備前軍記45


NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第43回「如水誕生」が、放映された。

官兵衛は朝鮮より勝手に帰国したかどで蟄居を命じられた。三成の陰謀であった。

家臣、光そしておねも成り行きを心配していた。

文禄2年(1593)8月3日に淀殿は秀頼を生んだ。

秀吉の仕置き申し渡しに現れた官兵衛は名を「如水水清」と改め断髪していた。「人は生かしてこそ使い道がある」と助命を嘆願した。助命の嘆願書の中で茶々から秀頼誕生を血で汚すながあった。隠居の許しを出して戦の終了のもとに大坂へ帰った、

関白を譲った秀次が邪魔となりだした。秀次は娘を2歳の秀頼に許嫁を申し出た。

朝鮮より各大名が帰国すると秀吉の朝鮮出兵が言われ出した。

徳川家康は不平分子、特に長政に親身となった。

淀、三成の陰謀により秀次に謀反の疑いがかけられた。

☆戸川家 備前騒動

一肥後守、備前の老臣にて、三ヶ国仕置壱人にて申付るなり、伏見の城御普請にて、諸大名築之、浮田宰相秀家ハ御本丸を承る御手伝なり、家老交て長船紀伊守勤なり、(3家老之内、長船越中嫡子紀伊守ハ、肥後守妹也)此御普請御急きあり、殊に御前江近し、紀伊守抽根気昼夜相詰る、才智有能情を出す故、御意に叶ひ、其以後ハ、備前之儀一向に長船に可申付との上意なり、以前、殿下播州姫路に御直館の時、花房志摩守幸次ハ御使をして御意に叶ひ、三家老よりも、備前の事ハ無大小、内々志摩守に被仰付候也、此度、紀伊守上意を以ての故に、諸家中に不構して心に任セ可申付、肥後守内慮ハ隙あれとも、壻増なれハ不及異儀、其外、家老・物頭ハ恨怒を含めとも、上意の上なれハ無事なり、近年軍役繁く、又、所々の御城普請、諸大名ともに勝手迷惑せさるハなし、秀家卿ハ天下の御婿分にて、御威勢他ニ異也、奢侈にして、又、舞曲を好て、御能と有て、公方家のことく、町役に掛て見物、此費莫大の事なり、其外、諸営雑用若干に入故に、勝玉不足なり、爰に中村次郎兵衛といよ出頭のものあり、是ハ秀家卿の御前様ニ付而、加州利家卿より来るもの也、先代よりの用人浮田太郎左衛門と言ものと、両人紀伊守に諾して、様々密談して、伏見へ参窺御旨、4年春、紀伊守簡略と号し、3ケ国検地す、作州・両備州、播州の内も同し事なり、諸10数代所持し来る知行を所替さセける程に、家人等も数年作り来る田畠打捨て、流浪に似たるもの多し、在所に離れ、及迷惑ニ、次郎兵衛を恨む、家老・大身数代被官とも、人に知られたる者ハ取上て昵近さセ、所領増者多して悦へとも、家中一篇凡小足に思ひけり、雖然、上意にて如此故に一言も申に不及、岡越前組と肥後守組と、夏方先納違ひ申分に依て、両家引分れ闘諍に及ぶ、外の家中の者とも、縁に触て具足・鑓をもって両家に行、備前騒動この時也、秀家郷の御母堂大方殿と申セしか御扱にて、大守御留守也、是非ともに堪忍可什旨、老人を以て被仰下で、無事に成りぬ同年夏の頃、秀家卿の御前様妖気御煩也、医療及かたきによつて、御祈祷可有とて、日蓮旨の僧とも、抽魂気を数日折れとも無験、其後、山伏祈之て平愈し給ふ、秀家郷怒之、家中不残日蓮宗を可改旨被仰付ける、其時、明石掃部切支丹を専ら勤るゆへ、忍んて伴天連を呼下し勧めけるに、不傾ものなし、家中不残此流に成りぬ、肥後守老父友林ハ御理りを申、信仰に依て日蓮宗旨也、これハ耶蘓宗門を嫌らひ、終に一代不傾也、浮田左京亮・岡越前(豊前子家督)・花房志摩守・花房助兵衛、その外家中過半肥後守一同なり、紀伊守ハ、次郎兵衛・太郎左衛門・延原土佐杯一味す、明石掃部ハ、彼宗門を弘めんとのミにて、何れへも不寄と也、家中割て不静、是、秀家卿家滅亡の端也

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