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富山城・石井寺から高松城水攻め 一矢坂山周辺の文化財-

2018年4月10日


1.矢坂山周辺の原始・古代
 ①集落遺跡と貝塚
 ②古墳
  津倉古墳と青陵古墳
  矢坂山の古墳群
2.謎の古代寺院「石井廃寺」と荘園
①石井廃寺
石井廃寺は奈良時代に創建されたとみられる寺院で報恩大師開基伝承のある備前四十八か寺のひとつ。吉乗山(吉祥)石井寺もしくは石井山吉祥寺などの名が残る。寛文6年(1666)池田光政による寺院淘汰により廃寺となる。寺域は現在の妙林寺一帯であったとみられる。

末寺に(万成村)正雲坊・自正院(島田村)住林坊、(上伊福村)福立山宗蓮寺教音坊・常林坊、(西崎)知仙坊、(高柳村)実相院などかある。

3.松山長昌寺地蔵石仏
 花白岩の自然石に花頭窓風に寵部を彫りくぼめ、半肉彫りにされた地蔵菩薩立朧で右手に錫杖、左手に宝珠を持つ。室町時代の応永10年から九年の歳月をかけて彫ちれたもめ。本来は現在地の上部にあった磨崖仏であったと言われるが、天保7年、(1836)の大地震で転落し横倒しになったものを、岡山藩から滑車を借りで引き起こしたとの伝承がある。
しかしながら、天保フ年には大地震の記録が見当たらず、台風などの風水害で転落した可能性が指摘されている。        
    銘文 右「松山長昌寺応永十年(1402)四月廿四日始]
       左[同十九首夏十三 幹縁長昌上人記]
4.富山城と戦国の争乱
富山城は矢坂山山頂に築かれた連郭式の山城で総延長300mにわたって、中心郭が南北に連なる。昭和42~43年(1967~1968)発掘調査される。
発掘調査で大きく時期に区分されることが明らかとなった。
 第1期 明応・永正年間(1491.~1521)頃
     有事龍城型の中世山城
 第2期 天文年間後半(1550)頃~永禄!O年056フ)
     小規模々石垣や一部に瓦葺建物のある戦国末期の山城
 第3期 宇喜多期 永禄H年(1568)~慶長5年(!600)
     石垣や土塀を備え瓦葺の建物の建つ本格的な近世的な山城
応仁元年(1467) 松田元隆 富山氏から城を奪い居城とする松田元成 金川へ
文明15年(1467) 松田元隆 富山氏から城を奪い居城とする
文明17年(1483) 福岡合戦で元親戦死 親家が城主に
応6年(1497)   備前国守護代浦上宗助(三石城主)に攻められるが撃退
永禄11年(1568) 松田氏宇喜多直家に滅ぼされる 直家の弟忠家が城主に
天正7年(1579) 毛利氏備前国侵攻 宇喜多忠家備前備中国境で撃退
慶長4年(1599) 忠家の子左京亮信顕(坂綺出羽守)家中騒動により出奔
慶長6年(1601) 小早川秀秋により廃城となる
5.宇喜多氏と備中高松城水攻め
天正10年(1582)2月八浜合戦
           宇喜多基家討死
        4月 備中侵攻
        6月 高松城開城
・合戦後、備中高松城は宇喜多氏に与えられる。
・関ヶ原合戦で宇喜多氏が失脚後も旧臣の花房氏(徳川家旗本)の所領となり、明治維新まで続く。
宇喜多忠家 ?~慶長14(1609)?
宇喜多詮家 永禄6(1563)?~元和2(1616)

つつじ祭 講演

2018年4月3日

野殿大返し図最終_edited-2「富山城、石井寺から高松城水攻め」 -矢坂山周辺の文化財- 

矢坂山を中心として、文化財を通してみた地域の歴史

内容は「石井」の地名の歴史や謎の多い石井廃寺について。富山城をとおしてみた松田氏や宇喜多氏の攻防から高松城水攻めについて。

https://tsuboigenzaemon.wordpress.com/で検索すると出ます。

矢坂山の春120716 https://www.youtube.com/watch?v=G0Xb05fZsA4

石井学区の歴史いろいろ 岡西公民館https://www.youtube.com/watch?v=iKdIKoqwtlk

吉祥寺石井寺 https://tsuboigenzaemon.wordpress.com/2016/01/29/%e5%90%89%e7%a5%a5%e5%af%ba%e7%9f%b3%e4%ba%95%e5%af%ba/

石井学区の歴史いろいろ 岡西公民館

岡西公民館で「石井学区の歴史いろいろ~身近な文化財の見方~」と題して岡山市埋蔵文化財センター 高橋伸二氏による講演があった。デジメを転載する。 はじめに 指定文化財について 国指定・県指定・市指定 1、埋蔵文化財の見方 ・集落遺跡と貝塚 ・古墳 (津倉古墳と青陵古墳、矢坂山の古墳群) ・古代~中世の寺院 (石井廃寺) ・城郭 (富山城) 2、神社仏閣と石造物 ・妙林寺と常福寺 ・国神社 ・松山長昌寺地蔵石仏 3、山陽道 ・古代中世の山陽道 ・近世山陽道(西国往来) 石井廃寺 報恩大師開基伝承のある備前四十八か寺のひとつ。吉乗山(吉祥)石井寺もしくは石井山吉祥寺などの名が残る。寛文6年(1666)池田光政による寺院淘汰により廃寺となる。 石井寺末寺として廃寺となった寺院に、(万成村)正雲坊・自正院。 (島田村)住林坊、(上伊福村)福立山宗蓮寺教音坊・常林坊、(西崎)知仙坊、(高柳村)実相院などがある。 寺域は現在の妙林寺一帯であったとみられる。また、この寺に関する記録はきわめて乏しいものの、北区津寺のには石井寺にあったとされるが伝わっている。 富山城 矢坂山山頂に築かれた連郭式の山城で総延長300mにわたって、中心郭が南 北に連なる。昭和42 ・ 43 年(1967 ・ 1968)発掘調査。 富山城の概史 応仁元年(1467)  松田元隆 富山氏から城を奪い居城とする 文明15年(1481)  松田元成 金川へ帰り弟の元親を城主とする 文明17年(1483)  福岡合戦で元親戦死 親家が城主に 明応6年(1497)  備前国守護代浦上宗助(三石城主)に攻められるが撃退 永禄11年(1568)  松田氏宇喜多直家に滅ぼされる 直家の弟忠家が城主に 天正7年(1573)  毛利氏備前国侵攻 宇喜多忠家備前備中国境で撃退 慶長4年(1599)  忠家の子左京亮信顕(坂崎出羽守)家中騒動により出奔 慶長6年(1601)  小早川秀秋により廃城となる ※ 発掘調査で以下の変遷が明らかになった 明応・永正年間(1491~1521)頃 有事龍城型の中世山城 天文年間後半(1550)頃~永禄10年(1567) 小規模な石垣や一部に瓦葺建物のある戦国末期の山城 宇喜多期 永禄11年(1568)~慶長5年(1600) 石垣や土塀を備え瓦葺の建物の建つ本格的な近世的な山城 小生の調査によると天正17年(1583)岡山城築城の際、浮田詮家(後の坂崎出羽守)が破城・移築させられ家中騒動の原因の一つとなった。 妙林寺 本堂は元文元年(1736)、仁王門は宝暦4年(1754)の建築6池田光政国替の時、鳥取から僧日 意を伴い寛永9年(1632)山崎町(野田屋町)に創建。貞享3年(1686)現在地に移転。授法院・延寿院・観明院・清涼院の塔頭(たっちゅう)寺院がある。 常福寺 本堂は安永4年(1775)の建築。仏像を安置する厨子は。16世紀後半(桃山時代)の作で彫刻・彩色が施される。牛窓大工の作。 寺伝によると養老2年(718)創建。大覚院と称したが永禄年間に浦上宗景が富山城を攻めた際に兵火にかかり焼失。宇喜多氏により保護を受け長福寺と改めたが、小早川秀秋の代に寺領が没収され衰微する。享保元年(1716)常福寺に改められる。昭和24年(1949)牛窓鹿忍の宝光寺の本堂を移築。 国神社 延喜式榊名帳に記載のある式内社とされる。社殿は明治36年(1903)に焼失。 随身門は19世紀後半の建築で石段・鳥居には元禄15年(1702)の銘がある。 松山長昌寺地蔵石仏……:………岡山県指定 花樹岩、自然石の南面に花頭窓風に龕部を彫りくぼめ、半肉彫りにされた地蔵菩薩立像で右手に錫杖、左手に宝珠を持つ。室町時代の応永1 0年から九年の歳月をかけて彫ちれたもめ。本来は現在地の上部にあった磨崖仏であったゲと言われるが、天保7年、(1836)の大地震で転落し横倒しになったものを、岡山藩から滑車を借りで引き起こしたとの伝承がある。 しかしながら、天保7年には大地震の記録が見当たちず、台風などの風水害で転落しだ可

