Archive for the ‘市久’ category

矢坂山の城郭

2010年9月9日

矢坂山の城郭

 日本城郭全集に次のように書いてあります。

 永禄十一年(一五六八)、金川城を攻めた宇喜多直家は富山城をも陥れた。城は炎上し、城主横井土佐守は自害して果て、松田氏はここに滅んだ。

 永禄十二年、直家は富山城を修復して、ここに浮田忠家を居城させた。忠家はこの城を拡張し、野殿山城を西の出丸に、大野城を東の出丸とし、魚見山城には見張所を置いた。現在、残っている城地は忠家の時に築かれた城の縄張りである

 城壁があったどうかは書いてありませんが、もし完成していたら壮大なものだったでしょう。

 大野村誌には次のように書いてあります。

 平賀元義筆記に次の如く述べてある。『宇喜多直家岡山在城後播磨備中を手に入れし上は、御野郡富山城を本城とし、西川を二筋に分け、津島の下より分て今の用水上伊福の前より野殿ヘー筋を流し、一筋は津島川の下座主川へ落し、ザブと言う所より西へ今の矢坂の北の川筋より野殿へ流し、富山別所の山を取り入れて、大城とせん事を立てられしなり。たとい一二年籠城するとも、薪炭の憂なく、水懸りも能く究竟の城地なるべし。然る処、直家病死ありければ、秀家の代にも其の事思いけれども、朝鮮の軍の事につき延引なり、程なく家中の騒動ありて其ままさし置かれける所、関ケ原出来て、宇喜多亡びけるなり。大挙を直家思い立たれし事借しき事なり。此の城を築かん事の評議ありしを宇喜多の軍師穴田伊賀介語る』と

 現在の矢坂山を南から写し城を重ねた 

富山城の支城

2010年8月18日

富山城の支城
 神奈川県逗子在住の松田勝徳氏より富山城の支城について手紙がありましたので転載させていただきます。矢坂山山頂の富山城とともに野殿山城・大野山城・魚見山城も矢坂山城郭として松田の時代に築城され浮田忠家により再整備されたのかもしれません。 

 備前松田氏にとって、富山城と吉備津彦神社(備前一の宮)、吉備津神社(備中一の宮)は中世期最も重要な拠点ではなかったかと思われます。

 その一つ富山城は主要街道に面し、戦略上重要なポイントであり、備前と備中の境目としてまた旭川、笹が瀬川から瀬戸内海に通じる軍事上、交通上、交易上の拠点だったと思われます。

 また近くには八幡山城(松田親秀居城)、田益城(横井土佐守居城)、富原城(蜂谷氏居城)、高柳城、辻川城、野殿城など、富山城を囲む支城郡があり、関連する寺院や神社が存在していたと思います。

 室町初期に三備を巡錫した大覚大憎正に帰依する一方で、吉備津神社(備中一の宮)の社務としてまた吉備津彦神社(備前一の宮)へも積極的介入を回り、備前一国を他の在地領主よりも卓越した地位を獲得し、組織化して行ったのでは思います。

