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日本民間航空通史 航空機の黎明期

2018年1月20日

は じ め
江戸で蘭学塾(のちの慶応義塾)を開設、日本で初めて英語の学問を修めた福沢諭吉(一八三五-一九〇一年)は、三度幕府遣外使節に随行して欧米を視察したが、咸臨丸という船で、横浜からワシントンまで実に三か月の歳月を要した。
 それから百年後の今日では、成田からワシントンまで飛行機でわずか一三時間で行けるようになった。
 人間が空を飛びたいという願いは相当昔からあったが、それはあくまでも夢物語りであった。日本では、江戸時代の戯作者・発明家として有名な平賀源内(一七二八-一七八〇年)が翼をつけて屋根から飛んだが失敗したという逸話もある。
 明治三六年(一九〇三)一二月一七日、アメリカのライト兄弟が、初めて動力飛行に成功してからヨーロッパで飛行熱が高まり、明治の終り頃にはドイツやフランスで飛行機や飛行船が飛び回ってその性能を競い合い、続々と新機種が生まれ、それと共に操縦技術を教える飛行学校ができるようになった。
 その情報に刺激を受けた日本では、遅ればせながら、軍用として飛行機・飛行船を使うことを目的に明治四二年(一九〇九)八月、内閣直属の「臨時軍用気球研究会」が発足、明治四三年(一九一〇)四月、外国から飛行機・飛行船を購入することと、その製作、操縦技術を習得させることを目的として、日野熊蔵、徳川好敏両陸軍大尉をヨーロッパに派遣した。
 両氏が帰国して日本での初飛行は明治四三年こ一月一九日であった。その日、代々木練兵場(現・代々木公園)で徳川好敏工兵大尉の操縦するアンーフォルマン機での飛行距離は3㎞、高度70mであった。ライト兄弟の初飛行より遅れること七年たった。
 その後、「臨時軍用気球研究会」の委員であった奈良原三次海軍大技士(海軍大尉待遇)が臨時軍用気球研究会を辞めて、自分で設計製作した飛行機にノーム50馬力のエンジンをつけて明治四四年(一九一二五月五日、所沢飛行場で自ら操縦して高度5m、距離60mを飛行したが、これが純国産機で民間人が飛んだ日本最初の飛行機であった。
 これに続いて民間の飛行家が続出して手製の飛行機で自由勝手に空を飛び廻るようになったので、これを野放しにしてもおけず陸軍省の外局に「航空局」を設け、操縦士の資格が国家試験となると同時に航空局直轄の乗員養成が始まった。
 特に戦時中は民間航空機操縦士の大量養成を行ったが、民間機のパイロットになった者はごくわずかで、ほとんどが軍に駆り出され多くの民間パイロットが特攻で、あるいは空中戦で戦死した。
 昭和二〇年(一九四五)八月一五日の敗戦を境に、日本人が日本の空を自山に飛べない日が六年余りも続いたが、昭和二六年(一九五一)九月八日、対日平和条約が調印されたのを機に、同年八川一目、日本航空㈱が設立され、ようやく日本人が日本の空を自由に飛べる時代が来たのだった。
佐 藤 一  一
第一章航空機の黎明期
第一節 空を飛びたいという人間の夢
 背中に羽のはえた天使や、羽衣を身にまとって空を飛石天女などは「空を飛んでみたい」と願っていた人間の夢であり想像の世界であった。
 今から二百数十年前に、偉大な芸術家であり科学者でもあったイタリアのレオナルドーダービンチは、鳥の飛ぶのを観察して、羽ばたき飛行機やヘリコプターの設計図を書いていたがこれは実現するには至らなかった。
  それを実現させ、実際に人間が空に上ったのは、二百年以上も前、フランスのモンゴルフィエ兄弟であった。彼らは熱気球を作り、温めた空気を気球の中にためて、大勢の人の見守る中で、ふわっと空中に浮かび上ったのだった。その後、空気より軽い水素を入れることを考えたが、それは「飛ぶ」というより「浮かぶ」と云った方が正しいものであった。それは前に進むことができなかったからである。
  その後、ドイツのリリエンタールが明治二六年(一八九三)に、大きな翼を背中につけ、小高い丘の上がら飛んで滑空に成功した。最近、スポーツとして盛んになってきたバングーグライダーの元祖というべきものである。しかし、気球もグライダーも、空気(風)を利用して短い時問、ゆっくり空を飛ぶだけで、本格的な飛行機というものではなかったのである。

第二節 ライト兄弟が動力飛行に初成功
 明治一五年(一八八二)にロシアのモシヤイスキーが初飛行に成功したとか、明治三〇年(一八九七)にフランスのクレマンーアデールが吐界で初めて動力飛行に成功したという説もあるが、記録も証拠も見つかっていない。
 今、肝界的に認知されているのは、明治三六年(一九〇三)一二月一七日、アメリカのノースカロナイナ州キティホークで、兄のライトと弟のオービル兄弟が複葉機を完成して、前後四回飛行して人類初の動力飛行に成功したことである。
 最初の飛行は、わずか12秒、に取高の滞空時間59秒、飛行距離はミ六〇メートルというものだった。

第三節 日本で「臨時軍用気球研究会」発足
 アメリカのライト兄弟が、肝一界初の動力飛行に成功したというニュースに刺激を受けたヨーロッパでは、長年夢であった「人間が鳥のように空を飛べる」という事実に、アメリカよりも飛行熱が高まった。そして明治の終り頃には、ドイツやフランスで続々と新機種が生まれ、飛行機や飛行船が盛んに飛び回ってその性能を競い合い、さらには操縦術を教える飛行学校までができるようになったのである。
 それに刺激を受けた日本でも、軍用としで飛行機・飛行船を使用することとなり、明治四二年(八月、内閣直属の「臨時車用気球研究会」が発足した.
 最初の研究会委員には
  〔陸軍から〕
 会長 長岡外史中将(当時の軍務局長)
 幹事 井上仁郎大佐(当時の工兵課長)
 委員 有川鷹一少佐(砲工学校教官)
 同  徳永熊雄少佐(気球隊長)
 同  徳川好敏大尉(気球隊付)
 同  日野熊蔵大尉(砲兵工廠付)等
  〔海軍から〕
 委員 山屋他人大佐
 同  牛奥励三  (造船小監)
 同  相原四郎大尉
 同  小浜方彦大尉
 同  奈良原三次 (造兵中技士)等
  〔学識経験者から〕
 委員 田中館愛橘 (理学博士)
 同  井口在屋  (工学博士)
同  中村精男 (理学博士)
同  横田成平 (工学博士)
等が就任した。