能性が指摘されている。 写真 1 体内より見つかった木札 2 石井寺にあったとされる立像 3. 石井学区西部・東部(石井寺跡谷万成付近) DVD撮影

吉祥寺石井寺

 

岡西公民館で石井学区の歴史を講演した岡山市埋蔵文化センター高橋氏に会い石井寺について聞いた。 早速一宮近くの矢吹さんの案内で見に行った。ちなみに共に電動自転車だった。 胎内銘札の検討 長柄葦原は,おそくとも古代末~中世初頭には一応の開発が終り,大安寺の荘園として早くから開墾か展開されていったようである。鎌倉中期には,一時皇室御料となったようであるが,その後の動向については判然としない面が多い。時代はずっと下がるが元文二年に成立した岡山藩の地誌「備陽国誌」」によれば,江戸時代の大安寺村,正野田村,矢坂村の三村を合わせて大安寺荘であったと記され,古代~中世にかけてこの地域か大安寺荘であったことは確かである。大安寺庄内の石井山吉祥寺とは,いかなる寺院であったか詳らかではないが,近世の文献資料にその名をとどめるものがある。現在の旧大安寺荘の推定地域内には石井山吉祥寺と称する寺院は存在しない。しかし,文禄四年の金山寺文書「備前国四拾八ヶ寺領并分国中大社領目録」によれば「石井山拾石」と記され,当時石井山(おそらくは吉祥寺)の存在を知ることができる。その後,寛文六年に池田光政によって強行された寺社整理に合って退転,廃寺となった寺々の書上げによれば,三門村に吉乗山石井寺と称する日蓮宗の寺があったことが知れる。この吉乗②山(吉祥山の誤記か)石井寺は,寺名と山号が逆転してはいるものの石井山吉祥寺に相違なく,寺院の変遷過程一般の中では寺名と山号が転倒する例がしばしばみられることや寺の在った三門村も旧大安寺荘内であったことからしても,天文年間における石井山吉祥寺と吉乗(祥)山石井寺は同一寺院であったに違いない。 石井山吉祥寺は,寛文年間に強行された池田光政による寺社整理に合って廃寺となり,その後再興せられることなく,現在まったくその跡をとどめていない。しかし,石井山吉祥寺に関するいくつかの文献資料と寺跡と推定される地域で古瓦の採集が行なわれ,吉祥寺が存在したことを裏づけている。 石井山吉祥寺に関する最古の文献資料は,現在のところ今回の修理で発見された胎内銘札である。それによれば当時の三野郡大安寺庄内に石井山吉祥寺があり,その南谷の住僧実蔵房の弟子実相房日永によって天文二年に毘沙門天の修理が施されている。銘文中の実蔵房の肩書きを記した部分にわざわざ南谷と但し書きが付してある点が注意される。このことは,実蔵房が吉祥寺そのものやあるいは本房の僧ではなく南谷の院ないしは房の住僧であったことを示し,当時吉祥寺を一山とする数院によって塔頭が形成されていたことを暗に示している。 この資料以前の状況を物語る資料としては,記年が不明のためその成立時期が判然としないが,「備前国金川臥竜山城主松田左近将監権頭元隆伝記」には,「当時他宗に改宗を迫りし寺山は下の如し」と記して「石井山○○寺」を初めとして日応寺,幸福寺等々の合計11ヶ寺の名を書上げている。この石井山○○寺は,おそらく石井山吉祥寺に相違なく,備前松田氏の十代に当る元隆によって吉祥寺が改宗されたことを伝えている。松田元隆は,松田氏系譜によれば寛政四年正月二十二日生,天文四年二月二十日卒となっており,その間73年を数え,当時とすれば非常に長命であったようである。元隆は,大永二年に左近将監に任じられ,権守を称している。彼に関する信頼できる文献資料としては,備前吉備津彦神社資料の中に文明二月六月四日付の「松田元隆花押下知状」があり,系譜に伝える④。時期に存在した人物であることが知れる。とすれば,彼が備前,備中で改宗を迫った時期は,彼の生存期間中であり,彼の没した天文四年以前であることは確かである。毘沙門天胎内銘札からしても少なくとも天文元年以前に石井山吉祥寺は松田元隆によって日蓮宗に改宗せられていたようである。改宗前の吉祥寺が何宗に属したいかなる寺院であったかについては一切不明である。(根木 修)仏像保存修理報告書より 写真 大覚大僧正が佐渡に島流の絵(祖粗堂) 石井寺跡近く A宅 美術館 妙林寺うえ辺りの古墳跡また富山城主弟の城跡

中國大返しと富山城

高松城水攻めの後、太閤記などによると1日にして姫路ないし大阪に帰り明智光秀を討って天下人になったと書かれ語り伝えてこられた。可笑しいと思いながら当時凄いことが起こったとしか思っていなった。現実にはありえない事である。講談調の語りであった。

