩わしていたが、いよいよ近く検定委員を編成して本格的の検定準備を闘始することになり、まず新春一月二十五日、交詢社に技術委員会を開いて製作規定細則について協議を進めた。
 一方、所沢では尾崎、扇野両練習生のために体を設計し、前述の園田武彦氏からグリーン式六〇馬力の譲渡を図ったが、まとまらなかったのと、ルムプラー式の応召で急に模様替えとなり、あらためて理事会や技術委員会を経てイギリスのオホストロー・ダイムラー水冷式九〇馬力一基を買うことになって、三井物産会社の手で注文した。そして磯部技師は設計し直しの機体を製作しながら発動機の到着を待っていたが旧臘十一日、積み出され、一月末もしくは二月上句、横浜着の予報か入った。
 それと同時に初歩練習用として一三年型モーリスーフアルマン式も二台分の機休製作を進め、発動機に研究会の斡旋で東京砲兵工廠製のルノー式七○馬力を譲ってもらうことに決定していた。砲兵工廠では既に同式発動機の製作に一応は成功し、検討改善を加えつつ徐々に生産が行われいたのである。
 それについて協会には木工の熟連者を、気球研究会からまわしてもらっていたが、発励機の技術者がいないので、かねて海軍当局にその幹旋を頼んでおいたところ、ちようど追浜を満期除隊の機関兵曹鳥海正次郎氏が山内四郎大佐から紹介されて来て、技手の石で所沢飛行場に勤務することになった。
 同氏は千葉県君津郡出身の寡黙諜厳、温厚篤実な人格者で、追浜の航空術研究委員の下で発動機整備を専門に勤め、短期間だったが第二次出動部隊に選ばれて青島にも出征し、信頼性の厚い優秀な技術者だった。
 さて飛行協会では出征両航空部隊の光栄ある帰還も終了したので、一夕の歓迎察を催す手はずだったが、両部隊の郡合が照らし合わされたので二月七日夕、帝国ホテルを会場にして歓迎晩餐会を催し、その労苦と戦功をねぎらつた。
 所沢側からは隊長有川鷹一中佐、中柴末純、弘中暁両少佐、石本祥吉、益田済、伊藤赳、福井重記各大尉、佐波求己、沢田秀、中田武実、阪元守吉、真壁祐松、深山成人、武田次郎各中尉の一四氏、追浜側からは隊長山内四郎大佐、河野三古少佐、井上二三雄、大崎教信両大尉、武部鷹雄、難波即岨、馬越喜七各中尉及び和宮丸艦長猪山綱太郎大佐の八氏で、陸軍から徳川、長沢、海軍から・令子、山田、和田、飯介ら、武勲赫々の士公寂務の都合で見えなかったのに残念であった。
 協会からは阪谷副会長、日疋、倉知両常務理事、井上大佐、小川、須旧、末延、田中館、横田両博士、また会員のおもな人は警視総監伊沢多喜男、広沢金次郎伯爵、岸一太博士及び都下新聞記者団ら七一名の盛会だった。
 大広間で一竜斎貞山の講談「赤垣源蔵」の一席を聞いてから立堂を闘き、陸海軍両将校入りまじって居ならび、デザートーコースに入ると阪谷副会長が立って祝辞を述べた。
  (前略)「今回の戦略におきまして、両航空隊が奮戦努力ぜられ、少しの損害もなく最後まで任務を完全に遂行せられたことは実に特筆すべき勲功であって慶賀に堪えない次第であります。これひつよう航空隊の技術の優秀と、その勇武とを遺憾なく証明せられたものであると信じます。ことに私どもの最も欣喜おく能わざるゆえんのものは、日本陸軍海軍あって以来初めての航空戦において、かようなりっばな成積をあげられたことでありまして、これは実に帝国あらん限り、陸海車に対する偉勲であると信じております。
   すべて物には、その出発当初において少しでも磋趺するか、もしくは過失がある場合、それは実に末代までも瑕瑠(かきん)として残るのみならず、その瑕瑾はますます大となるのであります。しかもわが航空戦の第一頁を飾るべき青島戦において、最も満足なる教訓を与えられましたのはひとり現在においてのみならず、将来に向って大いに感謝すべき次第であると申さねばたりません」「下略」
 これに対して。山内大佐が両航空隊を代表して答礼の挨拶を述べ、終って有川中佐の発声で飛行協会の万歳が三唱された。

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