忍者の働き方


労働環境の改善は、企業だけでなくいまや国全体に関わる課題です。
安倍晋三首相は2016年9月、内閣官房に「働き方改革実現推進室」を設置し、働き方改革の取り組みを提唱しました。
働き方改革を推進するための関係法律の整備に関する法律案(平成30年4月6日提出)
• 概要
• 法律案要綱
• 法律案案文・理由
• 法律案新旧対照条文
野党の反対もあり中途半端な法案となっている。
• プロフェショナルな忍者の働き方を考える。
旭川の生成と古代吉備平野  矢吹壽年によると現在からは、考えられないような自然の営みがあって、その後の自然の営み、人類が岡山の地にやって来て、その足跡が確認できるのです。素晴らしいと思いませんか。私は1940 年の生まれで、今年74歳となります。生まれは戦前派ですが、育ったのは戦中派、小学校に行く時は戦後派の筆頭でした。
第二次世界大戦の、前とあとでは歴史の把飽く、感覚が異なります。米国を主とする、国際連合軍の日本民族の報復を恐れる気持ちが、一番の原因だろうと思いますが、これは現在も存在するようで、日本の敗戦後、何年になりますか、米国のアジア戦略の好適地として沖縄の基地提供が続いています。政府は米国と親密に交際できることで、政権維持を図っていますが、所詮、米国人とは一戦ある事は避けられないことを認識しておかねばならないと思っているものの一人です。牧石宗谷山から南 旭川下流を望む(筆者提供)
ところで、この旭川が仕出かした、岡山の平野化と河淵の抉(えぐ)りは、その後の備前平野の歴史と関係があるのです。冒頭に、歴史観の変更、交替があったことをお話しましたが、それまでの歴史を教育する根本に、以前と変更があったようです。戦前の軍国教育、皇室敬体の教育は改められ、民主という名の無圧、自由主義が蔓延したように思います。
• そんな中で、小学校の学区外で夏期の郷土歴史講座が開かれ、資料の内容は戦前の御津郡地図の裏に書かれた、戦前から知られた遺跡の案内でしたが、古墳の案内や、説明が少し変わっていたように思います。前方後円型古墳が意識され、この形の古代の墓は日本に限られ、その古墳が吉備中山の茶臼山と呼ばれた御陵であり、尾上のギリギリ山と呼ばれた車山古墳、松尾の旧馬屋小学校の裏山の飯盛山古墳であったと思います。
この時スタッフの中に居られた佐藤勲先生が、その後中山中学校に赴任せられて、授業は英語の文法であったように思いますが、当時は前方後円墳といわれていた辛川市場の中学校敷地の校舎裏の丘を発掘したことがあります。前方部に当たる辺りの現在、東側からの石段を上った辺りに、円筒埴輪を掘り出して,前方後円墳であったと話されました。
市編入当時の大野村見取図(大野村誌より)その佐藤先生とは、地元のボーイスカウト団の指導者でもあり、後に町教育委の職員となった私とも関係ができたのです。その佐藤先生が退職後、「目で見る。あけゆく郷土」(岡山市御南地区)という郷土誌を昭和63年に書かれました。知人を介して購入し、その後何度か先生の記録からから読み出したことを、私の講座で披露しましたが、その内、少し考えを改めなければならないことに気が付きました。大野村誌に巨大な河口湖というか、池があって、これが古代の笹ヶ瀬川で、野殿地区は津高郡に属していましたが、明治22年の町村制施行に際し、合併、大野村と名称を整えて発村します。
「どこで生まれた桃太郎さんは?」

岡山市はいま「桃太郎のまち岡山」をかかげ、また「岡山桃太郎空港」の愛称も新しく生まれました。ここ100年の間に名物吉備団子の存在もあり、岡山はすっかり「桃太郎伝説地」として全国の人々に親しまれています。
ではいつごろから言われるようになったのか、その発端はなにか、誰がいいだしたのかそんなことを考えてみたいと思います。
また桃太郎の伝説地と主張するところは岡山だけではありません。どんなところがあるのか映像で紹介しながら桃太郎はどこで生まれたのか考えてみます。
<紹介予定DVD>
1. 難波金之助の「桃太郎の史実をたどる」
2. ②桃太郎三大伝説地「高松・犬山」
3. そのほか桃太郎ゆかりの地
4. ④絵本などに描かれた桃太郎
5. 挑太郎を世界ヘー小久保桃江-
桃太郎については私も研究者ではありませんので、皆さんには物足りないかもしれませんが、「なんで岡山がももたろうなの?」と言うことなど知っていただければ幸いです。(古川)
• 富山城・石井寺から高松城水攻め
  一矢坂山周辺の文化財-
はじめに
1.矢坂山周辺の原始・古代
 ①集落遺跡と貝塚
 ②古墳
  津倉古墳と青陵古墳
  矢坂山の古墳群
2.謎の古代寺院「石井廃寺」と荘園
①石井廃寺
石井廃寺は奈良時代に創建されたとみられる寺院で報恩大師開基伝承のある備前四十八か寺のひとつ。吉乗山(吉祥)石井寺もしくは石井山吉祥寺などの名が残る。寛文6年(1666)池田光政による寺院淘汰により廃寺となる。寺域は現在の妙林寺一帯であったとみられる。
末寺に(万成村)正雲坊・自正院(島田村)住林坊、(上伊福村)福立山宗蓮寺教音坊・常林坊、(西崎)知仙坊、(高柳村)実相院などかある。
3。松山長昌寺地蔵石仏
 花白岩の自然石に花頭窓風に寵部を彫りくぼめ、半肉彫りにされた地蔵菩薩立朧で右手に錫杖、左手に宝珠を持つ。室町時代の応永10年から九年の歳月をかけて彫ちれたもめ。本来は現在地の上部にあった磨崖仏であったと言われるが、天保7年、(1836)の大地震で転落し横倒しになったものを、岡山藩から滑車を借りで引き起こしたとの伝承がある。
しかしながら、天保フ年には大地震の記録が見当たらず、台風などの風水害で転落しだ可能性が指摘されている。         ヶ
    銘文 右「松山長昌寺応永十年(1402)四月廿四日始]
       左[同十九首夏十三幹縁長昌上人記]
4。富山城と戦国の争乱
富山城は矢坂山山頂に築かれた連郭式の山城で総延長300mにわたって、中心郭が南北に連なる。昭和42~43年(1967~1968)発掘調査される。
発掘調査で大きく時期に区分されることが明らかとなった。
 第1期 明応・永正年間(1491.~1521)頃
     有事龍城型の中世山城
 第2期 天文年間後半(1550)頃~永禄!O年056フ)
     小規模々石垣や一部に瓦葺建物のある戦国末期の山城
 第3期 宇喜多期 永禄H年(1568)~慶長5年(!600)
     石垣や土塀を備え瓦葺の建物の建つ本格的な近世的な山城
応仁元年(1467) 松田元隆 富山氏から城を奪い居城とする松田元成 金川へ
文明15年(1467) 松田元隆 富山氏から城を奪い居城とする
文明17年(1483) 福岡合戦で元親戦死 親家が城主に
応6年(1497)   備前国守護代浦上宗助(三石城主)に攻められるが撃退
永禄11年(1568) 松田氏宇喜多直家に滅ぼされる 直家の弟忠家が城主に
天正7年(1579) 毛利氏備前国侵攻 宇喜多忠家備前備中国境で撃退
慶長4年(1599) 忠家の子左京亮信顕(坂綺出羽守)家中騒動により出奔
慶長6年(1601) 小早川秀秋により廃城となる

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