備前軍記20


NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第18回「裏切る理由」は、天正6(1578)年8月三木城攻めの軍議が開かれた。城を囲み兵糧を運び込もうとする毛利の者を即座に見つけ、追い払うことにより戦わずして勝てると2人の軍師が説明した。

荒木村重は、神吉城攻めの不手際で追い詰められた、生き残りをかけ申し開きをし信長の信を得た。

有岡城に戻った村重もとに茨木城主・中川清秀がやってきて、清秀の家中の者が石山本願寺にひそかに兵糧を荷揚げしているところを織田の兵に見つかり、斬り合いになったあげく兵を斬って逃走したという。信長を恐れ、籠城の支度を始めたと言う気の早い清秀を、村重は兵を捉えるのが先だと一喝した。

宇喜多直家の調略にかかった官兵衛は、三木城陥落前に信長のつくよう話すが直家の間者はすでに摂津の動きを報告しているようで官兵衛に背後が危ういと聞かされる。

米の買い占めや兵糧の備蓄など、摂津に不穏な動きがあるとの噂に信長は村重と縁続きの明智光秀と、腹心の万見仙千代を有岡城へ遣わされた。

秀の家中の者が、織田方に捕まっり、村重謀反の噂が広く流れてた。

村重の家臣の信長に対する不信と毛利の安国寺恵瓊の調略の手紙があり、村重は遂に天正6(1578)年10月、信長に反旗を翻した。

☆毛利勢播州より帰陣の事(柴田一著 新釈備前軍記)によると、宇喜多直家は、今度の上方勢と毛利勢との合戦は恐らく毛利勢が敗れるものと判断し、仮病を構えて出陣せず、家臣ばかりを従軍させた。その上、角南隼人人道如慶を使者として、播州飾磨津(現姫路市)に在陣した織田信忠のもとへ遣わし、今後は織田方に御味方申しますと和を請うたので、信忠もこの願いを許容した。

ところが思いも寄らず、上方勢が打ち負け、上月城を見捨てて後詰めの大軍を引き揚げてしまった。隆景・元春は上月落城後しばらく黒澤山に在陣していたが、そこへ直家は、病気が平癒したと称して参陣し、隆景・元春に対面し、今度の戦勝の祝詞を言上して岡山へ帰った。

毛利の陣にも、すでに直家の上方内通の噂さは伝わっていたから、杉原盛重は直家を討ち取るべしと主張したが、隆景はそれを許さずそのままとなった。

直家は重ねて播州の隆景・元春の陣へ使者を送り、

「今度上方へ直ちに御出陣なさいませ。その節は某必ず御先手を仕る」

と合戦を勧めた。しかしその本心は、いずれであれ旗色のよい方へ味方する魂胆であった。また、 「もし直ちに御帰陣なさるのであれば、領内御通行の節、心ばかりの御もてなしなど仕る」

などと懇ろに申し添えた。これも、承知して岡山に立ち寄ることになれば、元春・隆景を討ち取る心算であった。

しかし直家の家臣中村三郎左衛門は兼ねて毛利家に内通していたから、この直家の密計を播州黒澤山の陣へ密告し、その身は何気なく美作の居城へ帰った。中村が毛利家に内通したと聞いた直家は、岡山から彼の居城へ人数を送り、8月2日の暁ごろ中村を誄殺した。

この一件は黒澤山へ伝えられたので、直家の密計はいよいよ間違いないことが確かめられた。

隆景・元春は芸州への帰路、備前を通行することを取り止め、8月3日黒澤山を発し、隆景は播州奈波垣越から乗船して海上より帰国し、元春は作州路をとった。岡山へは使者を立て、

「芸州より急に帰国するよう申し来ったため、残念ながら今度は御饗応にあずかれないが、重ねて立ち寄ることもあろう」

と申し伝えた。

直家は、このたび隆景・元春を饗応し、討手を掛けて討ち取り、その首級を織田家への忠勤の印しに献じ、信長の威を借りて備中・備後までも奪い取ろうと謀ったが、この謀計も水泡に帰してしまった。しかし直家は素知らぬ体を繕って毛利家とも親しい関係を続けたのである。

 

 

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