Archive for the ‘未分類’ category

ホタルの住む街

2018年6月12日

OLYMPUS DIGITAL CAMERA北長瀬駅北口で降り、大安寺中等校に向かうとき、悪臭の漂う場所が季節によってある。戦後は、農業をしながら中心部に働き行く兼業が多くなる。笹ヶ瀬川、大川、近所の川泳いでいた。所が、特に大野村が岡山市に合併し、児島湖が締切られ、新幹線が開業した当時より、西川より駅地下水路となり、林原北に開けると砂地だった川にヘドロが目立つようになる。いわゆる能登川用水である。南の大野用水とは大違いを感じる。それは、光量、水量と流速と護岸が大きく変わった。全て篠ヶ瀬川に排水している。操車場の北の当地区は、農作業が夜間でもいたが、暗闇を喜ぶホタルは好まない。林原の今保工場が稼動すると排水基準の合うよう鯉泳ぐこと事をアピールした。そのころ児島湖にはホテイアオイが異常繁殖した。水深が浅く真水となった影響が大きい。矢坂大橋まで塩水、桜木樋門まで船が来ていたのが面影もない。久世、足守、イオン裏、ドーム裏の見える場所は多くなった。

具体的解決

岡山大学環境学部名誉教授沖陽子、アクアテクノス代表 技術士楠 敏明のアドバイスによると 砂、砂利、小石、活性炭などを使い、生活雑排水用のフィルターを作る。 鯉、花、空気、噴水なども役立つ。

 

忍者の働き方

2018年6月9日

労働環境の改善は、企業だけでなくいまや国全体に関わる課題です。
安倍晋三首相は2016年9月、内閣官房に「働き方改革実現推進室」を設置し、働き方改革の取り組みを提唱しました。
働き方改革を推進するための関係法律の整備に関する法律案(平成30年4月6日提出)
• 概要
• 法律案要綱
• 法律案案文・理由
• 法律案新旧対照条文
野党の反対もあり中途半端な法案となっている。
• プロフェショナルな忍者の働き方を考える。
旭川の生成と古代吉備平野  矢吹壽年によると現在からは、考えられないような自然の営みがあって、その後の自然の営み、人類が岡山の地にやって来て、その足跡が確認できるのです。素晴らしいと思いませんか。私は1940 年の生まれで、今年74歳となります。生まれは戦前派ですが、育ったのは戦中派、小学校に行く時は戦後派の筆頭でした。
第二次世界大戦の、前とあとでは歴史の把飽く、感覚が異なります。米国を主とする、国際連合軍の日本民族の報復を恐れる気持ちが、一番の原因だろうと思いますが、これは現在も存在するようで、日本の敗戦後、何年になりますか、米国のアジア戦略の好適地として沖縄の基地提供が続いています。政府は米国と親密に交際できることで、政権維持を図っていますが、所詮、米国人とは一戦ある事は避けられないことを認識しておかねばならないと思っているものの一人です。牧石宗谷山から南 旭川下流を望む(筆者提供)
ところで、この旭川が仕出かした、岡山の平野化と河淵の抉(えぐ)りは、その後の備前平野の歴史と関係があるのです。冒頭に、歴史観の変更、交替があったことをお話しましたが、それまでの歴史を教育する根本に、以前と変更があったようです。戦前の軍国教育、皇室敬体の教育は改められ、民主という名の無圧、自由主義が蔓延したように思います。
• そんな中で、小学校の学区外で夏期の郷土歴史講座が開かれ、資料の内容は戦前の御津郡地図の裏に書かれた、戦前から知られた遺跡の案内でしたが、古墳の案内や、説明が少し変わっていたように思います。前方後円型古墳が意識され、この形の古代の墓は日本に限られ、その古墳が吉備中山の茶臼山と呼ばれた御陵であり、尾上のギリギリ山と呼ばれた車山古墳、松尾の旧馬屋小学校の裏山の飯盛山古墳であったと思います。
この時スタッフの中に居られた佐藤勲先生が、その後中山中学校に赴任せられて、授業は英語の文法であったように思いますが、当時は前方後円墳といわれていた辛川市場の中学校敷地の校舎裏の丘を発掘したことがあります。前方部に当たる辺りの現在、東側からの石段を上った辺りに、円筒埴輪を掘り出して,前方後円墳であったと話されました。
市編入当時の大野村見取図(大野村誌より)その佐藤先生とは、地元のボーイスカウト団の指導者でもあり、後に町教育委の職員となった私とも関係ができたのです。その佐藤先生が退職後、「目で見る。あけゆく郷土」(岡山市御南地区)という郷土誌を昭和63年に書かれました。知人を介して購入し、その後何度か先生の記録からから読み出したことを、私の講座で披露しましたが、その内、少し考えを改めなければならないことに気が付きました。大野村誌に巨大な河口湖というか、池があって、これが古代の笹ヶ瀬川で、野殿地区は津高郡に属していましたが、明治22年の町村制施行に際し、合併、大野村と名称を整えて発村します。
「どこで生まれた桃太郎さんは?」

