備前軍記42


NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第40回「小田原の落日」が、放映された。

天正17年5月27日淀殿が後継ぎを生み、官兵衛も長政に国を譲り、秀吉の側近として仕えた。

大坂城では三成・淀殿が権勢を振った。

大名の妻子を京に住まわせ聚楽等でおねが仕切った。

小田原攻めに城を包囲し北条に味方するする城を次々落し、目の前に一夜にして城を出現させ北条の度肝を抜かした。

官兵衛が1人で乗り込み2ヵ国安堵で和議を結んだが、秀吉は約束とは違い徳川に領地を与え国替えとした。

天下統一を成し遂げた。

☆戸川家記によると

天正18年、小田原御退治として、3月御発向也、浮島ケ原に於て、備前秀家と武者競可有との上意にて、秀吉公異形成る出立也、備前の勢潔白なる出立、肥後守逞敢行粧也、御手勢より備前軍粧甚宜との上意なり、此陣ニハ岡豊前守ハ不立、肥後守一家老として進発す、山中の城責落、翌日、湯本迄責寄、秀吉公松出御本陣なり、肥後守ハ備前の先手にて、湯本之北の山によぢ登り、小田原城首尾(尾首)に至る、城近し、城内より鉄砲を打て山の峯へ不被出し、鉄砲可放様なし、中吉与兵衛百挺之頭にて、足軽召連来りて、前ニ者不被出故空へ放ちける、是ニ而合戦始て馬より下る、玄蕃(16才也)土佐功者ニて、玄蕃殿若して強情なり、尤とて扣て先へ押しむ、中村弥右衛門といふもの旗奉行ニて来る、始紀伊守組子に居たる者也、土佐組の内より言、弥右衛門ハ昨今迄同組ニ居て、今此定を破り不知顔に押と言、弥右衛門返答に、紀伊守殿組ならハ其趣ニすべし、今肥後に従ヘハ不用、武士道不知して申かと言て、旗を進めて尾首山に登り、旗を建けり、是より後此寄口を不去して、柵を振り井楼を上ケて大筒を打ける、以後金堀(掘)を呼て穴を掘、櫓へはり付けるニ内より砂を炒て懸ける也、諸手ともに如此落城迄相詰攻之、其後、小田原滅却して埓明き、奥州へ御進発、備前宰相秀家も御供也、しら川におゐて検地承り、肥後守組家人等を出し、急に検地調ひ、御帰陣の後、賞美金銀等被下、此小田原陣ハ、所々の手様々の城責ニ品あり、備前の手の構ハぬ事戴之

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