秀吉は毛利氏との和睦交渉を終えると、光秀を討伐すべく上洛の途についた。その直後、毛利氏は信長横死の情報を人手したという。これを知った吉川元春は、和睦を破棄して秀吉を追撃すべきであると息巻いた。しかし、小早川隆景は「誓書の墨が乾かないうちに和睦を破棄するわけにはいかない」と真っ向から反対したという(『川角太閤記』)。実際には、この時点で毛利方は信長の死を知らなかったというのが正しく、この逸話は単なる俗説として退けなくてはならない。

備中高松城を発った秀吉は、常識を超えたスピードで東上の途についた。これがいわゆる「中国人返し」と称されるものであるが、通説には疑義が認められる。最初に、これまでの通説を確認しておこう。秀吉は毛利氏と和睦を締結したのち、同月六日まで動くことができなかった。その理由は和睦を結んだとはいえ、毛利氏の軍勢が脅威として存在し、容易に動けなかったからである。ようやく毛利氏が撤退したのは、六日のことであった。

ここから秀吉の軍勢も一斉に上洛をめざすことになった。

ひとつの説としては、六日のうちに備中高松城を出発し、その日のうちに約二十二キロメートル離れた沼城に到着したという。そして、翌七日に秀吉軍は沼城を発ち、翌八日の朝に姫路城に到着したと伝える。沼城から姫路城までの距離は、約七十キロメートルもある。前者については問題ないと考えられるが、後者は相当な強行軍である。兵卒の装備は重たく、道も状態が良くなかったはずである。

ところが、秀吉の書状には、さらに厳しい強行日程が記されている。六月七日に備中高松城を出発すると、約九十キロメートル離れた姫路まで、わずか一昼夜で到着したというのである(「滋賀県立女土城考博物館所蔵文書」)。この書状は、本能寺の変からわずか四ヵ月後に書かれたものである。ただ、この書状は例のごとく、高揚した気分で大袈裟に書いており、一次史料とは言いながらも信用を置けないところがある。

ふたつの説が根本的に間違っているのは、備中高松城を離れた日を六月六日もしくは七日としていることである。『黒田家譜』には、姫路城における官兵衛の進言が記されている。官兵衛は姫路城へ立ち寄ることなく、すぐに合戦のために進軍すべきであると秀吉に意見を述べたという。しかし、後述するとおり、秀吉らが姫路城に滞在した事実が認められるので、この説は誤りと考えられる。{渡辺大門)

宇喜多直家が岡山(石山)城共に毛利に対する最前線であった富山城を忠家が築城し、忠家は6万石の治行を持っていた。直家が毛利より信長に従うことになり重要度が増した。増してや直家が亡くなった、当時は松田の時代からの野殿城は弟の忠家の屋敷として使われ、高松城水攻めの最前線作戦本部が置かれていた。

 備前軍記によると、高松城水攻めのより毛利と和睦後、 さて6月6日の早朝、備前勢がまず岡山に帰陣し、次いで同日未の刻(午後2時ごろ)秀吉が陣を引き払って辛川村に至り、ここで人数を分け、主力は半田山の前の古道から旭川の釣の渡を越え、先陣から順次東進した。秀吉は旗本の人数だけを従え、矢坂を越えて岡山に赴いた。

東軍の大部分は、旧古山陽道に辛川から入り、宇喜多軍は矢坂大橋を渡り沼城への道を帰った。

宇喜多忠家は高松城水攻めの最大の功労者であった。東軍、秀吉、重臣と宇喜多重臣は野殿屋敷に戻り、毛利の動きと明智光秀の討伐の軍議を行った。そして、秀吉は摂津茨木城(大阪府茨木市)の城主で明智光秀に近い中川清秀に対して、事を自らの有利に運ぼうと画策した返書を送った。そして、まとまった所で岡山城に向かい八郎後の秀家に報告した。

宇喜多八郎は明石飛騨を従え、岡山城下の町口まで迎えた。秀吉は懇ろに挨拶して岡山城に人り、暫く八郎と対面した。八郎の家臣浮田七郎兵衛・浮田左京・明石飛騨・戸川助七郎・長船又右衛門・花房弥左衛門らも次の間に控えていた。このとき戸川平右衛門は関東の草津へ入湯に赴き留守であった。(備前軍記)

この辺りを検証する意味でも、富山城祭を野殿中心に6月4~7日に開くことを検討している。字図と現代図を重ねた。

笹ヶ瀬川は直線でなく大川を蛇行して野殿地区は備中領であった。

五輪の字当たりの南が野殿交差点、西署。大川沼の跡に大野小学校、大安寺中等校がある。

上に太然時があり、城ノ内に野殿城、忠家御殿があった。

 

 

ツツジ祭 4/7

2018年3月30日

ツツジ鑑賞会20170408dvd%e7%9b%ae%e9%8c%b2k1ツ ツ ジ 祭

平成3041日 

「市久会」「矢坂山を語る会」

春雷が鳴り、梅、曙にウグイス小鳥が蜜を吸い庭が騒がしくなりました。既に桜の開花が伝えられ矢坂山の山桜と山ツツジが楽しみな季節になってきました。

今年も。多くの話題の中より2題を選ました。

 

日 時 : 平成3047日(土)

 9時より16

場 所 :ツツジ鑑賞会  9時より自由登頂など各登山道ただし、ボランティア同行要

 オープン 大野コミュニティーハウス集合 岡山市北区大安寺東町23-21

講演会     1330分より  50名 申込順

演 題:①石井寺・富山城から高松城水攻め     岡山市文化財課  高橋伸二氏   

②岸一太物語「葬られたツルギ号の秘密」近日出版  市久会  坪井 章氏

      

会 費 : ツツジ祭 無料(飲物・昼食など各自)  講演会 500円(資料代)