岡山市はいま「桃太郎のまち岡山」をかかげ、また「岡山桃太郎空港」の愛称も新しく生まれました。ここ100年の間に名物吉備団子の存在もあり、岡山はすっかり「桃太郎伝説地」として全国の人々に親しまれています。
ではいつごろから言われるようになったのか、その発端はなにか、誰がいいだしたのかそんなことを考えてみたいと思います。
また桃太郎の伝説地と主張するところは岡山だけではありません。どんなところがあるのか映像で紹介しながら桃太郎はどこで生まれたのか考えてみます。
<紹介予定DVD>
1. 難波金之助の「桃太郎の史実をたどる」
2. ②桃太郎三大伝説地「高松・犬山」
3. そのほか桃太郎ゆかりの地
4. ④絵本などに描かれた桃太郎
5. 挑太郎を世界ヘー小久保桃江-
桃太郎については私も研究者ではありませんので、皆さんには物足りないかもしれませんが、「なんで岡山がももたろうなの?」と言うことなど知っていただければ幸いです。(古川)
• 富山城・石井寺から高松城水攻め
  一矢坂山周辺の文化財-
はじめに
1.矢坂山周辺の原始・古代
 ①集落遺跡と貝塚
 ②古墳
  津倉古墳と青陵古墳
  矢坂山の古墳群
2.謎の古代寺院「石井廃寺」と荘園
①石井廃寺
石井廃寺は奈良時代に創建されたとみられる寺院で報恩大師開基伝承のある備前四十八か寺のひとつ。吉乗山(吉祥)石井寺もしくは石井山吉祥寺などの名が残る。寛文6年(1666)池田光政による寺院淘汰により廃寺となる。寺域は現在の妙林寺一帯であったとみられる。
末寺に(万成村)正雲坊・自正院(島田村)住林坊、(上伊福村)福立山宗蓮寺教音坊・常林坊、(西崎)知仙坊、(高柳村)実相院などかある。
3。松山長昌寺地蔵石仏
 花白岩の自然石に花頭窓風に寵部を彫りくぼめ、半肉彫りにされた地蔵菩薩立朧で右手に錫杖、左手に宝珠を持つ。室町時代の応永10年から九年の歳月をかけて彫ちれたもめ。本来は現在地の上部にあった磨崖仏であったと言われるが、天保7年、(1836)の大地震で転落し横倒しになったものを、岡山藩から滑車を借りで引き起こしたとの伝承がある。
しかしながら、天保フ年には大地震の記録が見当たらず、台風などの風水害で転落しだ可能性が指摘されている。         ヶ
    銘文 右「松山長昌寺応永十年(1402)四月廿四日始]
       左[同十九首夏十三幹縁長昌上人記]
4。富山城と戦国の争乱
富山城は矢坂山山頂に築かれた連郭式の山城で総延長300mにわたって、中心郭が南北に連なる。昭和42~43年(1967~1968)発掘調査される。
発掘調査で大きく時期に区分されることが明らかとなった。
 第1期 明応・永正年間(1491.~1521)頃
     有事龍城型の中世山城
 第2期 天文年間後半(1550)頃~永禄!O年056フ)
     小規模々石垣や一部に瓦葺建物のある戦国末期の山城
 第3期 宇喜多期 永禄H年(1568)~慶長5年(!600)
     石垣や土塀を備え瓦葺の建物の建つ本格的な近世的な山城
応仁元年(1467) 松田元隆 富山氏から城を奪い居城とする松田元成 金川へ
文明15年(1467) 松田元隆 富山氏から城を奪い居城とする
文明17年(1483) 福岡合戦で元親戦死 親家が城主に
応6年(1497)   備前国守護代浦上宗助(三石城主)に攻められるが撃退
永禄11年(1568) 松田氏宇喜多直家に滅ぼされる 直家の弟忠家が城主に
天正7年(1579) 毛利氏備前国侵攻 宇喜多忠家備前備中国境で撃退
慶長4年(1599) 忠家の子左京亮信顕(坂綺出羽守)家中騒動により出奔
慶長6年(1601) 小早川秀秋により廃城となる

