備前軍記43


NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第41回「男たちの覚悟」が、放映された。

官兵衛は徳川家康に会い、関東への国替えを天下の為受けるよう願った。

秀吉の無謀な明国攻めなどを官兵衛は諌めたが秀吉は聞く耳を持たなかった。

朝鮮特使が小西行長の計らいで秀吉に会ったが、明への道案内をすると勘違いしていた。

利休も秀吉を諌め「天下のために豊臣家がある」と云ったが、三成は貶め、遂に利休は切腹となった。鶴松は3歳でこの世を去った。

気落ちした秀吉だが、朝鮮出兵の城を福岡名護屋に築城するよう命じた。

☆「藤陽伝 伊賀氏一族と虎倉城記」より

足利義昭将軍を保護する側に立つ毛利氏から離反する事は、直ちに毛利氏と虎倉城の軍を引き受ける事になるので、先ず虎倉城の勢力を剥ぎ、この城を自分が取りこむ事が我が身を守る最も重要な事となったのです。

そこで、伊賀久隆毒殺を企てるのでした。久隆ほどの者であるから、事前に腹の中は承知した上で直家招待の席に臨み、直家の本心を確かめたものと思われます。

直家は計画通り、事を運んだが、伊賀久隆は危うく逃れ、与三郎も虎倉城へ無事帰城する事が出来たのです。これが、天正6年9月の宇喜多直家毒盛りの企てです。

これによって、宇喜多氏の毛利氏からの離反は確定したので、毛利氏と伊賀氏の宇喜多討伐戦が始まる事になったのです。

一方、直家は、運よく天正6年10月信長に謁見を許され、信長の執奏によって従五位下和泉守に叙せられました。

この直家離反によって、毛利氏東上の軍は大きく阻害され、播州路から撤退し、宇喜多氏攻撃の戦いとなったが、その前哨戦として忍山城攻撃となったのです。

毛利の兵3万とともに忍山城を攻撃して奪い、宇喜多春家の守る金川を攻め50余騎を打ち取りました。

天正7年3月16日、伊賀久隆公が病没し、伊賀与三郎隆家が虎倉城主となり、伊賀守左衛門尉を叙し伊賀伊賀守左衛門尉家久と称しました。

天正12年、高松の役和睦の後、豊臣秀吉は事実上の天下人となりました。

秀吉は、蜂須賀彦右衛門、黒田官兵衛の両名を備作の地に派遣し、城を接収せしめました。

京、芸の境は備中国境となる事に決定。

ついに、虎倉は恨み多き宇喜多の手に渡る事になってしまったのです。

伊賀家久は備中大井荘、山ノ内、吉川を与えられていたが、国境が高梁川となり、それも召し上げられ、天正13年2月僅かばかりの従者を連れて防長へ西下したのです。

宇喜多秀家が備前の領主となり、その主席家老長船越中守が虎倉城主となって3万7千石を領しました。

天正16年正月5日、城主長船越中守を招待した酒宴の最中、突然銃声が鳴り響き、越中はその場で殺され、訳の分らぬ混乱の中、お互いに抜刀して切り結び混乱となり、やがて矢倉より出火焦土となったのです。

伊賀氏四代によって栄々と築きあげられた虎倉城も謎を秘めた劫火によって焼け落ちたのです。

時に天正16年の事です。

虎倉記によると家老石原新太郎が銀山を私欲化し、私腹を肥やしていたことが長船備中守にわかった事が発端だということです。

天正16年正月、虎倉城は三日三晩燃え続け灰儘に帰したのです。

長船越中守の息子紀伊守は父の後をついで虎倉城主となり、3万7084石を領し宇喜多氏の国政を専断するまでに信頼を得たが、宇喜多家家中騒動の時、戸川、浮田、花房、岡などの老臣と対立し謀殺されました。

その後は紀伊守の弟、長船吉兵衛が相続し、2万4800石を知行しました。

関ヶ原の戦の後、小早川秀秋が備前の城主となり、松野主馬が虎倉城番となったが、秀秋の不法が止まらず岡山を去り、後、組頭、蟹江彦右衛門が預かっていたが、これも備中へ去り、同じく組頭鎌田五郎兵衛が在番し、慶長7年、小早川家断絶。

元和元年、一国一城制が行われ、虎倉城は破却されました。

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