申込書

  ツツジ鑑賞会 講演会
お名前  
連絡先  
Tel/Fax E-mail  
参加項目    

※参加項目に○、 ないし人数を記入願います。お手伝い頂ける方申し出下さい。

事務局

〒700-0961 岡山市北区北長瀬本町25番14-5号 Fax 086-252-0007 携帯 080-1930-6282

E-mail tsuboi@ballade.plala.or.jp ブログ https://tsuboigenzaemon.wordpress.com/

企画案  ツツジ祭・ 講演会のボランティア募集

2018年3月4日

ツツジ鑑賞会20170408

首都岡山計画首都岡山計画ツツジ鑑賞会20180301

例年より欲張った企画をつくりました。

100年後を見てゆっくりと楽しい日本・岡山さらに世界を見て、平和になると良いです。

特に矢坂山は危機的状況にあります。

ツツジの苗を頂けると幸いでです。また、不要な本、登山用品、DVDを頂けると幸いです。

更に良い案を募集していましす。

寄稿      首都岡山計画
 友人 平田幸治(中区福泊)
 ながらかに続く緑の丘、その前方に広がる紺碧の海。雲一つない青空に明るい太陽が燦々と輝いている。極めっきは、丘の上で回っている白い風車だ。どことなく異国を感じさせる、印象的な絵だ。・高嶋哲夫著『風をつかまえて』 「プロローグ」から引用 この小説の内知町の小学生の絵には白い風車が描かれているが、その町には小説が始まる時点では風車はない。だが、白い風車を絵に描けば、風車のある風景になる。
 人間が想像すれば新しい何かを創造することができる。
 さて、先の衆議院議員総選挙で11回目の当選を目指す自民党の逢沢一郎さんは総決起大会の岡山市民会館で「・・未来の岡山首都計画」を提言した(2017年10月18日)。「学者を動員しても・・」と踏み込んだ。
 壇上の和気健・白由民主党岡山市議団長は、未来への公約とも感じた。
 私は和気さんに本紙への寄稿の依頼をうけて後、逢沢さんに確認した。「岡山首都計画の勉強を始めました。勉強研究の準備段階です」というお返事だった。
 和気さんには、この逢沢さんの岡山首都討画には思い当たることがあった。冒頭引用した作家・高嶋哲夫さんの著作『首都崩壊』 (幻冬舎、2014年刊)の逢沢さんのセミナーで首都を吉備高原に移設する案を聴いたのである。
 そして、2018年1月5日「あいさわ一郎年始会」で、逢沢さんは「(岡山首都計画は)例え1O年、100年かかっても・・」と述べた。和気さんは自民党岡山市議団長の同挨拶で、逢沢さんの「岡山首都計画」に賛同した。
 岡山は多角的見方で日本の中間に位置し自然災害も少なく空港や新幹線が整備されており大規模災害の際にも首都機能を十分果たすことが可能だと考えられる。
 和気さんは、岡山首都計画を考える上で適地の核は岡山操車場跡地公園ではないかと考えている。まず絵を描いてみることが大切である。 (ひらた こうじ) 了
 和気たけし

(企画案)ツツジ祭 & 講演会ボランティア募集
平成30年 3月1日 
「市久会」「矢坂山を語る会」
寒四温で日ごとに温かくなり、矢坂山の山桜と山ツツジが楽しみな季節になってきました。
世界遺産登録準備として署名講演協力よろしくお願いたします。
日 時 : 平成29年4月7日(土)~15日(日)
 10時より16時
場 所 : ツツジ鑑賞会  9時より自由登頂など      各登山道ただし、ボランティア同行要
• オープン    大野コミュニティーハウス集合 岡山市北区大安寺東町23-21
• 会期中講演会  正野田公会堂・北長瀬公会堂など

講演会     10時より 各会陽 50名 申込順
演 題(例):①納豆と焼酎のちょっと良い話 倉敷芸術科学大学特任教授 須見洋行氏    ②―日本初の飛行機を作った医師-岸 一太  市久会   坪井 章氏
      募集中 (年齢は問わない)
        要旨 裏面
会 費 : ツツジ祭 無料(飲物・昼食など各自)
          講演会 500円(資料代)

北長瀬北口近く 何処でも、何時でもバスのテスト(中鉄)
他 多くの企画募集

申込書
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参加項目
※参加項目に○、 ないし人数を記入願います。お手伝い頂ける方申し出下さい。
事務局   

 赤羽飛行機製作所と日本飛行機製作所

2018年2月22日

赤羽飛行機製作所創立披露と将来の計――川上中尉の帝国義勇飛行会と馬詰氏の中央飛行学校――中島機関大尉予備役編入と「退職の辞」――川西清兵衛氏と提携、合資会社設立――佐藤氏の高度記録――第三次練     習生に飯沼、後藤、田中三氏――沢柳主事の退職――フランス戦線で山中忠雄氏殉職――航空関係出版物の沈滞

 

赤羽飛行機製作所では、工場内に埼玉県大宮の氷川神社から猿田彦命の御影を勧請して赤羽神社を建立し、岸博士自ら衣冠束帯で奉仕してした。

職員には井上武三郎中尉が操縦主任に、宗里悦太郎氏が機体工場長に、佐々木利吉氏が機械工場長に、それから原愛次郎氏は技師長に、また時事新報社員で飛行記者倶楽部の古老だった知覧健彦氏が庶務主任として新たに入って来た。

飛行機はさきに巡回飛行に飛んだ一三年型モ式と今春完成の一四年型モ式のほかに、昨秋失敗の牽引式複葉機を改造した翼幅一三㍍、翼弦一㍍五〇、全長九㍍の複座機があり、いずれも同工場製のルノー式七〇馬力が装備されていた。

岸博士は飛行場と工場施設の一段落を待って十月二十八日、ついに明治四十二年以来の刀圭界引退の披露宴を帝国ホテルに張り、内務大臣後藤新平子爵、逓信大臣田健治郎、農商務大臣仲少路廉、田中館、横田両博士らを初め、朝野多数の来賓を前に将来民間航空工業にたずさわる決意を披歴(ひれき)し、博士得意の剣山から産出のモリブデンで造った小刀を記念品として来賓に贈った。その小刀の鞘(さや)は全部梨地で柄には飛行機と発動機を金蒔絵(きんまきえ)し、身鞘には聴診器を描いた六寸五分のものだった。

越えて十二月一日、飛行場開場式をあげ、この日も多数参列者を擁して井上中尉はモ式一四年型で飛行場附近を縦横に飛んだあと、東京にあしをのばして赤羽飛行場開設披露のビラをまいて帰り、更に五日にも原氏同乗で東京に飛び出したが、発動機の故障で洲崎埋立地に不時着し、修理の上、翌日正午、帰還した。

完成した同飛行場のおもな施設は四機収容の格納庫、飛行機体工場、発動機工場、製鋼所、電気炉、本部事務所、宿舎など各一棟である。

開場式当日、岸博士は「飛行場設立の主意は兵器、武器の研究、すなわち飛行機、発動機、進んでは潜航艇の研究製作にある。そしてかかる研究事業は決して営利ということと両立しない。私の如き算盤珠(そろばんだま)に縁の遠い人間に最も適当した仕事である」とあいさつして抱負の一端を述べた。

近く少年を主にした飛行学校を開設し、飛行機操縦、自動車運転練習生五〇名くらいを収容して修業期間を一年半と予定しているが、練習費はガソリン代だけの実費にするか、それとも外国の例を参考にするか考究中である。

一方に、日本飛行学校で指導の任を頼まれていた川上親孝中尉は早くも九月末、同校を去って帝国義勇飛行会を発起し、事業として飛行学校を創立する計画で大森池上の本門寺附近に事務所をかまえて寄附金募集を開始していた。学校は自動車の運転からはじめ、飛行機は軍隊式に養成する方針を発表し、校長に吉井幸蔵伯爵をかつぐ奔走をしていたが、結局義勇飛行会も学校も実現を見るに至らずして挫折してしまった。

