備前軍記37


NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第37回が放送された。

豊前の香春岳に陣を構えた官兵衛のもとに、長政と又兵衛が、秀吉の書状を携えて大坂からやってきた。秀吉が到着する前に、まずは九州の諸将に帰順を説いて戦を避けることが肝要だ。

家康は、秀吉の願いで諸将の前で秀吉の陣羽織をねだる芝居をうった。

天正15(1587)年3月1日、秀吉は出陣の日を迎えた。茶々が廊下で手をついている。島津以上の大物が軍門にくだったと、秀吉は手をたたいて喜んだ。

3月28日、秀吉率いる本軍は九州へ渡り、小倉城に到着した。秀吉の命で早速軍議が開かれ、官兵衛が地図を開いて説明する。

ひと月あまりで、総勢25万で薩摩に入り、島津義久は早々に降伏を願い出た。結局、秀吉は剃髪した義久を許し、領地を取りあげることもしなかった。

九州を平定した秀吉は、6月7日、博多近くの筑前・箱崎に凱旋。大友と島津の戦で焼け野原となった博多の復興を官兵衛と三成に命じた。

秀吉は突如、これまで許してきたキリシタンの布教を禁ずる書状を高山右近に書き送った。信者が増え、力を持ち始めたキリシタンを恐れた

二十日以内に帰国させるバテレン追放令を出した。

九州攻めの働きにより、官兵衛に右近をかばったため二郡減じ六郡豊前国となった。

官兵衛が城井谷城主・宇都宮鎮房に、味方になる代わりに本領を安堵すると約束していた、4百年続く名門・宇都宮一族がいる。

 

☆この頃のことを「戸川家記」によると、

一戸川肥後守達安ハ、永録10年丁卯に生る、初の名は助七 郎と言、成人に及んて、人体健に逞して、太く、長高く、力量あって、若きうちハ相撲を好む、爰に寺尾作左衛門

ハ、大鹿の角を引折、高畠平八ハ、八人舁の石一方に荷 ひ、後ニ持もの挫くる程の強力のものを、前相撲にして不劣、是を取りける、年老て歯など落、白髪に成てハ、二 王杯の様ニ見へたり天正7年に、直家属信長公、輝元の敵として毛利家欝憤を合ミ、秋、小早川隆景備中へ出張して、備前と備中の境、忍城ハ宇喜多家の城なれハ、多勢を以て攻殺し城を 屠る、其後、備前津高郡辛川表へ押込、其時、備前多兵 打出て大成る合戦あり、毛利勢敗北す、是を辛川陣といふ、肥後守13才初陣なり、敵近く馳す、依之、家人討 取首を出ス、若年故首帳に付る、猶原彦右衛門18、9計ニ而、能武者鑓付首取にけり

大正10年4月に、秀吉公備中表江御出陣、時に備前味方申、先手す、手合に備中宮地の城(今足守上の山)備前一手にて責落す、其外、冠城を屠り、其後、高松城水攻、此儀ハ書々にあり不及記、肥後守達安(時に16才)父平右衛門ハ、関東草津へ入湯して留守ゆへ、家老先手役をして高松へ相詰、軍役を勤む、此時分、助七郎秀吉公へ御目見申、御帰陣の 時、毛利家より差出す備中川東九万石余、此度の忠に八郎殿に被下(八郎殿、10歳)6月、明智合戦にも備前より加勢す、人質(平右衛門娘、明石掃部幼少)此時播州姫路にあり

一天正11年、秀吉公柴国修理亮勝家と合戦、志津嶽七本鑓此時に有り、佐久間玄蕃敗北し、柴田勝家逃去、越前北の庄迄追詰給へハ、勝家妻子郎等(党)悉く自害す、この時 備前加勢可有

一同12年、織田信雄郷を秀吉攻め給ふ、神君大勢を卒し、信雄を救ひ玉ふ、長久手にて大に戦て、池田勝入父子・森武蔵守討取、此時、秀吉公大軍10万余之勢、小牧に発 向、備前より大勢登りしと也

一同13年、秀吉公根末寺を攻玉(給)ふ時、和泉国千石堀にて 備前勢軍功あり、根木寺滅却して已後、紀州雑賀へ御発 向有て、諸勢を分て長堤を築き、水攻めの時、備前之丁場堤切、湛たる水落、秀吉公御機嫌悪し、浮田之家臣岡 豊前守御前江出て、私無念にて堤切申候、切腹可被仰付与申上、秀吉公御機嫌直り、ケ様の事ハ不意に有るもの也、

何卒、早く水溜可申与上意也、則、大勢して早速水留堤出 来、水湛て無程落城、其時、助七郎家臣にて向ふ、若年故、豊前守申寸(秀安ハ病気、長船ハ死す故ニ、豊前守壱人ニ而故 豊前守申付備前之仕置も公用も、勿論軍用之事も勤

一同年6月に、四国退治、諸勢先阿波国に向ふ、長曽我部元親弟親安一の宮城に籠る、諸勢攻之時、肥後守家人青井善兵衛といふもの一番に城に入、敵落て人無故、井の釣瓶を取て帰る、高名に成ると言、四国平均して9月開 城となん

一同15年3月、秀吉公九州へ御発向、毛利輝元・浮田秀家(初陣)御先へ九州え下向す、前年より、黒田如水・豊後大友・長曽我部元親・伊千之衆中、下て城等拵へ、浮田・毛利至て都喜枝城を築き、その以後、秀吉公渡海ましまして、豊後・日向の境高城を惣勢攻之、備前の攻口肥後守手より一番に打破る、宮部善祥坊陣に至て、夜、島津義弘来 り攻ム(島津・中務攻るいという説)暁に至て大に戦ふ、島津勢死人山のことくし而引去、此外、豊後府内・岩石城を責(豊前筑前前の堺)、小熊城を責、方々城、九州の城不残攻屠り、大隅・薩摩へ攻入けれハ、島津修理太大義久降参す、筑前博多に暫く御逗留あって御帰陣なり、秀家御供あり、所々におゐて励軍忠、肥後守かせき、夜も不寝、自身夜廻りもせしとなり

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