8月 2014 のアーカイブ

備前軍記32

2014年8月2日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第30回「中国人返し」は、天正10(1582)年6月7日。 備中から姫路まで約80キロメートルの道のりを官兵衛がシンガリを務め、秀吉の軍勢はわずか一日で走破した。家臣は城内に留めた。八万五千石の金銀と蔵の米を家臣に与えた。

6月9日、官兵衛は評定を開いた。明後日に兵庫まで来たことを知れば、摂津の大名はことごとく、我中川清秀、高山右近や池田恒興も味方する。6月9日早朝、2万の軍は姫路を出陣。

足利義昭は、毛利から見限られていた。光秀は、公家に500貫の銀を献上していた。

6月10日光秀は秀吉の使者・井上九郎右衛門の伝言を聞き青ざめた。

6月11日尼崎の秀吉の本陣に摂津の大名、信長の三男・織田信孝も帰参した。

六月十三日午後四時、京の南の山崎の地で羽柴軍は4万対する明智軍は1万3千、すでに勝敗は決まっていた。「本能寺の変」から、わずか11日後光秀は、山中で落ち武者狩りにあい、あっけなくその生涯を閉じた。

☆新釈備前軍記 備中高松の城攻め並びに所々城攻めの事3

一説によると、秀吉は備中引き揚げのとき、辛川村で病気にかかって重態であると披露し、なお辛川村に逗留している形に取り繕い、秀吉自身は側近の人数だけを率い、雑兵に紛れて釣の渡を越え、馬に打ち乗り播州まで駆け通して帰陣した。炎天の時とて馬が途中で斃れたので、家来の馬に乗り替えて宇根まで引きとり、岡山へは使者を送り、「今日岡山へ立ち寄るべきところ、急用ができて立ち寄ることができず、直ちに帰国してしまった。詳細は後便で申しあげる」と伝えさせたという。しかしこれは虚説である。このとき秀吉が岡山城に入り八郎が目見得したことは、戸川助七郎覚え書にみえているから間違いない。また一説に、六月七日に吉井川を越す予定であったが、大風雨のため川が増水して越すことができず、八日に沼を発足したという。

野殿の太然寺に安置する八宝珠金神尊は、その昔、備中高松城の鬼門除けの為、城内の艮(うしとら)の方角に祀られていたと伝えられる。しかるに秀吉は京都へ引き返すに当たり、世俗に言われた金神尊の神罰を、主君信長の死と共にこれを恐れ驚き、水攻めによって無惨に荒らされた金神堂を再建するため、京都への道中、当太然寺に立ち寄り、当時の住職日尭上人にその再建勧請を託されたとされている。時に日尭上人は快くこれを受け、法華勧請を施し法華経の守護神とするべく当太然寺本堂の艮(うしとら)の方角の位置に祀ったのである。

津和野町史によると、後に千姫事件を起こす浮田左京亮詮家(あきいえ)は、幼時、人質として芸州毛利家にあったが、直家が織田方に翻ると毛別輝元の恩赦によって帰国した。そして、作州の三星城合戦で初陣を飾り、柳生宗矩と並ぶ若き武将であった。詮家の父は忠家で、宇喜多直家の実弟で若いときから兄を扶けて度々戦場に臨み活躍した勇士であります。四万石を与えられて、宇喜多家の筆頭家老となり、富山城主となる。妻は、戸川達安の妹君であった。

『真説歴史の道第8号』(2010)p.10によると、天正10年(1582)6月5日、秀吉は摂津茨木城(大阪府茨木市)の城主で明智光秀に近い中川清秀に対して返書を送っている。それによれば、野殿で貴下の書状を読んだが、成り行きまかせで5日のうちには沼城まで行く予定であると記しており、同時に、ただ今京都より下った者の確かな話によれば、

『上様ならびに殿様いづれも御別儀なく御切り抜けなされ候。膳所が崎へ御退きなされ候。と述べている。つまり、上様(信長)も殿様(信忠)も無事に難を切り抜け、近江膳所(滋賀県大津市)まで逃れているということであり、続けて福富平左衛門が比類ない働きをした、めでたい、自分も早く帰城すると記している。

渡辺大門2013年によると、実際の行程は、 ほかの一次史料と照らし合わせて検討すれば、秀吉の行軍日程は次のようになる。

①       6月4日、備中高松城から野殿(岡山市北区)へ到着(「梅林寺文書」)。

②       6月5日、沼城(岡山市東区)へ到着(「梅林寺文書」)。

③       6月6日、姫路城へ到着(「松井家譜」所収文書)。

④       6月9日、姫路城を出発。

この行軍でも厳しいのは事実であるが、一次史料で裏付けられるたしかな行程である。

現代行軍速度は、1分間で、(1)徒歩兵 (a)途歩 約86m、(b)駈歩 約145m、(2)乗馬兵 (a)常歩 100m、(b)速歩 200m、(c)駈歩 300m。

この速度は大部隊になるにつれて遅くなるほか、兵種連合の場合は速度の遅い部隊を基準とするから、通常1kmを行進するのに13分間を要し、休憩時間を合算し、1kmにつき約15分間を標準とする。 ただし自動車中隊およびこれに準じる部隊の速度は1時間約12kmが標準である。 行軍1日の行程は普通の情況の諸兵連合の大部隊では昼夜約24kmを標準とする。