「荷風、三門滞在とその前後」  三ツ木茂

2018年5月21日

IMG_20180519_0001岡西公民館・ことぶき学級2018年5月18日

「荷風、三門滞在とその前後」  三ツ木茂

<1>文豪永井荷風=1879(明12)~1959(昭34)=

・「一に鴎外、二に漱石、三、四がなくて五に荷風」

<2>太平洋戦争

一真珠湾攻撃(S16.12.8)→日米開戦

・ミッドウェー海戦(S17)→ガダルカナル島撤退(S18)→サイパン島陥落(S19)

<3>東京大空襲(S20.3.10)

・荷風は自宅を焼失し東京を脱出(東京→明石→岡山)

<4>岡山で疎開生活スタート(S20.6.12)

・「正午岡山着」

一同行者2人菅原明朗(作曲家)と永井智子(歌手)オペラ「葛飾情話」で知り合う

・岡山空襲(S20.6.29)

5>三門・武南家へ寄寓(S20.7.3~)

・頼りの最相家、池田家は空襲で全焼

・佐々木家へ一時滞在後、大熊世起子の世話で武南家へ

・妙林寺、國神社

・妹尾崎「晴耕園」へ遠征(S20.7.13)

<6>荷風と菅原夫妻の人間関係に亀裂

・グラマンなどの機銃掃射で荷風に異変(S20.7.24)

<7>谷崎潤一郎と再会

・伯備線、姫新線で勝山へ(S20.8.13~15)

・荷風を恩人と仰ぐ谷崎

<8>終戦

・玉音放送(S20.8.15)

<9>総社から帰京(S20.8.30)

■荷風らを世話した三門地区の人たち=池田優子、佐々木家、大熊世起子、武南家の人々

「どこで生まれた桃太郎さんは?」

2018年5月13日

岡山市はいま「桃太郎のまち岡山」をかかげ、また「岡山桃太郎空港」の愛称も新しく生まれました。ここ100年の間に名物吉備団子の存在もあり、岡山はすっかり「桃太郎伝説地」として全国の人々に親しまれています。

ではいつごろから言われるようになったのか、その発端はなにか、誰がいいだしたのかそんなことを考えてみたいと思います。

 また桃太郎の伝説地と主張するところは岡山だけではありません。どんなところがあるのか映像で紹介しながら桃太郎はどこで生まれたのか考えてみます。

 <紹介予定DVD>

     ①難波金之助の「桃太郎の史実をたどる」   ②桃太郎三大伝説地「高松・犬山」

     ③そのほか桃太郎ゆかりの地         ④絵本などに描かれた桃太郎

     ⑤挑太郎を世界ヘー小久保桃江-

 桃太郎については私も研究者ではありませんので、皆さんには物足りないかもしれませんが、「なんで岡山がももたろうなの?」と言うことなど知っていただければ幸いです。(古川)

維新前後それぞれの願いを探る

2018年5月7日

平成三十年四月二十八日(於一県立図書館2階多目的ホール)
岡山歴史研究会 平成三〇年度定期総会講演
維新前後それぞれの願いを探る https://youtu.be/v60ebUAff48
定兼 学
1 慶応二年 直吉郎の願い
   乍恐以書付奉歎願上候事
御領内村々惣百姓中奉願上候、其意趣は
一、年貢御蔵納三斗五升計切之事
一、御刎米直し人足御差留之事
一、当寅年御年貢御引米之事
一、関門入用御断之事
一、当寅年宍納金難渋人分年延之事
一、御検見之節、壱合以下之毛御免之事
一、御蔵米似せ俵河下御吟味之事
一、御登米之外御差留之事
一、近来{規之御運上(酉年新法)御免の事
一、諸役人依恬之沙汰偉吟味之事
一、以後御出馬有之侯ても、若党槍持に百姓を御迫候義、御断之事
右拾壱ヶ条之趣、御取調之上、格別之御仁恵を以御許容被
為成下候はゞ、莫大之御慈悲、百姓一同難有仕合に奉存候、此段宜被仰上可被下、以上
東北条郡行重村
慶応二丙寅           百姓代 直吉郎
     十二月日

