ツツジ祭2015


富山城主詮家は伊賀忍者か?P1050330 P1050353 P1050356 P1050359 P1050361 P1050369 P1050372

丸谷賢二氏撮影

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1616年10月10日、夜遅く江戸市中に騒動起れり『リチャード・コックス日記』

大坂夏の陣 千姫救出

父 浮田忠家(直家弟・秀家従弟)の妻 詮家の母 乙子城で生まれる。

虎倉城主伊賀久隆(妻 直家妹)の娘 深雪(阿部禅定娘市説などあり)昨年「浮田詮家誕生秘話」 伊賀家は、三重県伊賀上野より鎌倉時代畠山家に仕え、御津・吉備高原・賀陽・北房が勢力圏 美作の宮本武蔵も伊賀忍群から独立した新免忍群の下忍であった説。

伊賀久隆は円城の伊賀家の出で、周辺部には銀山、鉄、銅山、硝石の鉱山があった。

伊賀一族は鉄砲を使いこなし玉松城主 松田左近将監元輝を滅ぼした。鉄砲の製造は堺や根来、近江と全国に広がった。そのキーポイトはネジと硝石であった。

詮家の生涯が謎だらけでシックリしないのが残っていた。

宇喜多詮家(初名)→坂崎直盛 のみならず、別名として知家、直行、重長、信顕、 正親、正勝、貞盛、成正、成政などの名が記録されている。その業上は不明である。さらに、キリスト教信者としてパウロとして海外に紹介されている。 この名前の多さは進出記没の正に忍者として活動した証ではなかろうか。イギリスの諜報機関007。

また、備前軍記で16歳で毛利から人質から解放され戻り、三星城合戦の大将として行ったとされている。総大将は父の浮田忠家であり浮田政家とされている。元服して参戦し攻略に当たったとすると説明がつく。その後の辛川合戦、八浜合戦、冠山城合戦、高松城水攻め、関ケ原合戦、大坂城冬夏の陣に浮田忠家、戸川親子の陰で活躍した詮家がいなければ説明がつかない事件が多い。

吉備高原は蒜山高原より高く岡山で最高峰の山岳地帯である。伊賀久隆の虎倉城より吉備高原・賀陽・北房一帯は伊賀一族の征服地帯であった。その証拠は、各地の山城の城主の名前に刻まれている。さらに天台宗円城・清水寺の再建、吉川八幡宮の振興と記録が残る。

しかも宇喜多直家の妻お福が勝山城主三浦貞勝の妻でのちに円融院と称する女性は子の桃寿丸を伴って備前国へ落ち延びた。円融院は後に宇喜多直家の妻となり秀家を生んでいる。直家がお福と会ったとされる土井家の屋敷跡は、伊賀一族各家系譜に登場する。

『備前記』御野郡大安寺村(部分)  一 矢坂ノ上、富山古城山アリ、昔松田左近将監居城卜云、金川ノ城へ移りテ後、宇喜多直家弟忠家同子安心居城卜云、直家岡山ノ城取立以後、岡山ヨリ富山城高キ故破城トスト云、其後安心ハ野殿へ移玉フト云伝、于時天文17戌申4月卜云伝、元禄17申申迄157年ニ成ル、安心後ハ改、坂崎出羽守卜云、安心(安津)は忠家の号であるが、史料1の「宇喜多直家弟忠家同子安心」「安心後ハ改、坂崎出羽守卜云」とあるところから、ここでいう「安心」が、忠家の子である左京亮を指すことは明らかである。また、森俊弘氏も指摘しているように、「天文17年戌申」は天正17年の転訛と見るべきであり、この史料1は、全国的な城破り・山城の廃棄事例の一つとして見るのが妥当であろう。とすれば、天正十七年、富山城の破城によって、城主であった左京亮はその麓の野殿へ移住したということになる。なお、「殿下御内」の忠家がこの時期大坂に在った。

詮家は16~36歳まで富山城・野殿城や京都伏見・大坂住吉、江戸屋敷など多く記録がある。池田家家老 池田伊賀として大坂冬の陣(淀川)、幕末60人の忍者集団。

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