 備前松田氏成立のポイントは、まさに富山城を中心とする範囲に集約されると思われます。

 これからも富山城周辺の遺跡、地名、伝承など、一つ一つ積み重ねていく必要があると確信しています。 

「矢坂山開城2100年祭」2012年

2010年8月17日

「矢坂山開城2100年祭」2102年
 日本城郭全集によると次のように書いてあります。
矢坂山に城が築かれたのは、崇神天皇の十年(前八八)、四道将軍の一人としてこの地方に派遣された吉備津彦命が、この山に陣を置いた時に始まると伝えられている。
 信憑性はともかくとして矢坂山が記録上初めて登場します。当時は吉備の穴海の岩井島であり、後の万葉集にも島として歌われています。ただ地元の言い伝えとして矢坂山頂にある巨大な石を評定岩と呼び、吉備津彦命が「うら」を成敗する計画を練ったとされ、矢を射たことより矢坂山と命名したとつたえられています。
 時代が下がって、平安時代中期885年に富山重興氏により矢坂山山頂に富山城が築城され、1342年に松田元喬氏、1568年に宇喜田直家氏により本格的な山城となり、さらにその弟忠家により野殿山城・大野山城・魚見山城も整備され矢坂山全山が巨大な城郭となてゆきました。しかし、1615年に一国一条令により小早川氏により解体されました。
 2012年の再来年は、上記の記述より2100年目にあたり盛大に「矢坂山開城2100年祭」をしてはと考える次第です。
 イベントとしては、4月中旬実施とし①歴代城主サミット ②桜・ツツジの散策 ③四方の登山道より競争登山 ④石切り場での「うらじゃ踊り」「備中太鼓」「コンサート」 ⑤青空市 など考えられます。
 主催・共催者、実施案を募集します。

巨大な富山城の縄張り

2010年8月14日

巨大な富山城の縄張り
 富山城の城郭は矢坂山山頂付近のみとされていますが、富山城主累系の神奈川県逗子在住の松田勝徳氏が送ってくださった「日本城郭全集」パブリック/矢坂山http://cid-f21c182abf6c5b81.office.live.com/browse.aspx/.Public/%e7%9f%a2%e5%9d%82%e5%b1%b1?uc=1の富山城の項には次のように書いています。
 永禄十二年、直家は富山城を修復して、ここに浮田忠家を居城させた。忠家はこの城を拡張し、野殿山城を西の出丸に、大野城を東の出丸とし、魚見山城には見張所を置いた。現在、残っている城地は忠家の時に築かれた城の縄張りである。
 南よりも眺望できる巨大な城構えであり、岡山城ををはるかにしのぐ城郭となり、岡山城が平城のため兄の宇喜多直家をしのぐとして野殿に城を造ったとするのもうなずけます。浮田忠家は直家の死後、幼少の秀家の後見役として大阪に詰めて、実質上朝鮮出兵の指揮を執ったとされています。一説によると宇喜多の先祖は朝鮮王朝とされ、秀吉の意向に加えて、宇喜田が王朝の再建を目論んだとも考えられます。
 「大野村誌」記載の全山に及ぶ巨大な城郭と大野地区の町並み構想は、単なる夢物語と考えていましたが、着実に進められていたのかもしれません。
 忠家の子基家は常山合戦で流れ矢に当り亡くなりましたが、その弟は坂崎出羽守http://ameblo.jp/junichi54262001/entry-10549118384.htmlとして津和野城主になったことは有名です。
 野殿山城跡?

 

富山城主ゆかりの松田氏を囲む会

2010年8月7日

 