4 明治六年 美作民衆騒擾(血税一揆)
     明治六年酉五月二十七日より三十一日騒擾ヶ条
一、五ヶ年貢米免助(除)之事
一、断髪従前の通り御服(復)仕の事
一、屠牛御廃止之事
一、田畑へ桑草木植付廃止之事
一、地券入用御貢金之内より御立用之事
一、耕地絵図面入用、右同断
一、徴兵御廃止之事
一、槻多従前之通り之事
御役所
(長光徳和編『備前備中美作百姓一揆史料』第三巻七七七頁)

2 慶応四年 備中松山領民の願い

   奉歎願口上書
乍恐奉歎願候、当松山前領主儀、於大坂表如何之次第御座候
哉、今般京都より御追討被仰出候二付、城地共御預り被遊御
裁許御伺相成候趣奉承知、下方一同二於ても奉恐入、然ル処
下方二而者大坂之始末者勿論、京都之思召如何二候哉、不奉
承知候得共、只管旧主を慕ひ候心底、左二奉申上候、先年前
領主入部被致候以来、政事向改革被致、御自分二而質素倹約
専コー相守下々二而も(後略)
               (県立記録資和絃云蔵 延原家資料)

3 明治二年の騒動参加者 利七の願い

自訴御歎書
        第廿五区久米北条郡
              福田上村  香川利七
                      当亥五十七才
   
右者私儀去ル明治四年七月中呂有罪弐ケ
年徒刑被仰付、相勤罷在候内、心得違自宅へ相帰、右御咎二
而入牢中、尚又心得違脱走仕。諸国相稼罷在候得共、今般真
二悔悟仕急度改心立戻り奉自訴候間、何卒格別之以御仁朧ヲ、
寛典御処置蒙度、依之自訴御歎願奉申上候、以上
        (県立記録資料館所蔵 )

一、諸運上従前之通り御立戻し之事
一、御政事向扁幕府御立戻し之事
            東北条  三十二ヶ村
(長光徳和編『備前備中美乍百姓一揆史料』第五巻二一五一頁)

5 明治六年 小田県雇 犬養毅の休暇願い
      記
                          私儀
当一月中御雇出仕被仰付、難有奉職仕罷在候、然ル処於郷
里老母兼而病気之処、昨今差重り候趣申来、就而者御用繁
中奉恐入候得共、一応帰郷対面仕度、奉存候条、明十日よ
り往復之外五日之間御暇被下度、此段奉願候也
  明治六年十月       犬養毅  印
小田県権令矢野光儀殿
(朱書)
聞届候事 印
(県立記録資料館所蔵 犬養家資料)

6 明治七年 兵士 萩原金五郎の願い

  帰省御願書
萩原金五郎儀、昨春以来広島鎮台兵二御編入被仰付罷在候処、
同苗源四郎儀本月中旬ヨリ病発仕、其後引続テ次第差重り、
此節二至候テ(難治之体二罷成、加之老母儀モ折亜敷過日来
重病二罹り、是又同様全快ノ程無覚末趣医師申聞、湯薬ノ世
話モ難行届、親子遠地隔絶看病不相叶ノ情体不看忍、惘然ノ
至二御座候、依之御用先重々奉恐入候得共、往返日数之外廿
日御側河川両側様奉願上候、前条難黙止情実何卒御憐察被成
下、急々御聞済ノ御沙汰被縦下候様伏テ奉歎願候、以上
    第十二大区上房郡小二谷言懸二百八十四番屋敷
明治七年九月廿七日    親・類 縦谷弥五郎 印

小田県権令矢野光儀 殿

  前書之通相違無御座候
             右戸長 足立克譲 印
             副戸長 津田精一 印
             区長  板倉信古 印
 (朱書)
   諸兵隊帰郷之儀者御詮議之次第有之、当分御差止二付
   楠間候事
              (県立記録資料館所蔵「各鎮台往復」)

富山城・石井寺から高松城水攻め 一矢坂山周辺の文化財-

2018年4月10日


1.矢坂山周辺の原始・古代
 ①集落遺跡と貝塚
 ②古墳
  津倉古墳と青陵古墳
  矢坂山の古墳群
2.謎の古代寺院「石井廃寺」と荘園
①石井廃寺
石井廃寺は奈良時代に創建されたとみられる寺院で報恩大師開基伝承のある備前四十八か寺のひとつ。吉乗山(吉祥)石井寺もしくは石井山吉祥寺などの名が残る。寛文6年(1666)池田光政による寺院淘汰により廃寺となる。寺域は現在の妙林寺一帯であったとみられる。