 第四節 臨時軍用気球研究会の仕事とは

 さて、こうして発足した研究会では、差しあたり次の仕事に取りかかることとなった。
 第一は、日本国内で、日本製の飛行機や飛行船を試作することであった。
 飛行船の方は徳永、徳川、小浜の諸委員を中心に、当時気球隊付であった伊藤赳工兵中尉、岩本周平(東大教授、当時気球隊付陸軍技士)が設計試作員として設計に当った。
 一方、飛行機の方は、日野、奈良原委員が、それぞれの考案を各自の助手を使って設計製図に当ることになった。
 第二は、各委員が設計のために実験したり、実物を.工作したりするための実験雫、.L場、飛行船に必要な水素ガスエ場、飛行機、飛行船の格納庫等の建設であった。
 第三は、飛行機、飛行船の性能テスト、実用試験をするために必要な飛行場の設定、建設であった。
 これは徳永少佐と、岩元周平が担当することになり、地質・地勢・水利・常習風向・土地の価格調査等に自転車で踏査し、埼玉県所沢巾の平坦な、いも畑約八万坪(一反歩=三〇〇坪=百円)を適当地として買収することに内定したのだった。しかし、日本では初めての飛行場建設であるから、果してこの面積でこと足りるのか不安もあって、急拠田中館博士(昭和一九年文化勲章受章)をヨーロッパに派遣した。田中館博士にヨーロッパ各国の飛行場を視察した結果、敷地の広さや施設など所沢の計画で支障なしと判断し、その結果、電報でその旨を報告しました。この報告を受けた臨時軍用気球研究会では、早速十地の買収に着手し、地ならし、建築と矢継ぎ早やに計画に移した。
 第四は、外国ですでに完成している飛行機、飛行船を購入し、これを研究すると共に試験をすること、そして操縦の技術を習得することであった。
 そこで日野熊蔵陸軍歩兵大尉と、徳川好敏陸軍工兵大尉の一一人が選ばれた。二人は明治四三年(一九一〇)四月、シベリア鉄道で渡欧し、徳川大尉はフランスで、アンリー・フォルマン式複葉一機(八、三六三円)、ブレリオ式単葉一機を購入して、操縦術の訓練もわずか二週間で卒業して帰国した。
 日野大尉は、ドイツでグラーデ式単葉一機(五二九六円)と、ドイツ製ライト複葉一機を購入して帰国したが、同年中に着いたのは徳川大尉の購入したフォルマン機と、日野大尉が購入したグラーデ機で、あとの二機は翌四四年三月に到着した。

第五節 日本での初飛行
 日本で「臨時軍用気球研究会」が発足した頃、フランス海軍中尉ルプリェルが、田中館博上の指導で、帝大(東京大学)構内で滑空機(グライダーを組立て、不忍池畔で試験飛行を行なった。自動車で滑空機を引かせて滑走し、高さ一五・六メートル位飛び上ったところで綱をはずし、無事に滑空で着陸し一応成あって、ルプリェル中尉の飛んだあと、同機に搭乗して一応飛び上ったが、綱の片方がはずれて横すべりして池の泥のなかに落ちて失敗した。
 しかし、これは当時見物していた日本人に「人間も空を飛ぶことができるんだ。」という証拠を見せた最初のことであった。
 本格的な日本での動力初飛行は、明治四三年(一九一〇)一二月一九日、代々木練兵場(現・代々木公園)で行われた。
 ドイツーフランスから飛行機を買付け、操縦技術を学んできた徳川・日野両人尉によるものだった。
 徳川好敏工兵大尉がフランスで購入したアンリー・フォルマン式複便機で、距離三キロメートル、高度七○メートル、飛行時間五分というものであった。ライト兄弟の初飛行より遅れること七年目のことである。
 今、この地に「所沢航空発祥記念館」が設けられている。(平成五年三月二七日開館)
 しかし実際には、これより五日前のて一月一四日、日野熊蔵陸軍歩兵大尉がドイツから購入してきたドイツ製(ンスーグラーデ式単葉機で二メートルの高さで一OOメートルの距離の初飛行に成功していたが、「公式飛揚」ではないので、日本航空史では一二月一九日が、日本における初飛行と記録されているのである。

第六節 臨時軍用気球研究会の廃止
 その後、明治四四年(一九一一)一〇月、徳川大尉はアンリー・フォルマン式に気球研究会で改良した国産第一号機を操縦して高度八五メートル、距離千六百メートルを飛行した。
 一方、飛行船の方は、明治四四年にドイツのパルセバール式飛行船を購入することになり、その製造・整備・監督と、取扱い操縦練習のため、石本工兵大尉が総合事務を、益田工兵人尉が取扱い操縦を、山下海軍機関人尉が機関と整備を、岩本周平が製造取扱いをそれぞれ学ぶ目的でドイツに派遣され、P13号(日本では、パ式航空船と命名)の竣工検査に立ち合い、明治四五年(一九一二)六月、シベリア鉄道で帰国した。
  この留守中、明治四四年一0月、伊藤中尉を船長に、中島知久平海軍機関中尉(のち中島飛行機会社を興し、鉄道相、軍需相となる)を機関長として「イ号飛行船」の初飛行が行われ、百メートルほど上昇してエンジンをかけ、ゆっくり飛行場の周辺を飛び廻った。
 これが「イ号気球」と命名された目本で初めて製作された国産飛行船で飛んだ記録第一号である。
 その後、航空機・飛行船の発達ぶりを貴族院議員(現在の参議院議員)や衆議院議員を招いて見てもらおうと大正二年(一九二三)三月二八日、青山練兵場(現・明治神宮外苑)で航空祭を催した。所沢から飛び立った飛行機や飛行船を青山練兵場に着陸させ、更に離陸して所沢に還るという計画であった。ところが飛行船のクセを卜分克服していない操縦未熟の為に、事故をおこしてしまったのである。
 今も香川県仲多度郡仲南町の二宮公園内には京都から分社した「飛行神社」(口絵2頁)が設けられ、忠八翁の銅像が聳え建ち、忠八太鼓が響き渡っている。   

 第三章民間航空の先覚者たち
          第一節 民間航空の第一人者奈良原三次男爵

 日本民間航空の先駆者を語るとすれば、奈良原三次(後男爵・口絵1頁)を置いてほかにあるまい。
 奈良原家は、明治維新のころまでは薩摩(鹿児島県)の島津家の家老の家柄であった。先祖の奈良原助八は、十一代薩摩藩主島津忠昌公が病身のため乱れた領内を平定できないことを恥じて切腹して果てた。助八は、その忠昌公の葬列が菩提寺に入るのを見届けると、その門前でみごとに追腹を切って殉死した。島津家七百年の歴史の中で初めてで最後の殉死者であった。こうして奈良原家には代々熱血漢が生まれた。
 明治維新の生麦事件(文久二年〈一八六二〉薩摩藩の島津久光一行が江戸からの帰途、横浜生麦村にさしかかった際、騎馬のまま行列を横切った英国人四人を殺傷した事件。↓薩英戦争)の発頭人奈良原喜左衛門は三次の叔父にあたる。
 また、京都の寺田屋事件(文久二年〈一八六二〉尊王攘夷派の薩摩藩士有馬新七らが、関白九条尚忠・所司代酒井忠義の殺害を企て京都伏見の舟宿寺田屋に結集したのを、島津久光が家臣を遣わして襲い、殺害した事件、(寺田屋騒動。)で名高い奈良原繁(のち沖縄県知事。男爵)は、三次の父君であった。 
 三次は次男だったが、長兄がドイツ留学中客死したので、三次が奈良原家の世継となったのである。
 三次は岡山第六高等学校から東京帝国大学(現・東大)工学部造兵科に学び、卒業後海軍に入って明治四二年(一九〇二)内閣直属の「臨時軍用気球研究会」が発足するや、委員(当時造兵中技士=中尉待遇)に選ばれて、飛行機の設計、製作にあたった。

