Archive for the ‘地域’ category

操山ウオーク

2013年1月14日

P1050817 P1050836 P1050846 P1050848 P1050852 P1050855 P1050859 P1050861 P1050869 P1050879 P1050886 P1050892 P1050903 P1050907 P1050910 P1050920 P1050922 P1050924 P1050926 P1050609 IMG宇喜多_0001-2 P1050619岡山歴史研究会の歴史探訪の操山ウオークに参加しました。操山里山センターに9時に43名集合、今回操山ボラインティアガイドの古墳と神社仏閣の上原、野崎顧問さんの2名に主として案内いただきました。まずセンター内で会長挨拶とスッタフ紹介、上原顧問の操山について簡単な説明がありました。
10時15分に恩徳寺に向けて下る。右手に大師堂があり、両側手は池田の殿様が舟遊びをしていた池だったと説明を聞きながら石造の太鼓橋を渡り、正面の鳥居をくぐると、山門には舟の戸板を外し保存しているのが見えた。恩徳寺は750年に僧行基が創建した真言宗の寺院。太陽の道上にある。本堂の裏に稲荷が祀れている。本堂の縁の腕木庇にはキツネの彫り物が見られ、天井には方位計が描かれている。奥に入ると江戸時代に書かれたミシンが描かれた額絵があり、天井には薬師院である多数の薬草が描かれていた。また本堂の裏の小窓から稲荷を拝観した。本尊は60年ごとで最近開帳したばかり。境内で岩田会員にウオーキングの本格的な安全祈願をしてもらった。2月1日には火渡り行事がある。
柿畑を抜け明禅寺城跡へ急勾配な坂道を上がった。先立つは落ち葉を熊手で掃除してくれた。城跡に近づくと割って落とす戦石が見られた。明禅寺城は東に8km離れた宇喜多直家の沼城(亀山城)の出城として築城し、翌年には備中の三村勢に占拠され、直家は奪還を果たすと共に三村軍を迎え撃って完勝し、その大勝ぶりが明禅寺崩しと呼ばれた。奪い取られた原因は直家の弟の忠家が福岡の女郎との寝夜の時情報が漏れたことが判り、それを逆手に取り郎党がその女郎と懇ろとなり、明禅寺城が奪い帰されたことを4時間後に狼煙によって知った為、2万の軍が引き帰すのに混乱し、宇喜多は5千に兵にも拘らず千丁の鉄砲により逃げる兵を背後より撃ちまくり16000人の死体が無残に野に並ぶことになった日本歴史上残虐な戦いとなった。実に、永禄5年(1562)だから信長の長篠の戦の13年前、鉄砲種子島伝来の15年後となる。この戦いのそもそもの原因は、直家が三村の娘に惚れて申込みをしたのに見下され断られた遺恨から始まったと語れている。
城跡からはこの悲惨な合戦のあった岡北地区、半田山が一望できる。馬場と呼ばれる広場と磐座があり、この磐座に一部が恩徳寺稲荷の横に移されている。ここを出て少し進んだ所に、切掘りがあった。
操山方向に330m歩き、急な階段を190m登って萩の塚古墳に着いた。操山の古墳100基の一つの円墳(φ10×H2.5m)で、横穴式石室(L8.2×W1.9×H1.9m)も持つ6世紀後半の家族墓でした。
215m旧坂を下り、つばきの森のあるふれあい辻を通り330m歩いて12時半ごろ旗振台古墳・展望所に着いた。旗振台古墳は5世紀後半の27×4mの方墳で、剣、メノウ玉など多数出土している。ここで江戸時代に大阪の米相場を京橋に旗を振って知らせていたことにより名前がついた。今は操山も雑木林だが燃料の薪の採取により禿山に近く見通しが良かった。展望所で昼食を食べ、児島半島、児島湾、百間川河口の岡南地域を見ながら、高島の神武天皇の行宮、沖新田、一~九番の由来など説明を聞きました。(続く)

万成山散策

2013年1月8日

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笑岩、怒岩(古岩竜王)

笑岩、怒岩(古岩竜王)

