最後の富山城主 浮田左京亮詮家 (津和野城主)


今年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」が放映されている。高松城水攻めの頃、浮田左京亮詮家(あきいえ)は16~36歳まで富山城主として活躍した武将であった。

 この詮家は炎上する大阪城夏の陣の時、豊臣秀頼の妻、徳川家康の孫娘千姫を救出したのは津和野城城主坂崎出羽守だ。しかし、千姫が姫路の本多忠刻に嫁ぐのを妨害しようとしたとして殺害された。

詮家は、宇喜多直家の弟、忠家の次男だった。忠家は、備前福岡の豪商阿部禅杖の屋敷に父興家(おきいえ)に匿われていたときその娘との間にできた。その乳母は、常山城主となった戸川秀安の母だった。忠家の妻は虎倉城主伊賀左衛門尉久隆の妹深雪で、直家が沼城に移ったのち忠家に乙子城が任され間もなく詮家は生まれたと思われる。幼少のころ毛利に人質となっていた。

詮家の兄基家は、天正7年(1579年)、宇喜多が織田氏と和睦のとき登場する。そして安国寺恵瓊(えけい)を捉え戸川孫六と共に詮家も人質交換されたのではなかろうか。そして、直家が亡くなる前その命により16歳で詮家を将として作州三星城に大軍を向けた。軍議の策は内紛を起させ落城させた。そして毛利水軍が岡山城を攻めようとしたとき八浜合戦で凶弾に倒れ、弥太郎様として今でも祀れてる。また、宇喜多家7本槍として家臣団は強く結束していた。

 播州上月城戦当たりより直家は病床に伏すことが多くなり忠家が戦場に向かった。直家亡き跡、八郎は10歳で忠家が後見役を務めた。そして、天下分け目の高松城水攻めに宇喜多軍は大いに貢献した。特に忠家は永禄11年(1568年)金川城の松田を滅ぼし富山城主横井土佐を追い出し新たな城を築城した。岡山市野殿(のどの)に「城ノ内」という字(あざな)がある。「吉備温故秘録」の津高郡野殿村の条に、「野殿城、宇喜多左京亮」とあり、野殿の地名はこれによったものらしい。別項に書いた富山城と一連の関係ある遺跡で、富山城を宇喜多氏が支配するようになってから、その南麓の平地に根小屋を構えて城主の平常の居館にあてたといい、また富山城主宇喜多忠家(安心人道)がその子左京亮詮家に城を譲って、自分は今の野殿の地に屋敷を構え、これに隠棲したといい、あるいは富山城が岡山城よりも高い場所にあるので本家の宇喜多秀家がこれを喜ばず、宇喜多左京亮は富山城の建物を南麓の平地に移して住んだ、これが野殿城であるとも伝える。詮家もまたここを地盤にして活躍した。戸川秀安の妹を妻としたのもこのころであろう。天下が秀吉となると忠家・詮家ともに大阪、伏見に屋敷を構えた。大正12年(1584)の冬に忠家は叙爵後まもなく隠退し名を安心と改めた。ただ、忠家が詮家に家督を譲ったのは慶長4年(1599年)説もある。詮家が富山城主となるのに13年の開きがある。

 天正19(1591)年3月、秀吉は朝鮮出兵を企て、秀家を朝鮮派遣軍の総大将に任命した。宇喜多家は、早速新規に50艘の大船を建造し、翌年2月にはこれを旭川の河口に浮かべて乗初を行った。そして同月25日には、宇喜多勢の先手の大将浮田安心(忠家)が主力を率いて渡海した。当時秀家はまだ19歳であったので、この安心が彼の後見役として出陣したのである。そして3月1日、秀家も出船して朝鮮に渡った。文禄2年(1593)12月には1度兵をまとめて帰国したが、慶長2年(1597)3月1日、再び朝鮮出動の命によって渡海し戦闘を展開した。しかし翌3年8月秀吉が薨去したため撤兵することとなり、秀家も帰国した。詮家についても朝鮮の姫と懇ろとなり連れて帰ったと云われている。

秀吉没後の慶長4年(1599年)、当時重臣だった戸川達安・岡利勝らが、秀家の側近の中村次郎兵衛の処分を秀家に迫るも秀家はこれを拒否。中村は前田家に逃れ、戸川らが大坂の屋敷を占拠する、いわゆる宇喜多騒動が発生した。 秀家はこの騒動の首謀者を戸川達安としてその暗殺を図るが、秀家と仲が悪く対立していた宇喜多詮家(坂崎直盛)が達安をかばって大坂玉造の自邸へ立て籠もるに至り、両者は一触即発の事態となる。 宇喜多家の調停は最初、越前敦賀城主の大谷吉継と家康の家臣である榊原康政が請け負ったが、康政は伏見在番の任期が終わっても居残り調停を続け、結果国許での政務が滞ることになった。そのことで家康より叱責をうけ、康政は国許へ帰ることとなる。秀家・戸川らの対立は解消されず、吉継も手を引かざるをえなくなり、結果徳川家康が裁断したため内乱は回避された。戸川らは他家にて預かり・蟄居処分となる。 この騒動で戸川・岡ら直家以来の優秀な家臣団や一門衆の多くが宇喜多家を退去することとなり、宇喜多家の軍事的・政治的衰退につながった。

 家康が上杉景勝を討ったとき、秀家の名代として奥州に赴き、また直ちに関ヶ原合戦において東軍に従って軍功があったので、石見国津和野(現島根県津和野市)の城主に封ぜられ3万石の地を賜い、浮田(宇喜多)姓を改め坂崎出羽守と称した。16年間で行った事業とは、

 一、津和野城の大改築

 一、城下の町の形成と整備                                                                                         

 一、防火用水路の開発と整備

 一、産業開発、特に石見半紙の原料である椿の植え付けなどである。

その後元和元年(1612)大坂落城のとき、大樹院(秀忠の娘で秀頼の正室、後に本多忠則の正室)を城中から奪い取って将軍家に送り届けた。この功により1万石を加増され4万石を領した。しかし、大樹院を奪って将軍家に差し出したとき、この姫君を出羽守に下さると仰せがあったにもかかわらず、姫君は本多中務大輔忠刻のもとに嫁すことになった。これを聞いて出羽守は激怒した。世上には婚礼のとき姫君の御輿を奪い取ろうと企てている、という噂さまで流れた。徳川家は、親友の柳生宗矩を自刃の説得に当たらせ、一方、出羽守の家臣をそそのかし、出羽守を討ってその首級を差し出させたが、出羽守の死は発狂として片付けられ、坂崎家は断絶した。将軍家は、出羽守を討って首級を差し出した家来の不忠をも憎み、これも成敗したという。なお、出羽守の弟を感応院といったが、かれは邑久郡大賀島(現邑久町大賀島)の住職を勤め、寛永末年まで生きていたという。

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