手製の飛行機を造り初飛行
 明治四三年(一九〇三)、日野、徳川両大尉が欧州で飛行技術を学んで帰朝、同こ一月一九日、代々木練兵場で日本最初の飛行に成功する半年も前に、三次は当時東京・四谷塩町にあった父繁男爵家の庭を作業場として鹿児島から送らせた丸竹を主材とした「奈良原式1号機」を完成していた。その費用は肖時の金で二〇〇〇円程かかっていた。
 海軍大技L大尉待遇)で海車を退官した余良原ミ次はで史にフランスから購人したブーム50馬力のエンジンを取り付けた「奈良原式2リ機」を完成した。明治四四年(。九い川)斤八几目、ミ次はこの「余良原式2号機」を所沢飛行場で自ら操縦して初飛行を行った。高度.aメートル、距離六〇メートルというものだったが、純国産機で民間人が飛んだ日本最初の飛行であった。
 当時は操縦技術などを教えてくれる教官もなく、飛行機も手づくりの飛行機だったので、まったく「手製の飛行機」で「我流の操縦」だったのである。
 その後、男爵の後継者たる者が、危険極まりない飛行機で事故をおこして万が一のことでもあったり怪我でもしたら大変なことだということで、三次の親戚一同から大反対をされた為に、その後べ次が自ら操 明治四三年(一九〇三)、日野、徳川両大尉が欧州で飛行技術を学んで帰朝、同一二月一九日、代々木練兵場で日本最初の飛行に成功する半年も前に、三次は当時東京・四谷塩町にあった父繁男爵家の庭を作業場として鹿児島から送らせた丸竹を主材とした「奈良原式1号機」を完成していた。その費用は肖時の金で二〇〇〇円程かかっていた。
 海軍大技士大尉待遇)で海車を退官した奈良原三次は、更にフランスから購人したノーム50馬力のエンジンを取り付けた「奈良原式2号機」を完成した。明治四四年(一九〇四)五月五日、三次はこの「奈良原式2号機」を所沢飛行場で自ら操縦して初飛行を行った。高度.五メートル、距離六〇メートルというものだったが、純国産機で民間人が飛んだ日本最初の飛行であった。
 当時は操縦技術などを教えてくれる教官もなく、飛行機も手づくりの飛行機だったので、まったく「手製の飛行機」で「我流の操縦」だったのである。
 その後、男爵の後継者たる者が、危険極まりない飛行機で事故をおこして万が一のことでもあったり怪我でもしたら大変なことだということで、三次の親戚一同から大反対をされた為に、その後三次が自ら操縦するということはなかった。

会社を興して失敗する

 三次が再び操縦稈を握ることがなくなってから中野の気球隊で徳川好敏大尉の部下だった白戸栄之助軍曽が除隊したので、三次の製作した飛行機で白戸が練習飛行することになった。
 その頃三次は、「束京飛行機製作所」という会社を興し「臨時軍用気球研究会」の御用として、ライト式やグラデー式の飛行機の修理、研究用のプロペラ製作などを商っていた。その会社に住吉貞次郎という男を支配人格で採用し、三次はこの住吉をすっかり信用して一切の仕事をまかせ、実印まで預けていた。ところが住吉は信用されていることを良いことに、三次名儀で高利貸しから借りられるだけの金を借りて使っていたのである。住吉は自分で勝手に借金をしておきながら、今度は債権者側に寝返って、壮子(政党に雇われた川心棒)上りの子分数名をひき連れて、三次に厳しく債務の取り立てを責め立てた。その時、三次の作った「奈良原式3号機」の試験飛行中だったが、この3号機の発動機まで差し押さえてしまった。そのため3号機は試験飛行もできなくなったので、三次は止むなく東京に引きあげてしまった。
 明治四三年(一九〇三)、日野、徳川両大尉が欧州で飛行技術を学んで帰朝、同一二月一九日、代々木練兵場で日本最初の飛行に成功する半年も前に、三次は当時東京・四谷塩町にあった父繁男爵家の庭を作業場として鹿児島から送らせた丸竹を主材とした「奈良原式1号機」を完成していた。その費用は肖時の金で二〇〇〇円程かかっていた。
 海軍大技士大尉待遇)で海車を退官した奈良原三次は、更にフランスから購人したノーム50馬力のエンジンを取り付けた「奈良原式2号機」を完成した。明治四四年(一九〇四)五月五日、三次はこの「奈良原式2号機」を所沢飛行場で自ら操縦して初飛行を行った。高度.五メートル、距離六〇メートルというものだったが、純国産機で民間人が飛んだ日本最初の飛行であった。
 当時は操縦技術などを教えてくれる教官もなく、飛行機も手づくりの飛行機だったので、まったく「手製の飛行機」で「我流の操縦」だったのである。
 その後、男爵の後継者たる者が、危険極まりない飛行機で事故をおこして万が一のことでもあったり怪我でもしたら大変なことだということで、三次の親戚一同から大反対をされた為に、その後三次が自ら操縦するということはなかった。

有料公開飛行を実施
 その後、新しく出資してくれる人が現われたので、東京・京橋八丁堀(現・中央区)に「東洋飛行機商会」という新会社を設立して明治四五年(一九一二)三月、「奈良原式4号機]を完成した。そしてその飛行機
 尚、戦時中、日本の逓信省航空局、高等(又は地方)航空機乗員養成所で学んだ朝鮮人たちもいたが、その分は第二編・戦中編で述べることとする

第七章民間航空草創期に羽ばたいた女性飛行家たち

 明治、大正の女性はおとなしく、しとやかで優雅な茫ち居振るまいをするものと定義づけられていた。
従って、女性が自転車に乗ったり自動車の運転をしたりすれば、あれは「お転婆だ」、「男まさりだ」「嫁のもらい手がないぞ」などと云われた時代であった。
 昭和七年(一九三二) 一二月一六日、午前九時すぎ、東京・日本橋の白木屋呉服店四階の玩具売場から火災が発生、火は三時間にわたって燃え続け、三九八二坪を全焼、死者一四人、重傷者百十数人を出す大惨事がおこった。当時の女性はほとんど着物姿で仕事をし、従って下着をはいていなかった。この時の死亡者一四人中、一三人は和服だったので消防署員が下に幕を張って飛び降りるよう指示したが、飛び降りる時着物のすそが開くのを気にして逃げおくれたために犠牲者が増えたのだった。
 これを機に日本の女性も外で働く者は洋服を着、下着を身につけるようになったのである。
 そんな時代背景の中でも多くの女性が空にあこがれ、飛行家になる夢を抱いて羽ばたいていったのである。

