美し国三重・津歴研大会


https://www.youtube.com/watch?v=nODVdouWXNM
第一日目 式典・
記念講演・倭姫命の伊勢巡幸 皇學館大学文学部教授 岡田 登
伊勢商人のルーツを探る -三井高利と越後屋商法- 門 暉代司
祝宴
第二日目 見学会①伊勢別街道を巡る=津城跡・関宿・高田本山専修寺・県総合博物館など
第三日目 見学会②伊勢街道を巡る=宝塚古墳・松阪市文化財センター・松坂城・伊勢商人の町など
安濃津城は坂崎出羽守すなわち浮田詮家の妹が嫁いだ富田信高の城として知られている。この会で知り合た「歴史研究家 川口素生」の記事によると
『関ヶ原合戦当時の女武者 富田信高の正室
慶長五年(一六〇〇)九月十五日、美濃関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)で徳川家康率いる徳川方と、石田三成、宇喜多秀家らの豊臣方とが激突する関ヶ原合戦が繰り広げられました。さて、この関ヶ原合戦の前哨戦ともいうべき伊勢安濃津城(津城/三重県津市) の攻防戦や、豊臣方の敗北が確定した後の残党狩りの段階では女武者が活躍しています。
まず、八月二十三日頃からの安濃津城攻防織では、城主・富田信高に討死の危機が迫った際、甲冑を着込み、槍を手にした正室が駆けつけて夫の窮地を救いました。
前後しましたが、籠城していた徳川方は信高、客將・分部光嘉ら千七百人であったのに対して、攻め寄せた豊臣方は毛利秀元ら三万人という大軍でした。それでも、信高さは機を捉えて出撃し、敵方に打撃を与えていましたが、城への退路を塞がれます。
湯浅常山(備前岡山城士)の『常山紀談』によると、その絶体絶命の場面で、城中から、 「容顔美しさ武者緋威の物具中二段黒革にて威したるを著、鑓を提げて駆けつけ、「富田が矢面に立ちふさがり支え戦」い、中川清左衛門ら敵兵五、六人を倒したので、信高や光嘉は窮地を脱しました。ただし、宮川尚古(忍斎/軍学者)の『関原軍記大成』には容顔美しき武者でなく、人見伊右衛門(古田重聘の家臣)が清左衛門を討ち取ったと記されています。その容顔美しき武者は紅色か、緋色の革(もしくは紐)で威した(=結び合わせた)鏝を着込んでいたようです。ところで、光嘉の譚(実名)を政寿とする説(『集成分部家系譜』等)もあり、真田増誉(軍学者)の『明良洪範』には、「信高、政寿に問ふ、『彼若武者は貴兄の近習の者か』。政寿云、『彼は女武者と見へたり』信高、馳寄て見るに夫人也。大に驚く。夫人涙を流し、『君既に戦死し給ふと聞、妾も共に死を同じくせんと思ひしに、不゛計今幸に御つゝが無きを見奉る嬉しさよ』と悦ぶ事限りなし」 と記されています。
ところで、正室の活躍で危機を脱した信高らでしたが、兵力の差は如何ともしがたく、やむなく高僧木食応其の勧告を容れて二十六日に安濃津城を開城します。幸いにも、信高は剃髪して高野山へ登ることで助命されました。やがて、関ヶ原合戦で徳川方が大勝したことから、信高と正室は安濃津城へ復帰することが出来、のちに信高は伊予宇和島藩(愛媛県宇和島市)主に栄転しています。なお、名前は伝えられていないようですが、正室は備前(岡山県南東部)生まれで、宇喜多忠家(安心/秀家の叔父)の娘でした。』
写真
一身田高田山専修寺
古墳出土埴輪
斎王

Explore posts in the same categories: 未分類

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中


%d人のブロガーが「いいね」をつけました。