富山城主ゆかりの松田氏を囲む会
 8月2日(月)に神奈川県逗子在住の松田勝徳氏と香川県多度津の弟善徳さんが矢坂の北向八幡宮に来られました。佐藤芳範氏が電子町内会に松田屋敷について書いているのを見て、情報交換が始まり、このプログを紹介いただき、「矢坂山富山城跡」をお送りしていたところ、香川の法事の帰りにお寄りくださいました。
 「市久会」のメンバー中心に14人が集まり、午前中は松田勝徳氏の話と郷土史家の間野行治氏の話を聞き午後に松田氏縁の地を見学しました。
 松田家は神奈川県大井松田インター近くの松田庄に発し、備前には鎌倉時代の弘安8年(1285)に松田元保が伊福の郷を加領し、正慶2年(1333)に松田元国が矢坂に引越し居住し、松田元喬が康永2年(1342)に富山城を築いたと説明がありました。富山城の時代に備前に日蓮宗の布教に来た大覚大僧正を城に招き大論争の後、布教を許し備前法華として現在も生活に大きな影響を残しています。 
 元喬の子の元泰は文和4年(1355)に金川に本城を築き、9代元勝の時に玉松城と命名し、昨年命名500年に当たり500年祭が行われ記念碑建立と記念誌も発行されました。毎年4月に全国の松田家ゆかりの人たちが集まり「玉松会」が催されているそうです。
 備前松田が13代続いたのち宇喜多直家に滅ぼされ、高松城水攻めの前哨戦の冠山城の戦いに清水宗治の家臣として松田氏の名が登場したのち「讃岐松田」が成立するまで37年間の空白があり、そのあたりを解明することが今回の訪問の目的でもありました。
 間野行治氏からこの空白期間の調査結果や砂田と名を変え吉備津彦神社近くに累系が現在もおられる話しがありました。
 さらに平安時代中期に最初に富山城を作ったとされる北向八幡宮の宮司の富山氏とは、讃岐松田の3代目の元明が備前富山氏の娘を迎えるなど一方ならない縁があるそうです。
 午後は、久米の鉄鋼団地ないにあったとされる松田屋敷跡を訪れ、境目川の東と推定されますが発掘調査されないまま鉄鋼団地が立てられたため場所、広さは特定できません。さらに中世備前法華信徒が東国日蓮宗三本山に旅立つ港として使った今保港を見ました。今でも船着場の名残をとどめ、隣には題目石や大賀邸がありました。
 吉備津彦神社ではお田植え祭りでにぎわっていました。そこを少し西に行った山麓に松田家と砂田家のお墓が混在してありました。間野氏によると備前松田の系図があり、近所に住まわれているそうです。
 辛川の180号線交差点の西土手を少し登ったところに、大覚寺があり題目石は本殿の中にあるとかで見れませんでした。
 続いて、高松城の北の足守地区にある冠山城を遠望し、高松城跡を訪れました。勝徳氏は父親と20年前に訪れて以来とかで、先祖が讃岐に渡前の軌跡を偲ぶ思いであったでしょう。資料館は月曜日休館で、冠山城の資料はお見せできませんでした。
 再来年の玉松会は富山城跡を訪問することを企画したいとの申し出があり市久会でも楽しみにしています。
 
 

松田屋敷跡今保港跡松田(砂田)墓地大覚寺高松城跡

納涼ビャガーデン

2010年7月25日

納涼ビャガーデン
 7月24日(土)17時より白髭宮に集まり、焼き肉と生ビールの準備を始めました。北長瀬駅北水路に浮かべた川舟の上で行うことも検討しましたが、舟の揺れに弱い人がいて中止となりました。吉備土手下麦酒醸造所より生ビールとリザバーを借りて来て試飲しようとすると、泡ばかり、夏場は4時間前もって運転して冷やしておく必要があるとかで、急遽氷を集めて冷却槽に入れ冷やし始めましたが、泡8:ビール2と「慌てて泡をくう」と言った状態でした。後半になって半々と言った状態でしたが生ビールならではの美味しさでした。何回とすると本格的なビャガーデン並みになるでしょう。
 バーベキュウは美味しい肉や野菜がたっぷり用意され堪能しました。
 8月2日(月)に矢坂山の富山城主の子孫の松田氏(神奈川県在住)が北向八幡宮に来てくださることになり、その縁の地を案内することやその関連情報で盛り上がりました。
 後日聞いたところによると1人帰ってから熱中症にかかり冷やして事なきを得たとかで、19時頃よりはじめら方が良かったと反省しています。

曽平治屋敷2

2010年6月18日

曽平治屋敷2
 3月18日に北長瀬村に曽平治屋敷の屋敷図について書きましたが、郷土家の間野行治氏が、その屋敷跡と思われる付近で「穐山曽平治」のお墓を見つけました。穐山曽平治と秋山曽平治の2対の墓が押しやられるように帝釈堂の傍に立っていました。さらに岡山大学図書館の池田家文庫を調べましたところ「奉公品書」にその名前の文書が見つかりました。明治2・3年頃のものでお墓はそれより古く「曽平治」は送り名と思われます。屋敷のあった年代は特定できませんでした。