女性飛行家第一号 兵頭 精

 大正一一年(一九二二)三月二四日付で三等飛行機操縦士(免許番号第三八号)の免状を取得、日本における女性飛行家第一号になったのが兵頭精である。
 精は、明治三二年(一八九九)四月六日、愛媛県北宇和郡東仲村二五番戸(現・広見町東仲)において兵頭林太郎、同民子の四女として出生した。
 父林太郎は田舎には珍らしい読書家で、明治二〇年代に早くも空を飛ぶことを夢見て絵図面などを書いていたが、明治四三年六月三日、満五三歳で亡くなった。精一一才の時である。精はそういう父の血を受けたのか、母民子から話を聞いていたのか、とにかく自分も飛行家になりたいという淡い希望を抱いていた。
大正四年(一九一五) 一二月、アメリカのチヤールズーナイルスという女性飛行家が来日して青山練兵場で宙返りを披露した。また翌五年一二月には、キャサリン・スチンソン嬢が同じ場所で宙返り飛行をしてみせた。肖時、松山巾・斉笑高等女学校に在学していた精は、この話を聞いたり新聞で読んだりして「女性でも飛行家になれるんだ」ということを知り、ますます飛行家になりたいという夢がふくらんでいった。
 父ござあと、姉のカソエが父親がわりに一家を支えていたが、精の飛行家希望に対しては「女だてらに飛行機乗りになるうとは」と猛烈に反対した。精は止むなく女学校を卒業すると安原医院に薬剤師に見習として働くようになった。しかし人空への夢は忘れられず、合間をみては東京の相羽有が経営する日本飛行学校発行の『飛行機講議論』をとり寄せ独学していた。それを知った姉カゾエは精の思い込みに根負けして「そんなに飛行機が好きならやってみるがいい。」と大枚1千円を援助してくれた。カゾエは、精のいわば自分と共通した男性的路線を生き抜こうとする姿勢に共鳴し、期待し、応援することにしたのである。
 精はこの金を持って二○歳の年の一一月一五日上京した。ところが期待していた日本飛行学校(校長相羽有)では、こ年前の人正六年(一九十七) 一〇月一目の台風で、東京・羽田穴守にあった飛行場は水びたしになり、たった一機の玉井式二号キャメロン機が流され、更にその半年前の五月、操縦教官の玉井清太郎が墜死するという大打撃を受け、相羽は飛行機事業から手を引いて自動車部だけしかなく、飛行機は『講議録』を発行するだけで、飛行機操縦など何一つ教えてはいなかったのである。
 止むなく精は赤羽飛行機製作所(岸一太医学博士が経営し、井上武三郎陸軍予備役中尉が操縦教官)を訪ねたが、ここでは「女では駄目だ」と断られてしまった 精が途方にくれていたところ、ある人から伊藤音次郎が経営する津田沼(現・千葉県習志野市津田沼)の伊藤飛行機研究所を教えてもらった。早速訪れて音次郎に入学を願ったところ、どうせ一時の出来心で長続きはしないだろうが、大金を持ってやってきた相手が男であろうと女であろうと拒む理由はないと、直
ちに入学を許可した。所長の伊藤音次郎はこの時、まだ二八歳、飛行家として実力、人気ともに上昇中で、精が訪れた頃は、設計者に稲垣知足、操縦教官に山懸豊太郎を据え、新機の製作と共に操縦士の養成に専念中でありました。彼は多くの鳥人を育て、奈良原三次に次ぐ民間航空育ての親ともいうべき人物であるが、昭和四六年(一九七一)一二月六日、八〇歳でこの世を去った。

岸一太の山陽新聞記事

2017年12月13日

1890(明治23年)8月29日
関西高校の前進の岡山薬学校に通学当時か?
提籃の需用
御野郡大野村大字北長瀬なる岸一太氏は同郡鹿田村大供にて組提籃と筵提籃を製造し神戸商館に見本持ち行き売り口を求めたるに非常に称賛を得直ちに1万個の注文を受けたるを以て支那豪州等夫々向口の品を製造中なるが当今は其の職人の少なきに困るほどなりといふ盛んに製造するに至れば輸出品の一部に数えらるに至るべしとの事

1912(明治45)年6月2日
関東軍督府技師兼満鉄大連病院長を3年した後、帰国し東京に上京する前であろうか?
@医学博士岸一太君に与う
岡山医学専門学校学生同志委員
合田 獃成

進んで足下との会見談と右演説を対のんに足下の演説には委貝の述ふ所大部分之に賛同する能はざりきと是れ何の言はりや委員が意見を述べるや始め足下は此の問題を以て学生のなす可らざるのなりと云ひき然れども論戦の結果吾人が誠心誠意に足下を説破して学生としてなすも可なりと明言せられたるにあらずや論議の結果吾人の取れる所凡て善を尽くせども只そ形式に於いて聊か暇ぐる所ありとに所論一致したるにはあらずや然らば何を以て足下が大部に賛同する能はざりきなと云い得るや吾人怪牙訝の念に堪えざるなり、又足下の言の此形式の足らずるなを補ハ、然らば、吾等の同志超えたといはれたり而かも演説には其の補足の事たる期しがたき事、実なりと云はり初より出来ざる相談と知りながら之勘むることは何事かりきや、誠に不親切も甚だしく苟も後進の者を指導する紳士の態度と云ふを得べきか、実に言語同断なりと云はざるを得ず。
足下は専ら勉強のみをする以て足れりと只此の一言を以て俺掩ひ去らんとす。
此の消極的行動をのみ学生の半分となすは出理に眛菖思想のみ事苟も自己の利害問題にして又学校に発展に間する事あらば其の向上発展を期して起つは元より当然にして又此の進取的元気こそ青年の至実なれ然れども其常軌を達せる行動ある可らざるや勿論なり。
道辻説をなすものあり岡山医専向上を欲せざる某氏上京して盛んに此運動に向て幾就若くは防塵を加へんとし各方面に其の方法を講ぜり。而して其の結果足下も亦。その確認中の一人となりて之れが阻害に供与するに至れるなりと吾人直に是直に之れを信ずるに能はらずと蹴も又以て全く之れを否定し得ざるなり内にとなれば吾人と会見の結果足下は其の足らざるを補へ然らば助力せんと唱え(学生してなすの不可ならざるは勿論)且学会の為にには1ケ年2千円を支出うる事となし居れり故に必要の場合奮って義援金をもないこの問題の発展を計らん前日に壮語しながら翌日は早手拿を翻すが如く前言を食むに於いては其の問何ら等の消息ながる可らず、世間性々足下の人格に就いて云々するものあり果たして然らば吾人足下の為に之れを悲まずんばある可らず、
吾人の足下の演説を聞きて一言を發せざりし所以のものは之一に
先輩に対する道を思えばのみ其の不遇の言を聞きながら之れに堪えざる可べかららざりしが吾人の心事実に熱涙を飲むの概あり切歯せざる能はざりき然るに足下は東部にありて頻りに足下は東部にありて頻りに足下の辨を以て吾人を説破して遂ひ反したたるなりと得々然たるものありと是れ吾人を悶着せざるものなり吾人同志会の宣言書には苟も此の問題に向かって阻止を加ふるもの対しては相当の防御を施し絶対に排斥するの手段を講ぜざるを得ずと宣せり茲に於いてか吾人又止まる所を知らず本書を呈して足下の回答を聴かんとするのみ。
(完)

