岸一太の山陽新聞記事


1890(明治23年)8月29日
関西高校の前進の岡山薬学校に通学当時か?
提籃の需用
御野郡大野村大字北長瀬なる岸一太氏は同郡鹿田村大供にて組提籃と筵提籃を製造し神戸商館に見本持ち行き売り口を求めたるに非常に称賛を得直ちに1万個の注文を受けたるを以て支那豪州等夫々向口の品を製造中なるが当今は其の職人の少なきに困るほどなりといふ盛んに製造するに至れば輸出品の一部に数えらるに至るべしとの事

1912(明治45)年6月2日
関東軍督府技師兼満鉄大連病院長を3年した後、帰国し東京に上京する前であろうか?
@医学博士岸一太君に与う
岡山医学専門学校学生同志委員
合田 獃成

進んで足下との会見談と右演説を対のんに足下の演説には委貝の述ふ所大部分之に賛同する能はざりきと是れ何の言はりや委員が意見を述べるや始め足下は此の問題を以て学生のなす可らざるのなりと云ひき然れども論戦の結果吾人が誠心誠意に足下を説破して学生としてなすも可なりと明言せられたるにあらずや論議の結果吾人の取れる所凡て善を尽くせども只そ形式に於いて聊か暇ぐる所ありとに所論一致したるにはあらずや然らば何を以て足下が大部に賛同する能はざりきなと云い得るや吾人怪牙訝の念に堪えざるなり、又足下の言の此形式の足らずるなを補ハ、然らば、吾等の同志超えたといはれたり而かも演説には其の補足の事たる期しがたき事、実なりと云はり初より出来ざる相談と知りながら之勘むることは何事かりきや、誠に不親切も甚だしく苟も後進の者を指導する紳士の態度と云ふを得べきか、実に言語同断なりと云はざるを得ず。
足下は専ら勉強のみをする以て足れりと只此の一言を以て俺掩ひ去らんとす。
此の消極的行動をのみ学生の半分となすは出理に眛菖思想のみ事苟も自己の利害問題にして又学校に発展に間する事あらば其の向上発展を期して起つは元より当然にして又此の進取的元気こそ青年の至実なれ然れども其常軌を達せる行動ある可らざるや勿論なり。
道辻説をなすものあり岡山医専向上を欲せざる某氏上京して盛んに此運動に向て幾就若くは防塵を加へんとし各方面に其の方法を講ぜり。而して其の結果足下も亦。その確認中の一人となりて之れが阻害に供与するに至れるなりと吾人直に是直に之れを信ずるに能はらずと蹴も又以て全く之れを否定し得ざるなり内にとなれば吾人と会見の結果足下は其の足らざるを補へ然らば助力せんと唱え(学生してなすの不可ならざるは勿論)且学会の為にには1ケ年2千円を支出うる事となし居れり故に必要の場合奮って義援金をもないこの問題の発展を計らん前日に壮語しながら翌日は早手拿を翻すが如く前言を食むに於いては其の問何ら等の消息ながる可らず、世間性々足下の人格に就いて云々するものあり果たして然らば吾人足下の為に之れを悲まずんばある可らず、
吾人の足下の演説を聞きて一言を發せざりし所以のものは之一に
先輩に対する道を思えばのみ其の不遇の言を聞きながら之れに堪えざる可べかららざりしが吾人の心事実に熱涙を飲むの概あり切歯せざる能はざりき然るに足下は東部にありて頻りに足下は東部にありて頻りに足下の辨を以て吾人を説破して遂ひ反したたるなりと得々然たるものありと是れ吾人を悶着せざるものなり吾人同志会の宣言書には苟も此の問題に向かって阻止を加ふるもの対しては相当の防御を施し絶対に排斥するの手段を講ぜざるを得ずと宣せり茲に於いてか吾人又止まる所を知らず本書を呈して足下の回答を聴かんとするのみ。
(完)

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