備前軍記41


NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第39回「跡を継ぐ者」が、放映された。

家康はお伽衆に官兵衛が秀吉亡き後天下を取ると云っているといい官兵衛は警戒した。

茶々が聚楽等で跡継を身籠った。三成は淀城の築城を提案した。

官兵衛は、秀吉がうたぐり深くなることを警戒し隠居することに決めた。秀吉は許さなかった。

京都に大仏を建立するなど憲政を振るったが、町人はこれを比喩する張り紙をした。

下手人が見つからず、100余名も斬首した。

官兵衛はおねの願いで秀吉に「このままでは豊臣家の天下は危うく、増してや子の将来を世の人々は待っていない」と苦言を呈した。

前祝と称して金銀を振りまいた。

長政への国譲りはゆるし、官兵衛には傍で仕えるよう命じた。

関東では家康の説得にもかかわらず北条は上洛を拒み、北条成敗は止むなしとなった。

☆岡山城の改築の事

秀吉の全国統一により天下は平穏に帰したので、秀家は岡山の城の新築造営に着手した。

この岡山の地は、大昔は大島という島山であったが、後に地続きになって岡山と呼ぶようになり、正平(1346~1370)の初年、南朝に仕えた上神太郎兵衛慰高直の居城があった。その後はるか年を経て、大永(1521~1528)の頃であろうか。金光備前という武将が居城を築いた。その子金光与次郎宗高が引き続き在城したが、宇喜多直家に殺され城を奪われた。この頃までは城地も狭く、西の天神山の辺りばかりであった。

天正元年(1573)直家は沼の城から岡山に移り、城普請を行ったが、本城を東の方の石山に移し、郭など多く築き添えて規模を大きくした。同10年(1582)の頃には城普請は終わったが、何分その頃までは隣国と合戦に明けくれ、築城に意を傾注する隙もなかったから、必ずしも完備したものではなかった。往還筋の旭川にもやっと仮り橋を架けられた程度であった。

しかし、朝鮮の役も終わり、国中近国ともに兵乱なく、世は静かに落ち着いたので、秀家は城の改築に着手した。安土の城に最初に出現した天守閣を、岡山城にも築きあげ、矢倉・広間・出仕所などの建物を造営した。この工事の普請奉行を勤めたのは中村二郎兵衛である。彼は近ごろ秀家の正室豪姫に従って前田家から来た新参者であるが、なかなか才能ある者であったので、秀家は彼に普請のこと一切を任せた。

このとき、本城を以前より更に東の岡山の丘陵に移し、石垣を高く築きあげ、旭川を付け替えて本城の麓をめぐらせ、天守閣を築き、櫓を組みあげて完成した。またこれまでの往還の仮り橋をやめ、それより2町ばかり下流に川中の2つの中島を利用し、これに京橋・中橋・小橋の3つの大橋を架け、洪水のときでも旅人が何の難儀もなく通行できるようにした。

注 以前に仮の掛け橋のあった所を今では古京町という。これは古京橋町の略語である。 また、天守閣の虹梁に使った用材は、和気郡吉田村(現和気町吉田)の龍王山に鎮座する、神社の境内にあった大木を伐ったものといい、その大本の切り株はなお朽ち残って現存するという。この城普請は慶長の初年までに一応成就したが、なお仕残した部分もあったので、その後 造り足して完成したという。

新釈備前軍記

天正18(1590)年より慶長4(1598)年まで8年間で完成。

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