庭の紅葉

2017年12月7日

黒部ダムの紅葉が残念ながら見れず、栂池で撮影した写真を楽しんでいます。緑川洋一の写真展が瀬戸内美術館
?で開かれいています。日の出など日本各地で撮影した彩どりを堪能できるでしょう。我が家の写真集を取り出して見ます。
今朝、庭先の紅葉を撮影しまいた。
運動公園のポプラ、楓、岡大のイチョウ、農学部前の楷とありますが、何度撮影しても難しです。
 巨大な楷(かい)の木は『旧閑谷学校』のシンボル。中国山東省の孔子廟から持ち帰った種子から成長したもので、孔子にちなんで『学問の木』と呼ばれています。
写真
風呂前のドウダンツツジ、岡大図書館
前 楷

オルガ、餅つき、美術館

2017年12月3日

9時に家を自転車で出て、西口のオルガの環境フォーラムを聴きに行きました。
中国四国地方環境事務所の環境対策課原田幸也さんがパリ協定と地域再省蓄エネ活用による地域課題の解決についてた話した。経済成長:鍵は「炭素生産性の大幅向上」  高付加価値化によって、「量ではなく質で稼ぐ」を目指す点においては、付加価値生産性と炭素生産性は同じ方向性を向いている。
地方創生・国土強靭化
・地域エネルギーの活用
一再エネ関連の事業・雇用の剔出、国土強靭化等
・市街地のコンパクト化
一人口密度向上による労働生産性の向上、市街地活性化等
・自然資本の維持・充実
一地域の独自性に基づく高付加価値な財・サービスの源泉
地域再・省・蓄エネの意義②
     地域経済の活性化
・エネルギーの地産地消が進むことで、地域内での資金循環が活発化。
・地域企業の設立による安定的な雇用の剔出や税収
 増といった経済効果が見込まれる。
   地域再・省・蓄エネの意義③
      地域課題の解決
・エネルギー販売事業と合わせて介護サービスや福祉サービス等の事業を行うことで、副次的に地域課題の解決にも寄与。(高齢者見守り、子育て支援等)
地域版・自治体新電力の増加
地域に存在する再エネ等のエネルギー資源を地域内で消費し、エネルギー代金を地域内に循環させるため、自治体が地域の企業等と共同して電力事業を立ち上げるヶ-スが浸透。
域内で生み出される再エネや、廃棄物処理で発生する排熱などを活用する事例が多い。
他都市の例は、静岡県浜松市(株)浜松新電力
政令指定都市として全国初の新電力。資本金6,000万円(市の出資比率:8.33%)
現在は、太陽光発電所、清掃工場の電気を買取、市内の需要家へ供給。将来的にはコジェネ、蓄電池等からも電力を調
達し、浜松新電力がスマートシティの担い手となる構想。を上げた。
西口地下道に向かうとパン屋の前で餅つきをしていた。
県立美術館せ文化フォラムを聞いた。
近世の実像を求め 史料の語る近世岡山
「倉敷の町と大橋家一族 山本太郎[倉敷市総務局総務部副参事(歴史資料整備室担当)]
山本太郎[倉敷市総務局総務部副参事(歴史資料整備室担当)]
江戸時代には備中国窪屋郡倉敷村は、幕府代官陣屋が置かれた陣屋元村として町場が発達した。在町倉敷には、周辺農村から多くの人々が流入した。ここでは、倉敷村の豪農商として知られる大橋家を取り上げ、大橋家が倉敷の町場へ移住して力をつけた歴史的経緯や、代官役所支配にも地域の成り立ちにも不可欠な役割を果たしながら、近代における名望家へとつながっていく過程を史料から跡付けてみたい。
「村の記録と向きあう
  和気郡豪農大森家の系図調査より」
森元純一 [和気町歴史民俗資料館職員]
和気郡尺所村の大國家(近世には大森)には、膨大な古文書が残されている。近世も後期になって大森家は、自身の系図を作成して子孫に残したが、膨大な古文書をひもとくと、どのように調査して系図は確定されたのか、その詳細が判明して興味深い。その背景には、近世の村社会が、必然的に豊富な種類の古文書を持っていたことがある。ここでは、大森家の系図調査を通して、そのような豊かな古文書世界を再確認したい。

武家社会に生きる
   ―津山藩松平家文書の武士たち一」
 尾島 治 [津山郷土博物館館長]
江戸時代の武士は、擲楡的にサラリーマン武士とも称されてる如く、その多くは日ノマの勤務に励みながら、それぞれの家の格式に縛られた中で、ささやかな出世を願って生きていた。そんな彼らの実際の暮らしや誇りや諾憤が、今に伝えられる膨大な古文書の中に隠されている。また、大名自身も家を守るためヽ幕府役人を相手に奮闘していた。ここでは、ステレオタイプの武士像ではない彼らの現実を、生の史料から汲み取っている。
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赤羽飛行機製作所・飛行場100周年記念如何に顕彰するか