末寺に(万成村)正雲坊・自正院(島田村)住林坊、(上伊福村)福立山宗蓮寺教音坊・常林坊、(西崎)知仙坊、(高柳村)実相院などかある。

3.松山長昌寺地蔵石仏
 花白岩の自然石に花頭窓風に寵部を彫りくぼめ、半肉彫りにされた地蔵菩薩立朧で右手に錫杖、左手に宝珠を持つ。室町時代の応永10年から九年の歳月をかけて彫ちれたもめ。本来は現在地の上部にあった磨崖仏であったと言われるが、天保7年、(1836)の大地震で転落し横倒しになったものを、岡山藩から滑車を借りで引き起こしたとの伝承がある。
しかしながら、天保フ年には大地震の記録が見当たらず、台風などの風水害で転落した可能性が指摘されている。        
    銘文 右「松山長昌寺応永十年(1402)四月廿四日始]
       左[同十九首夏十三 幹縁長昌上人記]
4.富山城と戦国の争乱
富山城は矢坂山山頂に築かれた連郭式の山城で総延長300mにわたって、中心郭が南北に連なる。昭和42~43年(1967~1968)発掘調査される。
発掘調査で大きく時期に区分されることが明らかとなった。
 第1期 明応・永正年間(1491.~1521)頃
     有事龍城型の中世山城
 第2期 天文年間後半(1550)頃~永禄!O年056フ)
     小規模々石垣や一部に瓦葺建物のある戦国末期の山城
 第3期 宇喜多期 永禄H年(1568)~慶長5年(!600)
     石垣や土塀を備え瓦葺の建物の建つ本格的な近世的な山城
応仁元年(1467) 松田元隆 富山氏から城を奪い居城とする松田元成 金川へ
文明15年(1467) 松田元隆 富山氏から城を奪い居城とする
文明17年(1483) 福岡合戦で元親戦死 親家が城主に
応6年(1497)   備前国守護代浦上宗助(三石城主)に攻められるが撃退
永禄11年(1568) 松田氏宇喜多直家に滅ぼされる 直家の弟忠家が城主に
天正7年(1579) 毛利氏備前国侵攻 宇喜多忠家備前備中国境で撃退
慶長4年(1599) 忠家の子左京亮信顕(坂綺出羽守)家中騒動により出奔
慶長6年(1601) 小早川秀秋により廃城となる
5.宇喜多氏と備中高松城水攻め
天正10年(1582)2月八浜合戦
           宇喜多基家討死
        4月 備中侵攻
        6月 高松城開城
・合戦後、備中高松城は宇喜多氏に与えられる。
・関ヶ原合戦で宇喜多氏が失脚後も旧臣の花房氏(徳川家旗本)の所領となり、明治維新まで続く。
宇喜多忠家 ?~慶長14(1609)?
宇喜多詮家 永禄6(1563)?~元和2(1616)

つつじ祭 講演

2018年4月3日

野殿大返し図最終_edited-2「富山城、石井寺から高松城水攻め」 -矢坂山周辺の文化財- 

矢坂山を中心として、文化財を通してみた地域の歴史

内容は「石井」の地名の歴史や謎の多い石井廃寺について。富山城をとおしてみた松田氏や宇喜多氏の攻防から高松城水攻めについて。

https://tsuboigenzaemon.wordpress.com/で検索すると出ます。

矢坂山の春120716 https://www.youtube.com/watch?v=G0Xb05fZsA4

石井学区の歴史いろいろ 岡西公民館https://www.youtube.com/watch?v=iKdIKoqwtlk

吉祥寺石井寺 https://tsuboigenzaemon.wordpress.com/2016/01/29/%e5%90%89%e7%a5%a5%e5%af%ba%e7%9f%b3%e4%ba%95%e5%af%ba/