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妙見山神社

妙見山神社

出かけようと庭に出ると十数羽の鳥が飛び交い囀りが騒がしかった。足音がするとすぐ逃げる。柿木、高野槇などの枝を百舌鳥、鳩、その他色々。

矢坂東町の法照寺横に車を止め、岡山市貯水場のチェーンの直ぐの所を右に入ると土肥経平一族の墓地がありました。土肥経平は備前軍記など書いています。土肥家は鎌倉御用人を祖とするといわれ、池田家の代々番頭役を世襲していたが、明和元年(1764年)に蟄居を命じられ子に相続しこの地に竹裡館(ちくりんかん)を建て隠居しました。改めて吉備群書集成第三巻「備前軍記」を紐解くと五巻に戦国時代一六〇年間の戦記を克明に記しています。また付録には黒田官兵衛にも簡単に触れていました。

貯水池のゲートを抜け右に上ると山土が露出した所があり、それを突き進み少し行くと「古岩竜王」に着きました。笑い岩と怒り岩があり、神社があったようです。一反程度の広場になっていますが、「天籟の広場」の案内板の意味は分かりません。

鉄塔まで戻り、万成山の山頂の北向八幡宮があったと云われる「カエル岩」に向かいました。ここから旭ヶ丘病院上の「北向観音」、と行っても岩に刻んであるだけです、まで行き、戻り道を左に降り(カエル岩を降りた所)る、と乳岩がありました。巨岩に日蓮宗のお題目が刻んでありましたが、なぜ乳岩と云われるのか判りませんでした。

古岩竜王に戻り、「かわず岩」に降り、この道を辿ると関西高校に降りるところ右手に辿ると西崎の妙見山神社に降りてきました。

昨年歴研が探訪会で案内してもらったコースですが、疲れて見なかった所もあり散策して見ました。万成稲荷神社の磐座は分かりませんでした。

矢坂山に案内板

2012年3月27日

3月24日に矢坂山に3名で登り案内板を設置しました。公開は4月8日の玉松会の予定です。前日の雨と一変して晴れ渡りましたが春一番か風の強い日になりました。矢坂本町の鯉が池の下まで車で登り、そこから資材・道具を山頂の富山城跡の2の丸跡まで担ぎ上げました。駐車場の登り口にT組が移植した桜が雨で地盤が緩み倒れていました。帰りには完全に横転していました。  前もって張っておかなかったのが悔やまれるのですが、ベニアパネルにA-1に伸ばしラミネートした城跡の絵図(玉松会で彩色)と矢坂山の登山道の地図を裏表にボンドを周辺に塗りホイッチキスを打って張りました。 数年すると色が消え見えなくなるかもしれません。二の丸の入り口付近に南北に設置することとしてくい打ちをしました。少し南に傾いたようです。それに4.5cm角のアルミ支柱を立て、ビスで止めたわけですが思いのほか穴が合わなく固く手間取りました。公開日まで傷つかないようシートで覆って、12時までかかりました。  地図については種々議論がありました。原図の適当なものが無く拡大すると荒くなって読みづらくなりました。山頂に富山城跡を重ね合わせたため雑然となりました。矢坂山が読みづらくなり、逆に野殿山、大野山が目立つことになりました。大野山については魚見山と矢坂山を含めての名称とか、南より見た名前とか意見があります。大野村に由来する名前なのですが、尾根の一つとして名前を記し、たとえば法事古墳は魚見山と大野山の谷間にあり大野山の山道より入れるなど案内しやすいのではないかと考えています。大野の名前自体が消え失せて行くと残念がられる古老が増えています。史跡の名称については古より地元で呼ばれるものと外から来られた方が付けられた名前が交錯しています。コウノ岩も少なくとも三か所あります。地元ではコウノ鳥が巣を作っていたからとされていますが神の岩が通説です。愛称、あだ名など面白い呼び名があっても良いと思いますが。行った人が名前が分からず勝手に付けた名前が世間で流布する場合は多いのではないでしょうか。ましてや昔の名前が忘れられ新た名前が付けられる事例は多いです。矢坂山は地元では甲山と呼んでいたようです。  いずれにしても案内板を設置してほしいとの意見は多いのですが、登り口ごと、大安寺駅、北長瀬駅など候補は多いのですが山頂にとりあえず設置しました。ご意見を聞きながら改善してゆきます。