2017年12月2日

魚見山で日の出を祝う日が近づいた。毎年、頂上が一杯となり8畳岩にだれが占拠するか争うこととなる。まだ周りには日の出を見える場所がある。
今から100年前に岸一太は、赤羽飛行機製作所・飛行場を作った。
岡山では全く報道されず他にも多くの方が読売新聞中心に賑やかした。
大正時代2年に中国大連から帰って築地に病院を開業しました。この当時の東京は今と問題は変わらずゴミ、電力、人口過密、防災対策が無い、
そして、関東大震災が起こった。
1922(大正11)年7月25日岸一太博士が世界的の発見
東京市1年の塵芥処分から6千キロから9千キロの電流を起こせる。
他に副産物として酪酸、揮発油が出来て、而も経済的で多大の利益を得られる 博士は今年も亜炭も発明した
この次は糞尿の研究に取り掛かると
  露天焼却
東京湾におけるごみ埋立ての歴史は江戸初期にまでさかのぼることができます。当時はリサイクルの仕組みが整えられていたため、埋立処分は不燃物や建物廃材といったものが主体となっていました。
ところが明治に入ると人口増加、経済発展の影響でごみ量が増加し、ついには家庭の生ごみも埋め立てられるようになりました。生ごみは腐るので、臭気が発生し、ハエやネズミなど害虫獣が巣食うことになります。当初は『溝下水ヨリ生ジタル汚泥』(当時の東京市発行の冊子より)でごみ層の表面を覆う方法(覆土といいます)で対処していましたが、海外から侵入したコレラ、ペスト、赤痢などの伝染病が相次いで流行したため、衛生上の観点からのごみ問題への対応が求められるようになりました。
こういった背景から明治33年「汚物掃除法」が成立、行政がごみ処理の義務を負う法的根拠ができました。この法律を受けた施行規則に『塵芥ハ可成(なるべく)之ヲ焼却スヘシ』(5条)という指針が示されています。
本来ならば専門の焼却場を逐次建設していくべきなのでしょうが、建設計画は付近住民の反対などによって次々に頓挫します。現23区に初めて建設されるには、大正13年まで待たなければなりません。
手近に焼却するなら、処分場に移送されたごみをその場所で燃やす手段があります。
これを「露天焼却」と呼びます。
現在の江東区塩浜にあたる1号埋立地(埋立期間:明治43年〜大正10年)から露天焼却が始まりました。現在の江東区潮見にあたる8号地(埋立期間:昭和2年〜昭和37年)までは、焼却場での焼却と平行して露天焼却が続けられましたが、昭和30年代前半には煙や粉じんに対する苦情が相次いだため行われなくなりました。
「夢の島」という通称で知られる14号地(埋立期間:昭和32年〜昭和41年)以後は行われていません。
露天焼却は野焼きともいわれますが、現在は、『廃棄物の処理及び清掃に関する法律』によって禁止されています。
1921年11月29日
渋谷発電所に勤務のドイツ人技師レ氏月給350円を頂戴して機械装置に汗みどろ 近く大大的に結果は発表
「関東大震災」まで稼働していた「渋谷発電所」
大正期の「東京市電気局」(現「東京都交通局」)は、市電の運行の他、電燈の供給も行っており、1911(明治44)年に前身である「東京鉄道株式会社」から受け継いだ3ヵ所の火力発電所を運営していた。そのうちの一つが「渋谷発電所」。1923(大正12)年の「関東大震災」で被災し廃止されるまで稼働していた。画像は1919(大正8)年の地図で、南東に見える発電所の地図記号が「渋谷発電所」。
1916年12月13日
新つるぎ号の墜落
 千葉県 海岸  井上中将は無事
 夏目漱石葬儀
1915年11月19日
ドイツ夫人の涙物語2 愛を失った夫人には愛児が生命
100円をゼルマの生活費として終生しおくること
をもって6月9日日本を、 後藤の令嬢栄子
1915年5月20日
 岸博士の起訴
岸一太氏の離婚訴訟
大正4年11月22日
岸一太氏は、医師から飛行機技師に転向し、「つるぎ号」を製作した人として名前が残っていますが、彼の離婚訴訟について、大正4年11月の読売新聞に連載が掲載されていましたので、記録として残しておきます。
(上記写真は、インターネット航空雑誌ヒコーキ雲さんよりお借りしました)
馴れ初めからドイツに帰るまで
医学博士岸一太氏は、ドイツ留学中にゼルマさんと出会い、岸氏が心を込めて求婚し、結婚することになりました。
岸氏は前妻との間に子供があることを、ゼルマ夫人に隠していました。
その内に夫人に発覚し、岸氏は「隠したのはあなたを愛するあまりだ」と答えています。
まもなく長男一麿が生まれましたが、夫妻は長男をドイツに残したまま、台湾に赴任することになりました。
岸氏は台湾で奉職中、当時の民政長官後藤新平に気に入られています。
その内に岸氏の愛情は冷め、岸氏はゼルマ夫人に離婚を迫ります。
ついに明治44年、岸氏は、
「ドイツに残しておいた一麿を教育するため、またお前がいれば十分な立身出世を妨げられる点があるから、ひとまずドイツに帰れ。こちらからは子供の養育費と生活費は必ず送る。」
と、公証人を立てて、
「ゼルマはドイツに帰って、子供の教育に従事すること。その費用として、岸一太は毎月30円を子供の養育費、100円を夫人の生活費として終生送ること。送金は毎月5日とする。その義務を怠れば、直ちに強制執行しても意義なし。
一太の収入が400円/月に達すれば、仕送りを120円とし、700円に達すれば130円とする。
ゼルマは6月9日に、日本を出発せねばならぬ。」
という文書を作り、夫人をドイツに追い返しました。
溜まりかねた夫人は、博士の旧師である金杉博士(*金杉英五郎、慈恵医大初代学長)に事情を訴え、金杉博士は後藤男爵や岸博士の態度を非難し、岸博士に忠告の手紙を出しました。
それもむなしく、契約通り6月9日、夫人は懐妊の身でドイツに旅立ちました。
ドイツ帰国後
ドイツに帰った夫人は、次男かづ太を出産。
一麿とかづ太の養育を行なっていて、岸氏も約束通りのお金を送金してきて、そのうち生活費を30円増額してきました。
ところが約1年を経過した大正元年10月に、博士からの送金が途絶えます。音信も取れなくなりました。
そしてその12月に、博士から離婚の訴訟があり、公示送達によって答弁の機会もなく、離婚の判決が下されてしまいました。
博士は判決が確定されると、新たに妻を迎え、ゼルマ夫人からの手紙に対して、何の返事もよこしません。
夫人はとうとう大正2年の7月、日本に戻り、執達吏に依頼して、滞納の生活費を強制執行します。
博士は直ちに異議の訴訟を起こし、この問題が表沙汰になりました。
裁判の争点
岸博士の主張
ゼルマは長男一麿を養育せず、他人に与えるとか売ったという噂があり、契約を誠実に履行していなかった。
よって契約を解除し、離婚訴訟を起こしたのである。
裁判が確定したため、証書に記載されている義務は消滅している。
ゼルマ夫人の主張
原告岸一太の主張は、不実、不法なものである。
契約を解除されたこともなく、一麿の教育も怠らず行なっていた。
原告が使用したドイツの探偵は、ドイツでは悪名高い探偵社で、全く信用の価値はない。
離婚訴訟は、ゼルマの不在に乗じた公示送達の方法で行われ、ゼルマは答弁の機会を得ず、形式上離婚された形になっているが、この判決を知り東京控訴院に控訴中である。
よって裁判は継続中で、離婚は確定していない。
これ以外にもドイツに帰って次男を生んでおり、それは岸も認め、岸の戸籍に登録してあるが、この次男に対する養育料は一銭も送っていない。
連載のまとめ
「この事件を皆さんはどう見るでしょうか、社会の判断を仰ぎます。」と、記事は結ばれています。
飛行機製作にお金が必要だったのか、医師会からの転身に、何か関係があるかもしれません。
 37:16. 2009年11月13日 17:27 投稿 … ドイツの文豪ゲーテが24歳から82歳までかかって書き上げたファウスト、それは古代ドイツの伝説である。多くの作家 …. CIAの罠にはまり親友を失った傭兵が、友の復讐を誓い、新たなミッションを遂行するアクション。 … 出演は「イントゥ・ザ・サン」のスティーヴン・セガール、「ブレイド2」のルーク・ゴス、「マルコムX」のロジャー・グーンヴァー・スミス。 …. 出演は新鋭のジョージナ・ケイツ、「クローズ・マイ・アイズ」「いつか晴れた日に」のアラン・リックマン、「9か月」のヒュー・グラントほか

