国際世論は如何に


 NHK大河ドラマ「軍師管兵衛」が明日で最終会となった。備前軍記とオバーラップして、当時の備中・備前の勢力争いの中で、宇喜多は豊臣方に付き一時中央集権となったが、それも一時で徳川政権となっていった。

ここで、高松城水攻めが着目されたが、備前の最前線としての役割の富山城・野殿御殿について触れられることはなかった。そこで最後の城主となった浮田左京亮詮家の誕生と富山城主として活躍時代、津和野城主としての偉業と語りは尽きない。その中で、詮家の母が虎倉城主の伊賀久隆の妹であることが伏せられてきた。それは余にも残酷な末路といえる。松田・伊賀・宇喜多はいかなる策略があったかはともかくとして相互に姻戚を結んだ。そして、200年間西備前を統治してきた松田を伊賀が射殺し玉松城は落城した。所が、織田の天下布武の名の元に崩れ去り、疑心暗鬼の結幕は浮田忠家が妻の兄の毒殺することを了承した。戦国時代とは言え詮家はその事実をどのように捉えたであろうか。

浮田忠家・詮家親子は富山城そしてその根小屋野殿御殿で20年間過し、伏見・大阪住吉屋敷と共に歴史を刻んだ。この間、戸川逹安(庭瀬藩主)の妹を嫁にもらい朝鮮出兵後妙円として亡くなった。姫は常山城より笹が瀬川を花嫁御舟で途上し野殿御殿の詮家の元に嫁いだであろうか。

現在は環状河川跡の大川は埋め立てられ、城の内の字名が残るのみで幸いにもの中の御殿跡としてか「野殿」の地名として繁栄している。また、一方の矢坂山の頂上の富山城跡は、万成石の産地として崩壊の危機にあった所を岡山市教育委員会によって日本で初めて城郭の発掘調査が行われ教育文化県岡山の足跡となっている。一度破壊された城跡は戻すことが出来ず、詮家が20年間すごした富山城は、天空の城の様相で断崖絶壁の上に立ち、砂上(岩盤)の楼閣となり風化が進み保全が大切な時期となって来た。

万成石は畳表のイグサ同様岡山の重要産業のとして教科書にも載っていたが、その役目は終わったと見る。

今回の浮田左京亮詮家に関する調査で中世におけるこの城の役割が大きく歴史遺産として保全してゆくことの重要性を痛感している。

今の幸せを感じる

詮家(あきいえ)誕生秘話

浮田左京亮詮家(坂崎出羽守)

富山城跡残図 P1040289 P1040290

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