またフランス帰りの徳島県人馬詰駿太郎氏は代々木練兵場近くに寓居(ぐうきよ)をかまえたが、これも中央飛行学校の設立をもくろみ、数寄屋橋附近の某ビルディングにある某氏の事務所を借りて足場とし、退役海軍大尉鳥山嵯峨吉、前記の元陸軍技手河本清一、小林末吉氏らを語らつて飛行機と自動車練習所開設運動を始めて見たが資金が続かず、これまた画餅(がへい)に帰した。

前にも記したが、馬詰氏はなかなかぶ弁舌家で、時には侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を吐いて傾聴させることもあったが、フランスに従軍中の経歴も自称するほどにはつまびらかでないところから、次第に誰いうとなく「口で飛ばす飛行家」として有名になり、本人も別にそれに対して異議を申し立てず、よく向つ腹をたてる性癖でいながら.この陰口には本気で腹も立てなかつたようだが、わが軍民航空界に対する不平を絶えず口にのぼせ、感情家だけに昴(こう)じて来ると聞くにたえぬ罵詈(ばり)雑言を弄んで、ひとり快しと

している風があった。

さて待命中の中島機関大尉は十月末、願いの通り予備役に編入されたが、これより先き同氏の飛行機製作会社設立企図を聞いて、大沢の小山荘一郎氏がわが事のように駆けまわり、神戸の雑穀商石川茂兵衛、同茂という兄弟を見つけ出して、これを中島氏に結びつけ、数万円程度の出資契約が成立した。そこで大尉は郷里群馬県太田町の呑竜神社裏、東武鉄道会社所有の元博物館の建物を買収して工場兼事務所、製図室とし、同時に新田郡尾島町と埼玉県大里郡男沼村地先の利根川べり官有地河原二五万坪に目をつけて飛行場敷地の運動を開始していた。

大尉と小山氏の関係は先年、アットウオーター氏が関西で飛んだ時に見学のため出張した折、知己となり、その後、故幾原氏の飛行に際し、大尉は陸軍の故重松中尉と一しよに命令をうけて、その飛行機の整備点検を指導援助した当時、ともに肝胆相砕いた間がらで、今度の斡旋(あっせん)も民間に人のない時、この有為の技術家を守り立たせることの必要を痛感した小山氏の義侠(ぎきよう)と成功でもあった。

しかしわずか五万円そこそこの資本では立ちどころに行きずまり、石川氏兄弟の紹介で新たに川西清兵衛氏の長場となって、はじめて合資会社日本飛行機製作所の設立を見るに至り、また尾島の飛行場は飛行協会借用の名義で埼玉、群馬両県から使用許可を得る段取を作るなど、大尉は一介の武弁や技術家ではなく、なかなかの政治的手腕を蔵していた。

そして十二月二日附、先見の明と洞察を名文卓説に披歴して「退職の辞」を印刷に附し、先輩、同瞭、関係知己の間にくばった。

「宇内の大勢を察するに地上の物資は人類の生活に対し余裕少なく、各国家は互に利の打算に急にして今や、利害のためには国際間に道義なるものを存せず、紙上の盟契、条約の如き殆ど信頼の価値なき事例は欧洲大戦に於て公然と実証せられっっあって、国交は恰も豺狼(さいろう)と伍するが如し。故に国防の機関にして完全ならざらんには国家は累卵(るいらん)の危盤に坐するが如し。而して国防の要義は国家が亨有する能力の利用によって国家を保護するにありて、其の主幹は武力ならざるべからず、故に戦策なるものは其の国情に照らして劃立するを要す。強大なる資力を有し、富に於て優越点を把握せる国家又は四囲の関係より富力を基礎として国防を成立し得る国家は全富力を傾注し得る戦策、即ち富力単位の戦策を採るを最も安全有利とす。されど富力を以て対抗し得ざる貧小なる国家は之と正反対の地位に立つ。即ち富力戦策は必減の策にして危険この上なし。翻て帝国の国情や如何ん。究竟するに我が対手国は欧米の富強にして我が帝国は貧小を以て偉大なる富力に対す。故に富力を傾注し得る戦策に依りて抗せんか、勝敗の決既に瞭(あきら)かにして危険これより大なるはなし。然るに現時海国国防の主幹として各国家が負担を惜まず、其の張勢に努力しつつある大艦戦策は実に無限に富力を吸収するものにして、所詮富力単位の戦策に外ならず、是れにして永続せられんか、皇国の前途は慄然寒心に堪えざるなり。惟うに外敵に対し、皇国安定の途は富力を傾注し得ざる新武器を基礎とする戦策発見の一あるのみ。而して現代に於て、この理想に添う所のものは実に飛行機にして、これが発展によりては能く現行戦策を根底より覆(くつがえ)し、小資をもって国家を泰山の安きに置くことを得べし。夫れ、金剛級戦艦一隻の費を以てせば優に三千の飛行機を製作し得べく、一艦隊の費を以てせば能く数万台を得べし。彼に飛行機相互の間隔を最小限五百米となすも、五万台の単縦陣は一万五千哩の長きに達す。この地球の直径も尚、八千哩に過ぎざるの事実に想倒せば、人類の能力及び現代の通信機関を以てしては斯かる多数の飛行機隊を同時に指揮操作し得べしとは思われず、況んや一局地に限らるべき戦線に使用し得べき両軍の飛行機数は自然、大ならざる制限の下に立たざるべからず。

即ち飛行機に集注し得る資力には大ならざる限度あり、この点に於て国防上の強弱には貧富の差なきを得べし。而して三千の飛行機は特種兵器(魚雪)を携行することにより、その力遥かに金剛に優れり。斯くの如く飛行機発達の如何は国家の存亡を支配す。故に欧米飛行界の進況如何に拘らず、我が帝国は独特の進歩発達を企図せざるべからず。然るに事実は大に之に反し、我が飛行界の現状は其の進歩遅々として欧米の進勢に比すべくもあらず、常に数段の隔おり、随って飛行隊の如きも微々として振わず、実質に於て存在の価値だになし。是れ実に国家を挙げて最大恨事たらざるべからず。而して我が飛行界不振の原因は種々多岐に亘ると雖も、その主因は製作工業が官営たるの一事に坐す。進歩激烈にして具の製作短時日に成る工業を、初年度の計画が議会の協賛か待ち、翌年度に於て初めて実施時期に入るが如き政府事業を以てするは、既に根本に於て不適と云わざるべからず。斯かるものは其の実施に関する諸般の行使が縦横自在なる機関に委し、始めて其の目的を達し得べきなり。実に飛行機は完備せる工場に於てせば計画製造まで一ヶ月の日子を以て完成するを得、故に民営をもって行う時は一ヶ年に十二回の改革を行い得るか、官営にては正式に云えば僅かに一回のみ。故に官営の進歩は民営の十二分の一たるの理なり。欧米の先進諸国が飛行機製作を官営兵器廠にて行わず、専ら民営に委ね居るの事実は一にこの理に存す。斯く帝国の飛行機工業は今や官営をもって欧米先進の民営に対す。既に根本に於て大なる間隔あり。今にして民営を企立し、これが根因を改めずんば竟(つい)に国家の運命を如何にかせん。実に飛行機工業民営企立は国家最大最高の急務にして、国民たるもの皆、これに向って奮然、最善0努力を傾注するの義務あると共に、この高尚なる義務の遂行に一身を捧ぐるは是れ人生最高の栄誉たらざるべからず。