新幹線祭 柿

2017年11月30日

11/27妙丹柿を配ろうと自転車で出かけると青山前で電池が少ないことに気付き、新幹線祭の中を帰った。バテリーを付替えしようとすると鍵が見つからない。駅前のコムスを予約し、大安寺東町より矢坂東町まで1時間程で配り終えた。1050円だった。28日の福島の電気自動車の試みをNHKがしていた。三菱i-MiEVだ。天井に太陽光パネルも取り付けいる。3時間500円と割安だ。
新幹線祭は毎年の北長瀬の行事だ。岸一太が飛行機を目指しいたのもわかる。
事前に申し込んだ家族連れら約7千人 (主催者発表)が写亭撮影や車両見学などを楽しんだ。
 東海道・山陽新幹線で2編成しか走っていない黄色い車体の検査車両「ドクターイエロー」や、人気アニメ「新世紀エヴァングリオン」のデザインをあしらった500系こだま号など5種類が会場に並んだ。子どもたちは、運転士の制服を着て先頭車両の前で写真を撮ったり、運転席や床下の機器を見学したりした。ラクター「カンセンジャー」のショーや点検時に使われる「レールカード」の乗車体験も人気を集めた。(山陽新聞)
幼少の子供連れの夫婦が駅より会場まで網がっていた。
植物は、自然状態では、毎年開花・結実する植物でもその量は大きく変化することがよくあります。なぜでしょうか?1つめの理由は、光合成での稼ぎと、最適な開花・結実の規模の関係の不一致があります。日本のようなところでは、ほとんどの植物は1年に1回花を咲かせ実をつけます。しかし、1年という時間が、植物の繁殖のリズムに最適なのかどうか、というのは別の話です。植物が花をさかせ実をつけるのには、いろいろな理由から、ちょうどいい規模、というのがあるような気がします。ちょっとしか花を咲かせなければ、花粉を運ぶ虫に見向きもされず花粉媒介がうまくいかないかもしれませんが、たくさんつけすぎると、こんどは虫が足りなくなって無駄が多くなるかも知れません。
1年の光合成の稼ぎと、1回の開花・結実に最適な光合成量に差があると、稼ぎを1年以上ためておいて、実をつけるは2年に1回でいいや、とか3年に2回くらいでいいかな、となったりします。しかし、なり年でない年も花が全く咲かないことはあまりありません。それは、植物がそんなにうまく開花をコントロールできないこともあるかもしれませんし、来年の開花まで生きていられるとは限らない、とか、稼ぎがあまるんだったらつかっちゃおうとか、いろいろな理由が考えられます。また、種子を食べる害虫との関係でも、コンスタントに種子を生産するのは、得策ではないと考えられています。不作と豊作が交互にあれば、不作の年に害虫の数が減るので豊作の年の種子を食べきれずに残してしまうかもしれませんが、コンスタントに毎年種子を生産していれば、毎年全滅させてしまうかもしれません。
2つめの理由は、不確定な要素がいろいろあることです。花芽が寒さでだめになってしまったり、花が咲いても咲いた時期に天候不順で受粉がうまくいかなければ、結実量が減ります。実が付かなければ、その分稼ぎを使う量が減りますから、来年の花や実の量はぐっと増えることになるかもしれません。結実量が増えた次の年は、木も疲れて、またぐっと減ってしまうでしょう。農家の方々は、毎年コンスタントに実がなるように手入れをされるのだと思うのですが、それでも変化してしまうのですね。あまり手をいれていない木では、その差はさらに大きくなると思います。
・隔年は、距離が離れた地域でも同期しているのでしょうか。同期しているならば、なぜでしょうか。
植物の種類や距離にもよりますが、広い地域でなり年が同調する現象はよくみられます。同期には、植物が積極的に同調させている場合と、天候など(上で述べた寒さや天候不順など)が広域で同調するために植物の豊作・凶作も同調する場合があります。後者については、あまり説明は必要ないと思います。前者については、次のように説明することができます。植物が花を咲かせるのは、花粉を交換するという目的があるのですが、たくさんの木がたくさんの花を咲かせていたほうが花粉の交換がうまくいく確率が高くなります。したがって、花が多い年と少ない年があるのなら、自分もそれにあわせた方が得なのです。また、上にのべた種子を食べる害虫との関係を考えても、豊作の年に自分もたくさん実をつけたほうがよさそうです。そのため、たくさんの植物で開花を同調させる仕組みを持っている植物がいます。たとえば、5月がとても寒い年には花を咲かせよう、とか、夏が暑ければ次の春に花を咲かせよう、というわけです。でも、同調のメカニズムはあまりよくわかっていません。
酒井 章子(京都大学・総合地球環境学研究所)
https://deraumafuyugaki.wordpress.com/2017/07/
虫害の場合
○「ヘタ虫」と言う害虫が発生すると、虫が付いた場合、6,7月の花芽期、また、9、10月に発生し、ひどいときは、ずべての実が「ヘタ虫」に負けて落下します。スミチオン剤の1000倍を、6、7月、9,10月に散布すれば、大丈夫です。カイガラムシの場合もあります。
強風、長雨の場合
○長雨で受精期の未受粉が起きます。柿の花は受精しなくても結実しますが、長雨で、花粉を運ぶ虫が飛来しない場合、実が未受精で、落下しやすくなります。
品種によって、雄、雌異株の柿も有ります。その場合、雌だけですと、近所に雄木があったものが、突然無くなった場合、突然結実しなくなります。
雌雄異株がどうか、確認してください。雌だけの場合、雄株を一緒にうえれば解決します。
○6,7月、9、10月に強風がありませんでしたか。未熟な実が落下した可能性があります。
人為的な場合
○昨年、収穫した時、実がなっていた枝ごと、もぎ取りませんでしたか。
柿の実がなっている枝の、先端から3,4番目が、来年実がなる花芽です。よく高枝きりバサミを使っている方で、このようなケースがみられます。来年の花芽まで切ってしまうからです。また、柿の木はおれ易いので注意してください。
収穫の際は、必ず、来年の花芽は残すよう注意してください。
○肥料過多
あまり、窒素が多い肥料をあげますと、地中の窒素が過剰になって、ある年、突然全く結実しなくなります。若木に多いケースです。カリウム、燐酸を主体とした肥料に切り替えましょう。
この中の原因の何れかだと思います。
わたしの家の柿では、そのような事は幸いにも有りませんでした。
今年は雨が多かったですが、実が大きい傾向にあります。
宜しく参考になさってください。
 多くの果樹は、子孫を残すために実をつけます。
土壌が良すぎれば、幹や枝を伸ばします。微妙な力関係があります。
逆に果樹農家の立場から、コントロールの術を記します。
柿は、前年に伸びた枝に、花芽をつける芽をつけます。
つまり、その年に伸びた枝に実をつけます。
前年に実をつけた枝には実をつけません。
また、ひこばえとかシュート=とちょうしと呼ばれる力強く伸びる枝も花芽をつけます。
この枝は、横に伸ばすように曲げれば、花芽をつける枝をつけやすくなります。
同じ場所からでる一番元気な枝は基から落とします。逆に細すぎる枝も落とします。
土壌が良いとシュートが伸びて、実は少なくなるのです。
シュートを切り、実のなる枝を伸ばすのです。2年目、3年目で実をとったら、基から切り落とします。
このように、主幹から3本ほど支幹を伸ばし、先の方でさらに2~3の副支幹を少しだけ伸ばします。
副支幹と支幹に実をつける枝を伸ばし、3年過ぎたら基から落とすのです。
全ての幹は、手の届く高さに抑えます。
次第に、副支幹まで、太くなってその先の枝が極端に細い(3年生位まで)形状になります。
強い風にも比較的強いのです。摘果は7枚前後の葉に実を一つ位残します。
実が多すぎたり、剪定が強すぎたりすると、柿は自ら実を落としてしまいます。『今年は、実は少なくして枝葉を伸ばそう!』とするのだそうです。6月頃末までは、要注意です。
では、どうするか?
概ね、何個の柿が採れたか、柿の木一本毎に記帳するのです。過去3年くらいの平均の実数+αを、当年の実の数として、摘果すると、妥当な数の柿の実が当たり外れなく収穫できます。α分だけ、終了は増加します。
収穫後と、春先の芽が出る前に、肥料を与えます。
  詳細は柿の施肥でググってください。
http://kakinosaibai.web.fc2.com/hiryo.html
  大粒の甘柿を生産するコツの一部を、私の尊敬する先生の教えを基に記しました。
干し柿用の数を頼みとする小粒の渋柿は、自然の伸びに任せてもよいようです。
 採果するときに、枝毎もぎ取り、翌年の花芽をつける枝数を、経験でコントロールしているようです。
施肥(肥料を与える)
肥料を与えるのは、開花中や生育中、実を付けるときと
実を付けた後(お礼肥)です。お礼肥として収穫後に乾燥鶏糞、油かす、化成肥料、硫酸カリの複合肥料を与えると良いでしょう。
また、柿はカリウムを多く必要とするため、8月末~9月に塩化カリを施すと肥大した甘味の増した果実が実ります。
一般的に植え替え直後には肥料は上げない方がよいとされています。
植え替え直後に肥料を与えると柿の木にダメージを与え傷んでしまうからです。
同じく、植物が弱っている時に肥料をあげるのも枯れる原因です。
植物が弱っているときに肥料を与えるのではなく、日の当たり方や水分などを見直しましょう。
 皆で芋ほりとピーナツを収穫、乾燥しているとN君が散歩の途中、手押し車を直してくれました・
写真 
1.駅模様
2.近所の富有柿
3.安穏芋