石井学区の歴史いろいろ 岡西公民館

岡西公民館で「石井学区の歴史いろいろ~身近な文化財の見方~」と題して岡山市埋蔵文化財センター 高橋伸二氏による講演があった。デジメを転載する。 はじめに 指定文化財について 国指定・県指定・市指定 1、埋蔵文化財の見方 ・集落遺跡と貝塚 ・古墳 (津倉古墳と青陵古墳、矢坂山の古墳群) ・古代~中世の寺院 (石井廃寺) ・城郭 (富山城) 2、神社仏閣と石造物 ・妙林寺と常福寺 ・国神社 ・松山長昌寺地蔵石仏 3、山陽道 ・古代中世の山陽道 ・近世山陽道(西国往来) 石井廃寺 報恩大師開基伝承のある備前四十八か寺のひとつ。吉乗山(吉祥)石井寺もしくは石井山吉祥寺などの名が残る。寛文6年(1666)池田光政による寺院淘汰により廃寺となる。 石井寺末寺として廃寺となった寺院に、(万成村)正雲坊・自正院。 (島田村)住林坊、(上伊福村)福立山宗蓮寺教音坊・常林坊、(西崎)知仙坊、(高柳村)実相院などがある。 寺域は現在の妙林寺一帯であったとみられる。また、この寺に関する記録はきわめて乏しいものの、北区津寺のには石井寺にあったとされるが伝わっている。 富山城 矢坂山山頂に築かれた連郭式の山城で総延長300mにわたって、中心郭が南 北に連なる。昭和42 ・ 43 年(1967 ・ 1968)発掘調査。 富山城の概史 応仁元年(1467)  松田元隆 富山氏から城を奪い居城とする 文明15年(1481)  松田元成 金川へ帰り弟の元親を城主とする 文明17年(1483)  福岡合戦で元親戦死 親家が城主に 明応6年(1497)  備前国守護代浦上宗助(三石城主)に攻められるが撃退 永禄11年(1568)  松田氏宇喜多直家に滅ぼされる 直家の弟忠家が城主に 天正7年(1573)  毛利氏備前国侵攻 宇喜多忠家備前備中国境で撃退 慶長4年(1599)  忠家の子左京亮信顕(坂崎出羽守)家中騒動により出奔 慶長6年(1601)  小早川秀秋により廃城となる ※ 発掘調査で以下の変遷が明らかになった 明応・永正年間(1491~1521)頃 有事龍城型の中世山城 天文年間後半(1550)頃~永禄10年(1567) 小規模な石垣や一部に瓦葺建物のある戦国末期の山城 宇喜多期 永禄11年(1568)~慶長5年(1600) 石垣や土塀を備え瓦葺の建物の建つ本格的な近世的な山城 小生の調査によると天正17年(1583)岡山城築城の際、浮田詮家(後の坂崎出羽守)が破城・移築させられ家中騒動の原因の一つとなった。 妙林寺 本堂は元文元年(1736)、仁王門は宝暦4年(1754)の建築6池田光政国替の時、鳥取から僧日 意を伴い寛永9年(1632)山崎町(野田屋町)に創建。貞享3年(1686)現在地に移転。授法院・延寿院・観明院・清涼院の塔頭(たっちゅう)寺院がある。 常福寺 本堂は安永4年(1775)の建築。仏像を安置する厨子は。16世紀後半(桃山時代)の作で彫刻・彩色が施される。牛窓大工の作。 寺伝によると養老2年(718)創建。大覚院と称したが永禄年間に浦上宗景が富山城を攻めた際に兵火にかかり焼失。宇喜多氏により保護を受け長福寺と改めたが、小早川秀秋の代に寺領が没収され衰微する。享保元年(1716)常福寺に改められる。昭和24年(1949)牛窓鹿忍の宝光寺の本堂を移築。 国神社 延喜式榊名帳に記載のある式内社とされる。社殿は明治36年(1903)に焼失。 随身門は19世紀後半の建築で石段・鳥居には元禄15年(1702)の銘がある。 松山長昌寺地蔵石仏……:………岡山県指定 花樹岩、自然石の南面に花頭窓風に龕部を彫りくぼめ、半肉彫りにされた地蔵菩薩立像で右手に錫杖、左手に宝珠を持つ。室町時代の応永1 0年から九年の歳月をかけて彫ちれたもめ。本来は現在地の上部にあった磨崖仏であったゲと言われるが、天保7年、(1836)の大地震で転落し横倒しになったものを、岡山藩から滑車を借りで引き起こしたとの伝承がある。 しかしながら、天保7年には大地震の記録が見当たちず、台風などの風水害で転落しだ可

能性が指摘されている。 写真 1 体内より見つかった木札 2 石井寺にあったとされる立像 3. 石井学区西部・東部(石井寺跡谷万成付近) DVD撮影

吉祥寺石井寺

 

