6月 2014 のアーカイブ

備前軍記24

2014年6月7日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第22回「有岡 最後の日」は、幽閉された官兵衛は

窓の外に見える藤の花に微かな善助の声を聴く。牢番の加藤又左衛門に気づかれそうになる。

腰を上げない毛利軍に有岡城の家臣は焦りの色を濃くしていた。村重は激高し、太刀を振り回すようになっていた。

善助の官兵衛が生きている情報は姫路の官兵衛の父・職隆から、平井山の本陣にいる羽柴秀吉へと伝えられた。また、半兵衛から官兵衛の嫡男・松寿丸も菩提山の庵にかくまっていると伝えられた。竹中半兵衛は静かに三十六歳の若さでこの世を去った。

有岡に毛利軍が来る気配はなく重臣たちの逃亡、自害者が出て、村重自身も毛利を迎えに行くと尼崎城に逃げた。

織田軍が城門を破ってなだれ込むのに合わせて善助らは官兵衛を背負って助け出した。

☆新釈備前軍記 備中忍山の落城並びに金川城夜討ちの事

天正6年(1578)11月中旬、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景は、三万余の軍勢を率いて出陣し、備中・備後の兵を先鋒として備中に進出し、高田村忍山(現岡山市上嵩田)の城に籠る浮田信濃・岡剛介を攻めた。

吉川民部大輔壮言は忍山の東に布陣し、伊賀与二郎は毛利勢の一部を加え、七百ばかりで津高郡勝尾山に陣を取り、毛利勢を後方から岡山勢が攻めることを予想してそれに備えた。毛利勢は精兵を選び昼夜を分かたず攻め立てたが、城内は少しも騒がず弓・鉄砲を放って防戦した。

しかし、信濃も剛介も小勢であったから岡山へ加勢を乞うた。そのころ直家はなお病床にあったので、岡平内・長船又三郎・片山惣兵衛らが加勢の大軍を率いて出陣し、忍山の北東に当たる鎌倉山に布陣した。

吉川経言は、手勢一千余人を二手に分け、岡山勢に攻めかかり、岡山勢が打ち負け浮き足立つところを、芸州勢は勇を鼓舞して切り崩した。城中よりこの形勢をみた浮田信濃は、自ら城を出て戦った。古川の先手が打ち負け、新手を繰り出して戦うところへ、岡剛介が城中から出て攻め立てた。小早川勢も城兵の側面から攻め込んだので、信濃も剛介も兵をまとめて城に入り、門を固く鎖して防戦した。そのため毛利勢も攻めあぐみ、備えを後方に移して年を越した。

明けて天正7年正月上旬、城内に毛利方に内通する者があって城に火を放った。時あたかも風が強かったので、火の粉は飛び散り、城中の小屋は一斉に燃えあがった。寄せ手は兼ねて合図のことであったから、この火を見ると一斉に四方の壁に取りつき攻め込んだ。城兵は防戦の術もなく逃げ散ったが、五百三十余入が討ち取られて城は落ちた。

伊賀与二郎は、去年から勝尾山に陣取って岡山の後詰めの軍勢と合戦し、遺恨を晴らそうと待ち構えていたが、直家は、近いうちに秀吉を語らい、上方勢と一緒に毛利を潰そうと計画していたので、忍山城の後詰めにはさほど意を用いず、さして大軍を送らなかったので、伊賀与二郎は働きをみせる場面もなく手をこまねいていた。とはいえこのまま引き揚げるのも残念に思い、兼ねて虎倉城周辺の地理をよく心得ていたから、自分の手勢だけを引き分け、金川城(現御津町金川)に夜討ちをかけた。しかし金川城を預かっていた宇喜多春家がよく防戦し、勝利を収めることが出来なかったので、与二郎は翌朝早く引き揚げた。しかし、これでは遺恨を晴らすことができず、或る夜、城中の油断を見はからって夜討ちをかけ、鉄砲を放ちながら城に攻め込んだ。城内の兵は皆寝入っていたところを不意討ちされたため、必死に防戦したが、五十余人枕を並べて討ち死にした。

しかしこの防戦の間に手筈を整え城門を鎖し、狭間から弓・鉄砲をもって防いだので、伊賀与二郎は城を乗取ることが出来ないままに引き揚げた。しかし、この五十余の首級を取ったので少しは遺恨も晴れ、この首級を毛利の陣に送った。彼は虎倉を出て備後の三原に赴き、小早川隆景の配下に属した。