7月 2014 のアーカイブ

備前軍記28

2014年7月5日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第26回「長政初陣」は、天正10(1582)年3月。

元服して名を長政と改めた松寿丸は凛々しい若武者に成長し、初陣のときを迎えようとしていた。長政の指南役には、黒田家随一のつわものである太兵衛をつけた。

秀吉引いる二万の軍勢は備前に入った。沼城に本陣が置かれ、まずは秀吉の養子・秀勝が初陣を飾るための戦があり、その夜は祝いの宴が催された。

甲斐・信濃を領していた武田家は、すでに信長の嫡男・織田信忠率いる六万の大軍によって攻め滅ぼされている。信長は徳川家康ら信忠に従っていた武将たちに恩賞を与え、信忠には諏訪のあと始末を命じた。

そんな中、武田家に身を寄せていた織田の宿敵・六角次郎が、甲斐の恵林寺に潜んでいることがわかり全員を焼き殺してしまった。

官兵衛と小六は備中で調略を進めていた。 最大の標的は高松城の清水宗治だったが、比類のない忠義の士である宗治は、城を枕に討ち死にする覚悟を決めていた。

協議したが折り合わず、ならば戦もやむなしと、双方意見が一致した。

☆新釈備前軍記 備中高松の城攻め並びに所々城攻めの事

天正十年の春、織田信長から毛利征討の命をうけた羽柴筑前守秀吉は、備中に兵を進めるべく三月十五目姫路を出陣した。その日、備前国三石(現備前市三石)に着き、その翌日には福岡(現長船町福岡)に進んだ。そして同月十九日福岡を発し、沼村(現岡山市沼)で昼の休息を取った。宇喜多家は、この沼城の南の山麓に新しい仮屋を設けて秀吉を色々と饗応した。宇喜多八郎はまだ幼少であったので、花房弥右衛門正成をその名代としてここに派遣し、そのもてなしに当たらせた。秀吉は大層喜び、ここを出発して岡山を過ぎ、さらに兵を西に進めた。

このとき八郎の名代として、宇喜多七郎兵衛忠家・岡平内・戸川助七郎・長船又三郎らが、総勢二万余騎の大軍を率い、秀吉軍の加勢となってその先陣をつとめた。

秀吉は本陣を龍王山(現岡山市高松稲荷)に据え、総軍八万余騎を備前・備中の国境に、山上山下を問わず延々と配備し、高松城攻略に備えた。また備前勢は、四月上旬のころまで乃美少輔七郎元信が居た備中宮路山(現同市足守)を攻めるため、宮地山の上手の渋柿山に押し登って陣を取り、一挙に宮地山を急襲した。城兵は支えきれず降参したので、命を助けて追い払った。当時冠城に、清水長左衛門の一党である林三郎左衛門・鳥越左兵衛・松田左衛門らが楯て籠っていたが、備前勢は引き続きこれに攻めかかった。同月二十五日の卯の刻(午前六時ごろ)より、浮田忠家は全軍に下令して総攻撃をかけた。僅かな小城とみた忠家は、二万の大軍で一揉みに揉み潰そうと攻めかかったが、城兵はよく防戦したため備前勢の死傷者は続出した。そこで忠家はひとまず引き揚げを命じ、城兵は暫く息を継ぎ休息していた。

その時である。城内の鉄砲の火縄の火が柴垣に移ったのか、燃えあがって藁屋に燃え広がった。夏の頃とて乾燥した小屋へ次々と燃え移り、忽ち城内は炎に包まれた。途方に暮れた城兵が騒ぎ立てているところへ、秀吉の本陣から備前勢の本陣へ来ていた加藤虎之助清正が、一番に冠城に乗り込み、美野辺十郎・山下九蔵がこれに続き、備前勢もこれに遅れず一緒になって攻め入り、敵を討ち手柄を立てた者が多かった。さすがに城兵も防戦の術がなく、林・鳥越・松田の諸将も一緒になって血路を開き、高松城に合流した。

この松田左衛門盛明は、もとの金川城主松田左近将監の二男である。去る永禄十年(一五六七)父左近将監、兄孫次郎は直家に討たれ、その領地居城まで奪われ、彼はその後毛利家の被護を得て成長した。従って、盛明にとって宇喜多は父兄の敵であるから、宇喜多勢を相手に戦うことを本望とし、棹尾の勇をふるって防戦したが、その甲斐なく落城したので、怒りを含んで引き退いた。

さて廂山(日差山)の東南に日幡城(現倉敷市日幡)があり、日幡六郎兵衛と毛利家の加勢の部将上原右衛門元祐が籠城していたが、備前勢は引き続きこれを攻めた。ところが、上原元祐は秀吉に内通し、城主日幡六郎兵衛を殺害し備前勢を城に招き入れた。そこで備前勢は兵を進めて城を乗取り、備前勢から花房・長船・市・福田の諸将、秀吉勢からは木村隼人を派遣して守らせた。しかし小早川勢も、楢崎弾正志正を大将として城の奪回に乗り出し猛攻を加えた。この日幡城はもともと堅固な城ではなかったので防戦に不便であったから、備前勢は城を明けて引き揚げた。

大賀島寺

2014年7月3日

方谷署名活動の準備の夕方大賀島寺{(岡山県瀬戸内市邑久町豊原2868)歴研M氏と行きました。大雄山」(152m)山頂で入り口が分らず、畠山製菓の奥とのこと。間違って宇喜多直家誕生地P1010283 P1010313 P1010314 P1010318 P1010320 P1010323 P1010330 P1010339を奥のキャンプ場につき、入り口は別の所で山を回って山頂に付きました。和尚は不在で電話すると10分で戻ると、待っていると若い僧侶(35歳とか)と総代が2人に会いました。何事か駆けつけてくださったとの事でしたのでしょう。

訪問の理由をつたえ、系図、詮家の本を見せ、研究会の参加にも快諾を得ました。条件は本の代金(未定)だけは伝えました。

そして720日に舟遊さんの時、邑久町ダンジリを部分的にも借りたいと申し出ると各町内の持ち物で直接許可が必要とか。

お寺のパンフレットもなく関係位牌も焼却し無くなって、五輪塔が数基あるが全く読めない。

又宇喜多詮家の誕生地は、備前福岡の小西屋敷であろうと分り、そこを改めて訪問することとした。

又、4月29日 岡山県瀬戸内市邑久町 大賀島寺権現祭り

雨の為、だんじり、神輿運行は中止となったが祭礼は行われた。
だんじり蔵の前にて、子供だちがシャギリ奉納する。
拝殿にて、若い衆たちが神輿を何回も何回もぐるぐる回す。
その中にお坊さんがいる!
江戸時代の神仏習合の伝統が受け継がれています。  撮影 川瀧健司氏

を見ると素晴らし催事で、7月20日に現物は無理かもし知れないが写真を展示し舟遊山を盛り上げたい。

大賀島寺は詮家が切腹した時、津和野の戻りここの僧となったと伝えられるが、島であったのであろうか。