岡西公民館で石井学区の歴史を講演した岡山市埋蔵文化センター高橋氏に会い石井寺について聞いた。 早速一宮近くの矢吹さんの案内で見に行った。ちなみに共に電動自転車だった。 胎内銘札の検討 長柄葦原は,おそくとも古代末~中世初頭には一応の開発が終り,大安寺の荘園として早くから開墾か展開されていったようである。鎌倉中期には,一時皇室御料となったようであるが,その後の動向については判然としない面が多い。時代はずっと下がるが元文二年に成立した岡山藩の地誌「備陽国誌」」によれば,江戸時代の大安寺村,正野田村,矢坂村の三村を合わせて大安寺荘であったと記され,古代~中世にかけてこの地域か大安寺荘であったことは確かである。大安寺庄内の石井山吉祥寺とは,いかなる寺院であったか詳らかではないが,近世の文献資料にその名をとどめるものがある。現在の旧大安寺荘の推定地域内には石井山吉祥寺と称する寺院は存在しない。しかし,文禄四年の金山寺文書「備前国四拾八ヶ寺領并分国中大社領目録」によれば「石井山拾石」と記され,当時石井山(おそらくは吉祥寺)の存在を知ることができる。その後,寛文六年に池田光政によって強行された寺社整理に合って退転,廃寺となった寺々の書上げによれば,三門村に吉乗山石井寺と称する日蓮宗の寺があったことが知れる。この吉乗②山(吉祥山の誤記か)石井寺は,寺名と山号が逆転してはいるものの石井山吉祥寺に相違なく,寺院の変遷過程一般の中では寺名と山号が転倒する例がしばしばみられることや寺の在った三門村も旧大安寺荘内であったことからしても,天文年間における石井山吉祥寺と吉乗(祥)山石井寺は同一寺院であったに違いない。 石井山吉祥寺は,寛文年間に強行された池田光政による寺社整理に合って廃寺となり,その後再興せられることなく,現在まったくその跡をとどめていない。しかし,石井山吉祥寺に関するいくつかの文献資料と寺跡と推定される地域で古瓦の採集が行なわれ,吉祥寺が存在したことを裏づけている。 石井山吉祥寺に関する最古の文献資料は,現在のところ今回の修理で発見された胎内銘札である。それによれば当時の三野郡大安寺庄内に石井山吉祥寺があり,その南谷の住僧実蔵房の弟子実相房日永によって天文二年に毘沙門天の修理が施されている。銘文中の実蔵房の肩書きを記した部分にわざわざ南谷と但し書きが付してある点が注意される。このことは,実蔵房が吉祥寺そのものやあるいは本房の僧ではなく南谷の院ないしは房の住僧であったことを示し,当時吉祥寺を一山とする数院によって塔頭が形成されていたことを暗に示している。 この資料以前の状況を物語る資料としては,記年が不明のためその成立時期が判然としないが,「備前国金川臥竜山城主松田左近将監権頭元隆伝記」には,「当時他宗に改宗を迫りし寺山は下の如し」と記して「石井山○○寺」を初めとして日応寺,幸福寺等々の合計11ヶ寺の名を書上げている。この石井山○○寺は,おそらく石井山吉祥寺に相違なく,備前松田氏の十代に当る元隆によって吉祥寺が改宗されたことを伝えている。松田元隆は,松田氏系譜によれば寛政四年正月二十二日生,天文四年二月二十日卒となっており,その間73年を数え,当時とすれば非常に長命であったようである。元隆は,大永二年に左近将監に任じられ,権守を称している。彼に関する信頼できる文献資料としては,備前吉備津彦神社資料の中に文明二月六月四日付の「松田元隆花押下知状」があり,系譜に伝える④。時期に存在した人物であることが知れる。とすれば,彼が備前,備中で改宗を迫った時期は,彼の生存期間中であり,彼の没した天文四年以前であることは確かである。毘沙門天胎内銘札からしても少なくとも天文元年以前に石井山吉祥寺は松田元隆によって日蓮宗に改宗せられていたようである。改宗前の吉祥寺が何宗に属したいかなる寺院であったかについては一切不明である。(根木 修)仏像保存修理報告書より 写真 大覚大僧正が佐渡に島流の絵(祖粗堂) 石井寺跡近く A宅 美術館 妙林寺うえ辺りの古墳跡また富山城主弟の城跡

中國大返しと富山城

高松城水攻めの後、太閤記などによると1日にして姫路ないし大阪に帰り明智光秀を討って天下人になったと書かれ語り伝えてこられた。可笑しいと思いながら当時凄いことが起こったとしか思っていなった。現実にはありえない事である。講談調の語りであった。

