浜松 気賀 大河ドラマ直虎


10月19日にのぞみ4号で名古屋に行き乗換、豊橋で東海道線に乗換て、新所原で降りて天竜浜名湖線で気賀へむった。新所原ではウナギの匂いがして食べなかったのが残念だった。天竜浜名湖はンマン運転の列車が各駅停車で運転される。単線かつローカル線であるために、完全な等間隔運行ではないが、昼間はほぼ1時間に1本の割合で列車が運行されている。全線を通して運転される列車のほか、天竜二俣駅発着列車、朝夕には掛川駅 – 遠州森駅間・天竜二俣駅 – 宮口駅間、金指駅 – 新所原駅間、夜間には掛川発金指行きの区間運転列車が設定されている。
12番目の気賀駅では大河ドラマの幕が多く飾ってあって駅舎もの改札口も木造で歴史を感じた。
ローカーに荷物を置き大河ドラマ館に行くと大勢並んでいた。
切符売り場に行くと龍潭寺行のバスが直ぐ出るので先に行く。
『井伊谷城主である22代直盛の一人娘として誕生。直盛には男児がなく、従兄弟の23代直親を娘の許嫁として家督を継がせる予定だった。ところが直親の父親が今川義元に殺され、直親の命も狙われたため信州に身を隠させたが、幼き直虎は直親が死んだと思い、自ら出家し次郎法師と名乗り、生涯未婚を通した。
その後成人した直親は井伊谷に戻る。しかし直盛の戦死と、直親の殺害により、井伊家は存亡の危機に直面。龍潭寺の南渓和尚の計らいもあり、1565年、井伊直虎と名乗り、5歳の虎松(24代直政)の後見人として、政治手腕を発揮し、井伊家を支えました。
1575年、15歳に成長した直政を、浜松城主の徳川家康に出仕させ、見事に井伊家の再興を果たします。』
龍潭寺に着くといきなりバス降りる人が赤い血を出しいて救急車を手配した。
観光バスも危ない。
龍潭寺の寺伝によれば天平5年(733年)、行基によって開かれたとされ、当初の寺号は地蔵寺であったが寛治7年(1093年)に井伊共保が葬られた際にその法号から自浄寺と改められた。
平安時代から井伊氏の菩提寺であったとされる。元中年間(1384年 – 1392年)、宗良親王(後醍醐天皇の皇子)がこの寺を中興したともいう。
戦国時代の永禄3年(1560年)に戦死した井伊直盛がこの寺に葬られると、直盛の法号から龍潭寺と改められた。ちなみに龍潭寺のある井伊谷は井伊谷川と神宮寺川が合流する流域にあり、水が豊富にある。龍潭寺の「龍」は水神の龍でもある。直盛の死後井伊家の当主となった井伊直親、直盛の娘で直親の死後の永禄年間に井伊家を取り仕切った井伊直虎の墓もあり、直親と直虎の墓は隣り合っている。
 井伊家伝記によると、小牧・長久手の戦いにおいて井伊直政が先手大将として出陣する際に、寺に伝わる「日月松有之金銀の扇子」を陣扇として授けたとされる。
関ヶ原の戦いの戦勝にともない、井伊氏が近江国に転封となってからも井伊氏の外護を受け、江戸幕府からも朱印状を与えられた。』
雨中をカッパを羽織って山門に登ってゆく。
庭園は高梁 頼久寺と同じく小堀遠州作だ。
元祖 井伊共保公より24代 井伊直政公までの墓地が境内奥にあった。
元祖共保公出生の井戸も見物した。
おんな城主 直虎 大河ドラマ館は、閉館間際でもあり、撮影もできず素早く見て出た。
気賀に帰り、遠州バスで浜松に行く。これが随分時間がかった印象だった。
浜松駅のロータリーは正十六角形の円形バースで乗り場が16番まであり、大きく、付いた場所からタクシー乗り場が分からず、駅前の東横インなのに苦労した。
周辺企業が多く静岡市より発展している。
 中野君によると龍潭寺の和尚が熱心に大河ドラマを働き掛け実現した。彼の家は浜松にもある。
写真
1.小堀遠州庭園
2.丈六の釈迦牟尼仏
3.直虎甲冑
4.元祖共保公出生の井戸 

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