不肖爰に大に決するところあり、一世の誹毀を顧みず、海軍に於ける自己の既得並に将来の地位名望を捨て野に下り、飛行機工業民営起立を劃し、以てこれが進歩回忌に尽し、官民協力国防の本義を完うし、天恩に報ぜんことを期す。今や、海軍を退くにあたり、多年の厚誼を壊い、胸中感慨禁じ難きものあり。然しながら目標は1貫国防の完成にありて、野に下ると雖も官に在ると真の意義に於て何等変るところなし。吾人が国家のた  め最善の努力を振い、諸兄の友情恩誼に応え得るの日は寧ろ今日以後にあり。ここに更めて徒前の如く厚き指導誘腋を賜らんことを希い、併て満腔の敬意を表す」

 

剣号と国民飛行会提携の巡回飛行

2018年2月14日

岸博士の剣号完成と発動機製作経過談――国民飛行会と提携――山陰、四国、九州各地飛行――町田鉄之助氏のヤマト・メタル――牽引式複葉の剣号新造――磯部氏と滋野男爵の音信――在米飛行家の動静――大植松太郎氏の殉難

 丹精こめた自作発動機が小畑氏の機体に装備されて、ものの役に立ったことは岸博士に大きな感激と勇気を与え、築地明石町の病院構内に新たに工場を建てて機体の製作にも着手したのが今年二月ごろだった。
 機体は旧型のモーリス・ファルマン式で、国産材料を集めて宗里悦太郎氏が主任で工作にあたり、発動機も落選の懸賞発動機を分解取捨し、既成の部分品を装着してわずか一ヵ月で同型の二号発動機を完備して新機体に取り附け、「剣(つるぎ)号」と命名して試験飛行のため東京洲崎埋立地に運び出した。
 剣号の名は博士をして、ここに躍進せしめたモリブデンの発祥地剣ケ嶽に由来したもので機体、発動機ともに国産品をもって全く一人の手に成ったわが民間最初の飛行機である。
 七月一日、井上武三郎中尉が前後二回の飛行に成功したので、翌二日は飛行記者倶楽部員その他を招待して披露飛行し、正味一時間一二分を見事にやってのけて国産機に輝かしい記録を樹立した。
 その席で、博士はここに至るまでの経過を語った。
   「幸か不幸か、私には一つの癖がある。他が為し得ない至難のものがあれば進んでやって見たくなり、それを完成しないうちは如何なる犠牲を払っても中止することが出来ない。物によっては馬鹿を見ることもあり、よくない癖だとも思っている。発動機に手を出したのも全くこの癖からで、ちようど欧洲大戦の始まった頃だった。機体は日本でも造り得るが発動機はまだ完全に造られるようにはなっておらぬ。もちろん、技術が幼稚だからである。技術の幼稚なのは早晩進歩するが製作材料の総てを日本で求められないのでは困る。こんなことでは戦争その他のことで発動機輸入の道が途絶えたり、輸入が出来てもその数が需要に充たなかったりしたら戦時武器として欠くべからざる要具の不足を告げ、作戦上に重要な欠陥を来すことは必然の成行きである。わが国の今の状態が改まらなければ、きっと左  様なことが実現するに違いない。この憂いなからしむるには大急ぎで欠陥を充たさねばならない。そこで私は例の癖が出て、よし、それなら自分が完全な発動機を造って見せようと思し立ったのである。それには国内で産出する物ばかりで出来るようにしなければならぬ。これを試みるには根本的に発明、すなわち創造するには及ばない。まず日本に産する材料をもって既に実用に供せられている外国製発動機の形式をもって、同じような力と生命のあるものを造って見るのが肝要で、これに成功したなら次いで自分のものを創造して本来のものよりも優秀なものに努力するのが順序であると考へたから、とりあえず陸軍省の井上工兵課長に頼んでルノー式の廃品を所沢から貸してもらって早速製図にとりかかった訳である。飛行機体を作った理由は、飛行協会の検定試験くらいでは実際の力をためすには不
  適当であるから、自分の試作した発動機の実力を実験するためにやったことである。ところが発動機も飛行機体も完全であることが確認されたから、これからはいわゆる自己の創意によるものを製作し、機体も改良するつもりで着々準備を進めている」
 そしてモリブデンと鋼鉄を合金して造ったものを、かつて自動車用発動機の要部に応用して効果をあげた例があるので、今度の第二号発動機のシリンダーを初めピストン、クランクシャフト、ペダル、ギアなどにも使った。ただしクラックケースと冷却装置にはアルミニウムを用い、マグネトはボッシュ、ボールベアリングも外国の既成品を使ったと説明した。
 それからアルミニウムは九州の某山で産出することを発見、マグネトはモリブデンをもってモリブデン・マグネト・スチールを製作して、これを自動車の発動機にとりつうけて好結果を得ている。ボールベアリングにも成案があるから結局、外国の力をかりなくても国内でりっぱに製作出来る訳であると結んだ。
 そこで博士は飛行機剣号を無為(むい)に遊ばしておくのも知恵のない話だと無償提供を条件に国民飛行会と握手し、国民飛行会でも渡りに舟と新たに実物講演部を設けて巡回飛行を実施することになったのである。
 ちようど飛行協会でも同じ型式の飛行機で各地を飛行中だったので。ここに期せずしておのずから競走の形となり、画期性のある実践運動となって従来の興行飛行をはるかに超越した純正な普及法であった。しかし国民飛行会側は途中から主催者を求め、会費と称して入場料を徴集するようになったのは民間飛行会と同類視される危険があった。
 すなわち同会では山陰方面から順次九州、四国を巡回すべく理事久能司(後に帝国飛行協会総務理事)中将総指揮のもとに八月十六日、ます松江市外古志原練兵場で最初の出発にっいたが滑走中、草叢にっまずいて小破し、二十二日あらためて第一日を開き、午前二回、午後一回にわたり、七分間乃至二六分間の飛行で、最後には松江市を訪問した。
 ここでは松江飛行後援会が結成され、松陽新報社は号外を発行して二十二日の再飛行を周知せしめる程の協力ぶりだったが、はじめて飛行機を見る地方民の純朴さはここにも表われて、関係者を感激させる奇篤な志しを発見した。それは飛行終了後、久能中将と井上中尉が同市山代神社に参詣の際である。ふと腰のまがった一老婆が社前に願がけの一心不乱なおまいりをしているのを見かけた。
 初めのうちはさして気にもとめなかったが、聞けばこの老婆は近在の農家佐野福太郎氏のお母さんで七六歳の老体だが、きのう井上中尉の飛行をきいて、その無事成就を山代神社に祈念し、半日かかって千度まいりをしたから、今日はその願解きのお礼に千度を踏んでいるのだと分って、久能、井上両氏はしばし言葉もなく、お婆さんの顔を見っめたまま感無量のものがあったという。
