富山城主詮家は伊賀忍者?


P1040525 P1040527 P1040534 P1040535 P1040536昨年大河ドラマ「軍師管兵衛」の放映に伴って備前軍記を追っかけると高松城水攻め前浮田左京亮詮家(坂崎出羽守)がクローズアップされてきた。
そして、その母が虎倉城主伊賀久隆の妹であることがわかり「浮田詮家誕生秘話」としてまとめた。
ところが、その生涯が謎だらけでシックリしないのが残っていた。所が16歳まで伊賀忍者として育てられたとすると光明が見えてきた。
そもそも詮家誕生の時代は、戦国時代の永禄6年(1563年)、 宣教師ルイス・フロイスが来日・伊勢神宮外宮の遷宮(せんぐう)挙行 。
10月3日 織田信長が京の御所で相撲を開催・毛利元就が朝廷と幕府に石見銀山(いわみぎんざん)の所有権を献上。
叔父直家は永禄12年(1569年)、織田信長や西播磨の赤松政秀と結び主君・浦上宗景を倒すべく反旗を翻す。しかしながら赤松政秀が青山・土器山の戦いで黒田職隆・孝高親子に敗北し、信長から派遣された池田勝正・別所安治なども織田軍の越前侵攻の為に戻されると逆に宗景は弱った赤松政秀の龍野城を攻め降伏させてしまう。これによって一切の味方が居なくなった直家は完全に孤立した為に独力での抗戦は不可能と判断し宗景への降伏を余儀なくされた。この時は特別に助命され帰参を許されている。
宇喜多詮家(初名)→坂崎直盛 のみならず、別名として知家、直行、重長、信顕、 正親、正勝、貞盛、成正、成政などの名が記録されている。その業上は不明である。さらに、キリスト教信者としてパウロとして海外に紹介されている。
この名前の多さは進出記没の正に忍者として活動した証ではなかろうか。
また、備前軍記で直家の命により三星城合戦の大将として行ったとされているが総大将は父の浮田忠家であり浮田政家とされている。元服して参戦し攻略に当たったとすると説明がつく。その後の辛川合戦、八浜合戦、冠山城合戦、高松城水攻め、関ケ原合戦、大坂城冬夏の陣に浮田忠家、戸川親子の陰で活躍した詮家がいなければ説明がつかない事件が多い。
吉備高原は蒜山高原より高く岡山で最高峰の山岳地帯である。伊賀久隆の虎倉城より吉備高原・賀陽・北房一帯は伊賀一族の征服地帯であった。その証拠は、各地の山城の城主の名前に刻まれている。さらに天台宗円城・清水寺の再建、吉川八幡宮の振興と記録が残る。
しかも宇喜多直家の妻お福が勝山城主三浦貞勝の妻でのちに円融院と称する女性は子の桃寿丸を伴って備前国へ落ち延びた。円融院は後に宇喜多直家の妻となり秀家を生んでいる。直家がお福と会ったとされる土井家の屋敷跡は、伊賀一族各家系譜に登場する。
田土 神原家 阿曾 仁熊家 野原 伊賀家 西大寺 掛野家
高倉 新山家 円城 伊賀家 野原分家 伊賀家 備前市 小橋家
井原 土井家 弓削 河原家  一色 伊賀家 建部 松崎家
下土井 福島家 湯山 神原家 畑ヶ鳴 伊賀家 笠岡  伊賀家
竹荘 仁熊家 古来路 神原家 吉川 伊賀家
平山 仁熊家 仁熊  神原家 小森 近藤家
詮家の母が伊賀久隆の妹と云うのもただならぬ縁に思われて来る。

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