秀吉は毛利氏との和睦交渉を終えると、光秀を討伐すべく上洛の途についた。その直後、毛利氏は信長横死の情報を人手したという。これを知った吉川元春は、和睦を破棄して秀吉を追撃すべきであると息巻いた。しかし、小早川隆景は「誓書の墨が乾かないうちに和睦を破棄するわけにはいかない」と真っ向から反対したという(『川角太閤記』)。実際には、この時点で毛利方は信長の死を知らなかったというのが正しく、この逸話は単なる俗説として退けなくてはならない。

備中高松城を発った秀吉は、常識を超えたスピードで東上の途についた。これがいわゆる「中国人返し」と称されるものであるが、通説には疑義が認められる。最初に、これまでの通説を確認しておこう。秀吉は毛利氏と和睦を締結したのち、同月六日まで動くことができなかった。その理由は和睦を結んだとはいえ、毛利氏の軍勢が脅威として存在し、容易に動けなかったからである。ようやく毛利氏が撤退したのは、六日のことであった。

ここから秀吉の軍勢も一斉に上洛をめざすことになった。

ひとつの説としては、六日のうちに備中高松城を出発し、その日のうちに約二十二キロメートル離れた沼城に到着したという。そして、翌七日に秀吉軍は沼城を発ち、翌八日の朝に姫路城に到着したと伝える。沼城から姫路城までの距離は、約七十キロメートルもある。前者については問題ないと考えられるが、後者は相当な強行軍である。兵卒の装備は重たく、道も状態が良くなかったはずである。

ところが、秀吉の書状には、さらに厳しい強行日程が記されている。六月七日に備中高松城を出発すると、約九十キロメートル離れた姫路まで、わずか一昼夜で到着したというのである(「滋賀県立女土城考博物館所蔵文書」)。この書状は、本能寺の変からわずか四ヵ月後に書かれたものである。ただ、この書状は例のごとく、高揚した気分で大袈裟に書いており、一次史料とは言いながらも信用を置けないところがある。

ふたつの説が根本的に間違っているのは、備中高松城を離れた日を六月六日もしくは七日としていることである。『黒田家譜』には、姫路城における官兵衛の進言が記されている。官兵衛は姫路城へ立ち寄ることなく、すぐに合戦のために進軍すべきであると秀吉に意見を述べたという。しかし、後述するとおり、秀吉らが姫路城に滞在した事実が認められるので、この説は誤りと考えられる。{渡辺大門)

宇喜多直家が岡山(石山)城共に毛利に対する最前線であった富山城を忠家が築城し、忠家は6万石の治行を持っていた。直家が毛利より信長に従うことになり重要度が増した。増してや直家が亡くなった、当時は松田の時代からの野殿城は弟の忠家の屋敷として使われ、高松城水攻めの最前線作戦本部が置かれていた。

 備前軍記によると、高松城水攻めのより毛利と和睦後、 さて6月6日の早朝、備前勢がまず岡山に帰陣し、次いで同日未の刻(午後2時ごろ)秀吉が陣を引き払って辛川村に至り、ここで人数を分け、主力は半田山の前の古道から旭川の釣の渡を越え、先陣から順次東進した。秀吉は旗本の人数だけを従え、矢坂を越えて岡山に赴いた。

東軍の大部分は、旧古山陽道に辛川から入り、宇喜多軍は矢坂大橋を渡り沼城への道を帰った。

宇喜多忠家は高松城水攻めの最大の功労者であった。東軍、秀吉、重臣と宇喜多重臣は野殿屋敷に戻り、毛利の動きと明智光秀の討伐の軍議を行った。そして、秀吉は摂津茨木城(大阪府茨木市)の城主で明智光秀に近い中川清秀に対して、事を自らの有利に運ぼうと画策した返書を送った。そして、まとまった所で岡山城に向かい八郎後の秀家に報告した。

宇喜多八郎は明石飛騨を従え、岡山城下の町口まで迎えた。秀吉は懇ろに挨拶して岡山城に人り、暫く八郎と対面した。八郎の家臣浮田七郎兵衛・浮田左京・明石飛騨・戸川助七郎・長船又右衛門・花房弥左衛門らも次の間に控えていた。このとき戸川平右衛門は関東の草津へ入湯に赴き留守であった。(備前軍記)

この辺りを検証する意味でも、富山城祭を野殿中心に6月4~7日に開くことを検討している。字図と現代図を重ねた。

笹ヶ瀬川は直線でなく大川を蛇行して野殿地区は備中領であった。

五輪の字当たりの南が野殿交差点、西署。大川沼の跡に大野小学校、大安寺中等校がある。

上に太然時があり、城ノ内に野殿城、忠家御殿があった。