 松江をあとにして鳥取県に戻り、米子の皆生灘海浜で二十七日午前、午後の二回、一一分間ないし二六分間を飛び、美保湾の碧海に機影をうつしてはじめての飛行に土地の人気たかぶり、陸と海との観栄二万余を数え、村民有志が数尾の鯉(こい)を大たらいに入れて井上中尉に贈って来だ。今だったら帰りがけに積んで来てしまうところだが、その時は何ともしようがなく宿屋の庭の池に放してやった。
 九月五日、歩兵第二一連隊衛戌地の島根県浜田町練兵場で飛び、午前、午後の二回、浜甲甲学校と劇場で久能中将、井上中尉の講演を行い、翌六日も高等女学校で熟弁をふるって山陰道のプログムを終り、山口県下に入った。
 同県は長岡中将の出身地とて中ッッ上将も一行に加わって山口町の国学院中学、高等女学校、高等商業学校、劇場山口座、小郡町の小学校、防府町の中学校などで得意の講演会を開き、飛行は一七日、桜昌練兵場で十時半から開始、旧藩主毛利家に対する表敬飛行として亀山公園を訪問し、当主の毛利元道公爵も防府町から来場して記念の銀盃二個を寄贈した。
 次いで二十三日は秋町の予定だつだが連日の雨で二十五日に延び、菊力浜海岸で十一時四十分から飛び出し、去来する残雲を縫って遠く越カ浜方面まで二二分間を飛び、午後も二時五十分から第二回の飛行を行って閉会したが、長岡久能両中将及び井上中尉は小、中学校その他で講演会を開き、老体両中将はっいにのどをつぶしてしまうという奮闘ぶりだった。
 萩町から柳井町にうつり、十月一日午前十一時四十七分、宮本浜で飛行したが今度の巡回飛行中、一番の人出といわれる三万余の観衆がつめがけた。
 午後も三時四十分から飛び、はじめて見る飛行機の姿に観衆はただけげんの目をみはるのみだった。
 ここでも学校や劇場を借りて講演会を開き、一ヵ月余の長旅にさすが疲れた久能中将は一行に別れてひとり先に帰京し、長岡中将と岸博士の東京自動車製作所技師の久間九郎氏が臨時に国民飛行会実物講演部主事に嘱託されて後陣を担任することになり、一行は九州に入った。
 そこではまず大分県の宇佐八幡宮司宮成男爵の後援で宇佐参官鉄道会社と在郷軍人分会の共同主催で高田町海岸で十日午前、午後二回飛行し、午後には長州町を訪問して高厦一、〇〇〇㍍、二三分間を飛んで約束をはたしたが閉会後、主催者間にごたごたが起って結局、後援名目の宮成男爵が一、○OO余円の自腹をきったという紛擾があった。
 次ぎは小倉のはずだったが、同地は悪疫が蔓延(まんえん)しているので後日にまわして四国に渡り、松山市に入った。
 二十二日午前、午後二回、同市練兵場で飛び、その前後に長岡中将の講演があり、再び九州に戻って戸畑町に行ったが会場にあてられた競馬場が狭く、幅一三間の滑走路を忍んで離着陸し、要塞地帯のゆえをもって高度二〇〇㍍に制限されて、降りみ降らずみの陰欝な中を飛んだ。
 ここでは下関、関門両新聞社及び報知新聞社支局主催で二日間だったが、二日目の十一月一日も午前、午後にわたって観衆少なく、入場料をとって入れていた主催者側は一、〇〇〇余円の損害だったという。
 それもあしたは佐賀、福岡両県下にまたがって展開される陸軍特別大演習に参加の四機が所沢から豊橋、姫路、広島を経由してはるばる関門海峡を越え、このあたり上空を久留米へ行くという際だったから、一つには天気のせいもあったが土地柄に似ず、観衆の集りが悪かっだのは無理もないことだった。
 一行は早々に引上げて再び四国に立ち寄り、愛媛県今治町で十一月七日、さきの松山市と同じ主催者井上虎之助氏が土地の和田繁一氏と協力して内海新聞社の後援で開催し、午前十時半から二〇分間を飛び、午後は二時半から二三分間を飛行して、次第に円熟した井上中尉の操縦ぶりもあざやかに観衆を満足せしめた。

 次いで同じ井上氏主催、徳島日日新聞社後援で十九日、徳島市の番だったところ、飛行機を今治から船で送ったため風浪に遅れて二十三日に延期された。
 モ式は無蓋貨車でもトンネルを通過する線では積み切れぬ場合かあり、賃金も高いので場所によっては船の方が便利で費用も比較的かからぬところから、今度の巡回中も米子から浜田町へは海路運搬し、ことに各地の飛行はほとんど一日だけたので飛行機の解体組立、運搬には最も苦心し、また労力を費し、時間的にもむだな日数を要し、せめて近距離だけでも空中輸送の必要を痛感したのである。
 さて徳島市では午前十一時、第一回の飛行を行い、午後は三時から小松島を訪問して故幾原氏を弔い、前後一時間に近い飛行に二万余の観衆は熱狂してよろこび、入場料を払ったうえに国民飛行会の会員申込みも少くなかった。
 引続き高知、高松両市とも予約していたが既に機体にも損傷が出て来て大修繕を要する時期に迫っていだので、いったん東京へ引き上げることになり、徳島市を最後に一行は大成功裡にひとまず帰京した。
 この間、岸博士も行をともにしたが、剣号の成績にいよいよ確信を得て将来の方針をかため、二号機の製作に志したのは既に、この夏であった。しかし宗里、久間氏らは旧式の一三年型モ式にあきたらず、牽引式複葉機の設計製作をはじめ、発動機も結局ルノー型七〇馬力だったが長沼豊丸工学士専任で新造されつつあった。
 この岸博士の発動機には第一号機の造り始めから、背後にはやはり元医師の減摩令金研究家町田鉄之助氏がいて、同氏は月島に工場をもち、京橋区三十間堀にヤマト商会を経営していたが、その製造にかかるヤマト・メタルという軸承合金が億万な性能を発揮して岸式発動機に寄与したことは隠れたる功績であった。町田氏は明治二十九年以来、この合金研究に没頭して来たという篤志家である。
 そこで巡回先きから帰京した井上中尉は、ちようど出来あがった新造機を稲毛海岸に運ばせて十二月十二日、岸博士も立ち会って試験飛行に着手した。
 同機は全幅一二㍍五〇で鋭い後退角をもち、全長八㍍五五、V字型脚と前方に予備車輪がもって国産機としては新鋭の感があり、性能は一〇五㌔の速力と一三時間の航続力で宙返りも可能とされ、一見きわめて堅牢であった。
 井上中尉は牽引力を調べたうえ、地上滑走試験を開始したが、著しく左に傾く癖があり、タイヤを破損したので交換して再び滑走を始め、午後一時、慎重に離陸して二〇㍍も行ったところまた左に傾き、極力舵をひねったが回復せざるのみか、よけいに傾斜角度がついてついに左翼を接地し、次いで機尾が落ちて左下翼と尾部支柱を大破、新造機の期待は一瞬にして葬り去られたのである宗里氏はじめ立ち会いの関係者は首をひねりひねり解体して、工場に持ち帰り、同型二号機の設計し直しにとりかかった。

