備前軍記46


NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第44回「落ち行く巨星」が、放映された。
官兵衛を如水と改め豊臣秀次の相談相手となっていた。ところがそれが仇となって、またもや三成が秀次の謀反の疑いありとして切腹を命じた。秀吉は高野山に蟄居を命じるとこ淀が秀頼の行く末を案じ、秀次ともに39名が死となった。
秀吉は孤独と成り、官兵衛を許し播磨2千石余を与えた。ところが奉行衆始め皆官兵衛が秀吉の飼い犬となったと笑っていた。福島正則でさえ太平衛を怒らせ酒で負けて家宝の槍を取られ悔しがっていた。官兵衛は秀吉の天命を待つより外に無いとそれが近いと見ていた。
明の国書が届き、奉じての書に属国扱いに怒り、又もや朝鮮出兵を命じた。皆、負け戦に怯えた。官兵衛は秀吉に朝鮮に渡ると喜ばしたが、傷を深くしたくなかった。
55の家康も、60の秀吉の寿命をあと2年と予測していた。
黒田家出陣の時、守りを固めむやみに打って出ぬよう長政は命じた。16才の熊之助も出陣を申し出たが残れと云われた。14万の軍が渡ったころ三原城では小早川隆影が官兵衛に最後の別れとなった。熊之助は太平衛と後から置手紙を残し朝鮮へ渡った。
☆戸川家譜
慶長元年に、日本・天明和議にて、天明より冊使・遊撃来朝す、太閤殿下御馳走無限りしか、天明の書簡御意に不叶、御機嫌損し、大明両使和泉の堺へ遣し、本国に帰さる、掲て、朝鮮へ諸勢渡海の事被仰付、浮田中納言秀家一方の大将分を承りて、同2年3月に、釜山浦に渡る、惣勢13万余也、肥後守又供す、同年8月ニ、全羅道の南原の城を攻む、大手の大将ハ秀家、先陣ハ小西摂津守行長・島津義弘・蜂須賀家政・長曽我部元親・加藤左馬助・生駒讃岐守、其勢5万なり、一方ハ毛利宰相秀元大将として、加藤清正・黒田長政・浅野幸長、其外其勢5万、慶州より押寄、王城の兵・天明の兵と戦ワんと擬す、名島中納言秀秋も、一方の大将として釜山浦にあり、南原城の後援たり、全州の敵を防にハ、島津義弘・加藤左馬助圖取りにして、両将向全州まて、南原城(南門共言)秀家・行長攻之、肥後守家来完耳(宍甘)太郎兵衛(家老分也)・青井善兵衛(物頭なり)一同に壁下に着く、青井共侭壁の上に来る、完耳人ハ無かと問ふ、人なしと言、太郎兵衛我を引揚てくれよと言(完耳ハ老年、青井ハ若、年也)、青井手を取て引上る、壁に乗ると、均敷太郎兵衛名乗る故に、完耳一番乗りに定る、青井一番に乗て後に成り口惜しき事なり、諸勢に先達て肥後守手より来る事ハ、殿下にも聞召所也、其後、諸勢乗入り高名する者多し、打取る首3千余、行長猛勇を奮ひ本城乗り破る、生捕千計(女多しといふ)
追記  先ほど庭瀬の松林寺となり不変院の墓の前で東京からこられた戸川家子孫の方とお会いしました。広島の娘さんのとこへ行く途中でした。浮田詮家の話もしました。
参考:戸川家累代の墓が建立されています(達安の墓碑は東京都大田区池上の永寿院と岡山市妹尾の盛隆寺、3代藩主戸川安宣は盛隆寺、4代藩主戸川安風は東京都中目黒の永隆寺)。

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