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むかしはなし いちきゅう

2009年12月11日

むかし むかし 「桃太郎」と「鬼のうら」が住んでいた頃、北長瀬や大安寺、野殿、今の大野小学校、幼稚園のあたりは「吉備(きび)(あな)(うみ)」とよばれ、島にかこまれた海でした。

 「(うお)見山(みやま)」は、岩井島と呼ばれる島の上に出来ている山で、その魚見山の大きな岩「コウの岩」に立つと魚がおよいでいるのが良く見えました。

 魚の(むれ)れを見つけては「おーい、魚が来たぞ―!」と大声でさけぶと漁師は船を出して魚を取りに出かけます。その魚はたくさんの群れで、魚が盛り上がり、島が動いているように見えました。漁師はその群れに()っ込むと簡単に魚が取れました。

 又、島の人は浜辺で(かい)を取って食べて生活していたため、魚見山のまわりでは、多くの貝塚(かいづか)が残っています。

 あるとき、魚見山で魚の様子を見ていた漁師(りょうし)は「あっ、おかしいぞ、おかしいぞ!島の浜辺がだんだん広がっていくぞ」と浜辺が広がってゆくことに気づきました。それから、何百年(なんびゃくねん)も長い年月(ねんげつ)が過ぎていくうちに浜辺には細い笹のような草の(あし)はえた沼地となり、そこを「大野ヶ原」と呼ばれるようになりました。

 そして沼地となるとお米を作る稲作(いなさく)が始まり、たくさん人が住むようになり、田んぼも多く必要となりました。

 そこで、海の水が入らないようにするため今の笹ケ瀬川の白石橋から市役所の辺りまで壮大な堤防を作りました。しかし、その頃は機械がないので、それは大変な仕事でした。

 笹ケ瀬川は今の大安寺高等学校や大野小学校、そして幼稚園あたりを大きく曲がりくねって流れたままで大川と呼ばれていました。海と(つな)がっていたため塩が上がって来ていて、都からも吉備津に船が来ていました。

 稲を作るための水は雨の水や旭川上流の座主(ざす)(がわ)、西川、津島(つしま)辺りの水田で使われた水を流した川筋がいつの日か「市久川」と呼ばれるようになりました。

 そして、何百年(なんびゃくねん)かかったかわかりませんが、魚見山の裏の矢坂山に富山(とみやま)(じょう)の砦ができ、平家物語の時代となると大野ヶ原は塩気が抜け稲作ができるようになりました。

 市久の名前の由来は分かりませんが、平安末期に北長瀬の(しら)髭宮(ひげぐう)が一宮の吉備津彦神社によって建てられたことや、一宮が「いっきゅうさん」と呼ばれていたことや、吉備津にお参りする人たちの船がたまに上がってきました。さらに、東西の潮止め堤防を歩いて来て、笹が瀬川を渡るため白石橋付近にあった渡し舟を待つ人目あてに、久方ぶりに都より来た船の色んな物を売る市が開かれていたことより市久といわれるようになったのではないでしょうか。

 市久のお話はおしまいです。

平成21年11月7日 大野小学校ふれあいの会にて

市久物語

2009年12月11日

市久会

2009年12月10日

中世に岡山平野西部の大野ケ原に市久誕生の歴史をひもとく

市久会は、昨年に北長瀬駅北地区の区画整理の検討が始まったのに伴い、有志により大野・北長瀬の歴史を調べ「まちづくり」に生かし、後世に伝えることを目的として設立しました。広く輪を広げるため大野学区を限らず会員を募集しています。

以下の活動をしました。
1、 矢坂山の「富山城跡」を歩き、吉備新庄の「庚申山」などの大野に限らず史跡を訪ねました。
2、 矢坂山の草刈に参加、白髭宮の修理を行いました。
3、 蕎麦打ちを楽しみました。
4、 夏休みの「ラジオ体操」に参加し、尺八の演奏、市久の昔話をし、ケーナの竹笛を配りました。
5、 「北長瀬物語」を発行して県立図書館に寄贈、デジタル百科に登録しました。「宇喜田直家のまちづくりとは」「市久物語」「身近なバイオマスエネルギ-」などの発行予定です。
6、 「大野学区を歩こうロードマップ」を北長瀬駅に置き、大野の情報発信をしています。
7、 大野小学校のふれあいの会にケーナ笛、竹とんぼ、竹馬、花瓶、杖、紙飛行機、冊子など出展すると共に、ステージで尺八演奏、「市久」むかしはなしをしました。

今後も同様の企画を立て楽しむ方を募集しています。行事ごとに案内し、各自持ち寄りで会を盛り上げてゆきます。