身延山久遠寺

2017年11月27日

10/20 浜松駅より大井川の先の島田駅に降りた。S君が車で待っていてくれた。早速静岡市に向けて走りながら聞く。奥さん看病して先立たれている。結婚式の時は参列させてもらった。町内会長の役職は終わったが、この日も、臨済宗のお寺の世話があると。
中心部の駿府城が近づく、赤い鳥居が目に入る。静岡浅間神社に今川館があったとの事。
南西の坤櫓から南東の巽櫓と駿府城の周りを一巡りした。
二ノ丸南東の巽櫓(たつみやぐら)が、1996年には東御門(櫓門)と続多聞櫓が日本古来の伝統的在来工法によって復元された。天守閣は無く公園として市民が楽しんでいる。この中が今川館跡と云われているようだが違うらしい。
静岡駅に送ってもらい身延線に乗る。駿河湾沿岸部から甲府盆地にかけて、富士山と赤石山脈(南アルプス)に挟まれた富士川の流域を走る山岳路線である。全線にわたり富士川の左岸(東側)を通り、本流を渡ることはない。北側は甲府盆地内の鰍沢口駅、南側は西富士宮駅付近まで地形が開けており、沿線人口が多い両端部での区間運転も多い。また中京地方以西と山梨県を行き来するには最も利用しやすい鉄道ルートで、静岡駅で東海道新幹線と接続する特急「ふじかわ」が運転され長距離輸送も担う。
見延駅よりタクシーで久遠寺に向かう。降りたところが奥の院へのロープウェイ乗り場だった。天候も悪く見合わせる。境内を回って行くと五重塔見え、納骨に桜の時期来た人がうらやましかった。
修行の集団が南無法蓮華教を唱えながら10組ほどあり壮観であった。
本堂前を回り報恩閣で先祖供養の祈祷のお願いをする。納骨の人がほとんどであった。
仏殿で10何名かが祈祷していただく。
また、タクシーで見延駅に戻り甲府に宿をした。
項中に650年前の日蓮上人直筆の曼荼羅があり、建治2年となっていて、何時土産に買って帰たか分からない。各家庭にある曼荼羅には和尚の名前と年号が書いてある。
日蓮は自らをイメージする宗教的世界を紙上に筆書した曼荼羅本尊を描き、礼拝、受持の対象として門弟や信者に与えたといいます。
鎌倉時代、疫病や天災が相次ぐ末法の世、「法華経」をもってすべての人々を救おうとした日蓮聖人は、三度にわたり幕府に諫言(かんげん)を行いましたが、いずれも受け入れられることはありませんでした。当時、身延山は甲斐の国波木井(はきい)郷を治める地頭の南部実長(さねなが)の領地でした。日蓮聖人は信者であった実長の招きにより、1274(文永11)年5月17日、身延山に入山し、同年6月17日より鷹取山(たかとりやま)のふもとの西谷に構えた草庵を住処としました。このことにより、1274年5月17日を日蓮聖人身延入山の日、同年6月17日を身延山開闢(かいびゃく)の日としています。日蓮聖人は、これ以来足かけ9年の永きにわたり法華経の読誦(どくじゅ)と門弟たちの教導に終始し、1281(弘安4)年11月24日には旧庵を廃して本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山妙法華院久遠寺」と命名されました。
武田信玄も隠れ湯に浸かりに来ていたそうだ。(納豆博士)
写真
1.本殿
2.修行団
3.報恩閣 右枝垂桜