魚見山の火事

2012年3月20日

9時前に車で出かけ、野山変電所裏に止めてゆっくりと登りました。前回に比べてロープも余り使わず楽に上りました。途中で横に伸びた松があり逆光で幻想的な風景でした。野山こうの岩辺りまではツツジは疎らでしたが、野山見晴台にかけて群生していて西バイパスから見えるのではないかと思えました。変電所上の落ちそうな岩が目標のようです。この岩まで上がると変電所裏の鉄塔50m程度より中々上に行かなかったのですがやっと下に見え始めました。見晴台から鯉ケ池城跡(仮称)までツツジの群生地が続きます。矢坂本町への分かれ道の途中にあります。2番目の鉄塔の方から入ります。鯉ケ城跡は異義があるようですが尾根に100~200㎡の石垣のある人工的の均された場所であり、富山城の水の手の鯉ケ池の守りと、笹が瀬川を挟んで吉備津彦神社が対岸にあり、砂川も見られ水運を監視する場所と備中の守りとしての役割の城ないし砦があても可笑しくない立地と考えられます。少し早かったですが11時ごろおにぎりを食べました。先日のRSKラジオで霧島ツツジが有名で観光客が多いが、岡山のコバノミツバツツジは更に素晴らしいと語っていた。日照と少雨、乾燥土壌の条件に矢坂山は自然条件も揃っています。 また引き換えしすべり山を通って魚見山方向に歩を進めました。3月13日に山火事がありヘリコブターで放水して大事に至らなかったとのことでした。魚見山の裏手で西斜面が約300㎡ほど焼けていました。タバコの投げ捨てではないかと云われています。松葉に火が付きやすくシダ類は下の枯れた葉を伝って延焼し易いそうです。 大安寺へ降りることにして、途中で野殿こうの岩に寄りました。磐座研究者によると「方位岩」と呼ぶそうです。その岩のよく見ていると後方の岩に念仏を掘った後ではないかと思われる痕跡がありました。 麓の竹林を通りましたが竹の子はまだのようでした。午後2時前に帰宅しました。

矢坂山の自然

2011年3月21日

矢坂山の植物調査から

 「しぜんくらしき」倉敷市立自然史博物館友の会http://www2.city.kurashiki.okayama.jp/musnat/tomohome.htm76号(2011.3)に「矢坂山の植物調査から」が掲載されています。

その中で紹介されているミヤマウズラは、林床に生える小型で常緑の多年草。岡山県南部では比較的普通だが、荒れた二次林にはあまりなく、よく発達したアカマツ林、もしくはごく最近まで立派なアカマツ林だった林分に散見する。地形的には、急傾斜地には分布せず緩傾斜地に生育し、尾根筋の平坦な面に見かけることが多い。
 葉は長さ3-6cm、幅2-5cmで、丸っこい印象を受ける。葉の表には白い斑が入っており特徴的で、一度見れば忘れないだろう。ただ、特に日当たりのいい場所などでは、白い班が不明瞭になることもある。根は太く、数が少ない。根は横に伸びて、近くに新しい株をつくるので、何株かまとまって生えることが多い。生長はゆっくりとしているようで、多量の落葉が降り積もると埋もれないかと心配になってしまう。http://had0.big.ous.ac.jp/students/zemi03/oota/index2/kenindex2.htm

探して見ては如何でしょうか。


矢坂山固有のの三つ葉ツツジが4月はじめより咲き、中旬には満開となります。これからにシーズン多くの植生・花を楽しみしましょう。

 

「富山城跡発掘調査の思い出」講演会

2011年3月13日

「富山城跡発掘調査の思い出」講演会

 3月12日(土)大野コミュニティーハウスで元岡山市教育委員会文化財課長の出宮徳尚先生に話していただきました。会場は満席で60名近くとなりました。平安時代に築城したとする富山氏の話から始まり、松田氏、宇喜田の話がありました。本丸に関して、礎石からして松田氏の頃は、平屋だったのに対し、宇喜田の時代に入ると2層の土蔵造りで一部櫓ががあった考えられるそうです。さらに、発掘品として鉄砲玉、火薬調合用石皿、黒、朱2色の硯などが出ていて、軍備と共に行政執務も行われていたことが伺えるとのことでした。抹茶茶碗の出土から生活の匂いが伺われます。当時は分からなかった湯殿(風呂)もあったようです。

 

「富山城祭」のぼり旗

2011年3月1日

「富山城祭」のぼり旗

 矢坂山中心に大野学区を盛り上げるため「富山城祭」ののぼり旗10本を作りました。北長瀬駅前・大野コミュニテーハウスに立て、矢坂山の富山城跡への上り口4箇所にも立てる予定です。3月12日午後大野コミュニティーハウスで開く富山城跡の発掘調査に関する講演会以外に具体的催しができているわけでは有りませんが、4月2日桜祭り、4月16日ツツジ祭りを計画しています。