懸賞発動機の製作応募申込

2018年2月11日

飛行協会が発表した製作奨励の飛行機用発動機の応募申込は予想以上に好成績で、わずか五ヶ月足らずの期間たったが、旧暦末日の締切までに一八件二二種の多数に達し、時期尚早論を破って協会当局者をほくそ笑ましたのだった。
 実物の言否はとにかくとして、この時代にこれだけのまじめな応募者があったことに、大いいに意を強くするところであり、次表最上欄の番号は申込書類の到着順である。
 こらで見ると大阪の島津楢蔵氏が既製のルノー式改造型と、ル・ローン式を計画し、東京の岸医学博士も既に試作済みのルノー式をもって成功を期している。
 (備考)(一)直径及び行程欄中、*印はミリメートルか示す。(二)第七号発動機は回動式にして、火薬若しくはガソリソを用う。笛に相当するもの一個にして特殊の構造のものなり。
 その他、都築鉄三郎氏が某工業家と提携して進出し、浦賀船渠株式会社の町川豊千代氏、大沢の発動機製作所などの人物があり、また東京麻部布に小さな鉄工所を経営する新進の友野直二氏(後に東京都会議員)も、この時から航空界に注目される人となった。
 飛行協会ではかねて栖原工学士に委嘱して、この申込書類の整理を煩わしていたが、いよいよ近く検定委員を編成して本格的の検定準備を闘始することになり、まず新春一月二十五日、交詢社に技術委員会を開いて製作規定細則について協議を進めた。
 一方、所沢では尾崎、扇野両練習生のために体を設計し、前述の園田武彦氏からグリーン式六〇馬力の譲渡を図ったが、まとまらなかったのと、ルムプラー式の応召で急に模様替えとなり、あらためて理事会や技術委員会を経てイギリスのオホストロー・ダイムラー水冷式九〇馬力一基を買うことになって、三井物産会社の手で注文した。そして磯部技師は設計し直しの機体を製作しながら発動機の到着を待っていたが旧臘十一日、積み出され、一月末もしくは二月上句、横浜着の予報か入った。
 それと同時に初歩練習用として一三年型モーリスーフアルマン式も二台分の機休製作を進め、発動機に研究会の斡旋で東京砲兵工廠製のルノー式七○馬力を譲ってもらうことに決定していた。砲兵工廠では既に同式発動機の製作に一応は成功し、検討改善を加えつつ徐々に生産が行われいたのである。
 それについて協会には木工の熟連者を、気球研究会からまわしてもらっていたが、発励機の技術者がいないので、かねて海軍当局にその幹旋を頼んでおいたところ、ちようど追浜を満期除隊の機関兵曹鳥海正次郎氏が山内四郎大佐から紹介されて来て、技手の石で所沢飛行場に勤務することになった。
 同氏は千葉県君津郡出身の寡黙諜厳、温厚篤実な人格者で、追浜の航空術研究委員の下で発動機整備を専門に勤め、短期間だったが第二次出動部隊に選ばれて青島にも出征し、信頼性の厚い優秀な技術者だった。
 さて飛行協会では出征両航空部隊の光栄ある帰還も終了したので、一夕の歓迎察を催す手はずだったが、両部隊の郡合が照らし合わされたので二月七日夕、帝国ホテルを会場にして歓迎晩餐会を催し、その労苦と戦功をねぎらつた。
 所沢側からは隊長有川鷹一中佐、中柴末純、弘中暁両少佐、石本祥吉、益田済、伊藤赳、福井重記各大尉、佐波求己、沢田秀、中田武実、阪元守吉、真壁祐松、深山成人、武田次郎各中尉の一四氏、追浜側からは隊長山内四郎大佐、河野三古少佐、井上二三雄、大崎教信両大尉、武部鷹雄、難波即岨、馬越喜七各中尉及び和宮丸艦長猪山綱太郎大佐の八氏で、陸軍から徳川、長沢、海軍から・令子、山田、和田、飯介ら、武勲赫々の士公寂務の都合で見えなかったのに残念であった。
 協会からは阪谷副会長、日疋、倉知両常務理事、井上大佐、小川、須旧、末延、田中館、横田両博士、また会員のおもな人は警視総監伊沢多喜男、広沢金次郎伯爵、岸一太博士及び都下新聞記者団ら七一名の盛会だった。
 大広間で一竜斎貞山の講談「赤垣源蔵」の一席を聞いてから立堂を闘き、陸海軍両将校入りまじって居ならび、デザートーコースに入ると阪谷副会長が立って祝辞を述べた。
  (前略)「今回の戦略におきまして、両航空隊が奮戦努力ぜられ、少しの損害もなく最後まで任務を完全に遂行せられたことは実に特筆すべき勲功であって慶賀に堪えない次第であります。これひつよう航空隊の技術の優秀と、その勇武とを遺憾なく証明せられたものであると信じます。ことに私どもの最も欣喜おく能わざるゆえんのものは、日本陸軍海軍あって以来初めての航空戦において、かようなりっばな成積をあげられたことでありまして、これは実に帝国あらん限り、陸海車に対する偉勲であると信じております。
   すべて物には、その出発当初において少しでも磋趺するか、もしくは過失がある場合、それは実に末代までも瑕瑠(かきん)として残るのみならず、その瑕瑾はますます大となるのであります。しかもわが航空戦の第一頁を飾るべき青島戦において、最も満足なる教訓を与えられましたのはひとり現在においてのみならず、将来に向って大いに感謝すべき次第であると申さねばたりません」「下略」
 これに対して。山内大佐が両航空隊を代表して答礼の挨拶を述べ、終って有川中佐の発声で飛行協会の万歳が三唱された。