シーボルトとイネ


岡山蘭学群像Ⅰ「日本初の女医 おイネの生涯、そして謎」4/16サンタホール
この中で、西予市からまちづくり推進課長が来ていた。
幕末をおイネが過ごした町並み愛媛県西伊予市宇和町卯之町、今もあの頃のまままに
大洲・八幡浜と宇和島の間の町で通り過ごしそうな街
宇和島との繋がりは伊達藩前の城主が富田信高夫人が
浮田詮家の姉妹であった関係で改易となったとか。
楠本 イネ
1823年(文政6年)、長崎出島にあったオランダ商館付けの医師としてドイツ人シーボルトが来日しました。
1827年(文政10年)、そのシーボルトと、遊女たきとの間にイネが生まれました。母たきは遊女の名を借りて出島に人っただけだったとする説もあります。
長崎で育ったイネは、13歳から18歳まで、シーボルトの弟子であり卯之町で開業していた医師の二宮敬作のもとで、医業を手伝いながら西洋医学の基礎を身に付けました。その後、岡山県の石井宗謙のもとで6年余り本格的に産科を学び、1851年(嘉永4年)に長崎に戻りました。
1854年(安政元年)、イネは二宮敬作とともに卯之町に渡り、再び、敬作のもとで学び始めました。宇和島の村田蔵六(大村益次郎)にも学んだそうですが、1856年(安政3年)には、敬作に伴いイネも長崎へ戻り、産科医として開業しました。
1859年(安政6年)、イネは父シーボルトと長崎で再会し、1870年(明治3年)に東京へ移り産科医院を開業しました。 1873年(明治6年)には、福沢諭吉らの推薦によって、宮内省御用掛として宮中の産科・外科医にもなっています。 1877年(明治10年)に再び長崎へ戻ったイネは、当初、産科医として開業していました。医業は試験を受けての許可制になっていましたが、高齢だったこともあり受験
をあきらめ、産婆として産院を営みました。
1889年(明治22年)、62歳のイネは再び東京へ移りました。そこで一人娘高子や二人の孫娘達と暮らし、1903年(明治36年)、76歳で生涯を閉じました。
石井宗謙とも関係で今回の講演となった。
石井とのおかしな関係が語られ岡山の医者の品性を未だに問われている。

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