〔村芝居〕熊田恰~武士道を貫いたラストサムライ~


熊田恰矩芳と玉島

  (くまたあたかのりよし1825~1868)

 幕末から明治維新へと変革の時代に、備中松山藩領(高梁・玉島)にとって忘れてはならない出来事の一つに玉島事変があります。

 慶応4年(1868)正月。冒は備中松山藩主板倉祕誣の護衛隊長として大阪城に詰めていました。

 1月3日鳥羽伏見の戦いが勃発、幕府軍は大敗し、大阪城にいた徳川慶喜、勝静らは江戸へ逃避します。恰は勝静の帰藩命令により隊士達と悪天候の中、海路玉島まで帰ってくると、朝敵となった松山藩は討伐令を受けて出陣した備前岡山藩に恭順の姿勢を示し、城の明け渡しを約束したところでした。

 恰たちが帰ってきたことにより。玉島も岡山藩兵に包囲され、今にも戦になるのではという危うい状況の中、恭順謹慎の姿勢を貫き、1月22日、隊士達の助命を嘆願し、松山藩全ての責任を一身に負い、西爽亭で恰が切腹しました。これにより玉島は戦禍から救われ、松山城の無血開城も完遂され、現在に至っています。

 玉島の人々は崇敬の念を込めて、羽黒神社境内に熊田神社を祀り、高梁でも八重垣神社境内に熊田神社を祀り、隊士達は、道源寺に祀られている。恰の墓前に好鍼と大旱呆菻を寄進しました。

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