備前軍記31


NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第29回「天下の秘策」は、信長の死をこの場限りの秘密として、和議を進めるとの官兵衛の提案に、恵瓊は乗った。 ただ、和議を進めるためには、高松城の始末をつけなければならない。おねのいる長浜城はどうするのか……善助ら三人の意見を官兵衛は一蹴した。

返答を迫る官兵衛に、とうとう隆景はうなずいた。 和睦はととのった。官兵衛が信長の死を知って、わずか数時間後のことである。

黒田の陣に戻った官兵衛は、長政はじめ、善助ら家臣たちを集めた。 日を置けば、明智の勢いは増すばかりだ。そうなる前に討ち果たすしかない。武具を運ぶ手はず、街道筋での炊き出しや松明の手配……善助たちは慌ただしく準備に取りかかった。 姫路への使いには、長政が名乗り出た。

天正10(1582)年6月4日、毛利の礎となって死ぬことは本望だと言って、宗治は切腹した。 一方、堺に滞在していた徳川家康は明智の手から逃れるため、三河に向かっていた。世に言う「伊賀越え」である。本多忠勝ら家臣に守られながら、家康は命からがら三河へ逃げきることができた。

翌六月五日、光秀は安土城に入った。かつて信長が座っていた上座に天下人然として座り、茶道具や金銀珠玉など、信長の秘蔵品をすべて家臣たちに分け与えた。

おねの決断で城中の者が逃げ出した長浜城に続き、丹羽長秀の佐和山城が落ち、京や近江周辺も明智に従った。しかし、中には細川藤孝のように、光秀と親戚関係にあるにもかかわらず従わない者もいる。

藤孝は剃髪して名を幽斎と改め、家督を息子の忠興に譲っていた。

一方、秀吉は、中川清秀はじめ、明智から誘いを受けているであろう武将たちに書状を書いた。

「上様も信忠様も生きておられる。」 書状の内容に、官兵衛は目を見張った。 清秀だけではない。去就に迷っておる各地の武将に偽文を書きまくるのだ。これも戦じゃ」  官兵衛は笑んで、秀吉に言った。

命がけの忠義に感激する秀吉を残し、官兵衛は再び小早川の陣へ。官兵衛と恵瓊はハッとした。すでに隆景のもとに書状が光秀から届いていた。 しかし、官兵衛の説得に、隆景は折れた。

6月6日、秀吉は三万の兵たちを前に言った。 官兵衛はいっせいに移動していく羽柴軍を見送った。 毛利の旗も引き始めた。追っ手を元春出そうとするのを隆景が止めた。 秀吉の軍勢は驚異的な速さで京へ向かった。世に言う「中国人返し」の始まりである。

翌6月7日、吉田兼和が勅使として安土城に赴き、光秀は朝廷という後ろ盾を得た。しかし、秀吉軍が猛然と迫っていた。

 

☆新釈備前軍記 備中高松の城攻め並びに所々城攻めの事③

さて六月六日の早朝、備前勢がまず岡山に帰陣し、次いで同日未の刻(午後二時ごろ)秀吉が陣を引き払って辛川村に至り、ここで人数を分け、主力は半田山の前の古道から旭川の釣の渡を越え、先陣から順次東進した。秀吉は旗本の人数だけを従え、矢坂を越えて岡山に赴いた。

宇喜多八郎は明石飛騨を従え、岡山城下の町口まで迎えた。秀吉は懇ろに挨拶して岡山城に入り、暫く八郎と対面した。八郎の家臣浮田七郎兵衛・浮田左京・明石飛騨・戸川助七郎・長船又右衛門・花房弥左衛門らも次の間に控えていた。このとき戸川平右衛門は関東の草津へ入湯に赴き留守であった。

秀吉はこのとき八郎に向かい、

「今度の備中合戦の勝利は、ひとえに宇喜多勢の働きの賜である。そのため毛利方が和睦の印しに差し出した河辺川以東の地は、直ちに八郎殿に進呈するから知行なさい。某はこれから上洛し、明智光秀を退治する。この目的を果たした上は、八郎殿を私の聟にしよう」

と約束した。

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