剣豪大名詮家


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詮家は忠家の子で基家が長男であったとも言われ基家は直家に養子に入ったが、秀家が生まれた。また、基家は八浜合戦で凶弾に倒れた。その直前の直家が亡くなる直前の三星城合戦に元服した。詮家は、16歳で大人として認められ素晴しい若武者であった。剣豪としても武蔵、柳生などと並ぶ剣豪とした、また、3万石の富山城主として小早川との辛川合戦に勝利し当時のニューヒーローの登場に若い娘は憧れであったでしょう。当時すでに結婚していたが定かでない。直家の家来の戸川逵安の妹君妙円と結ばれた。

由  諸

庭瀬の領土公の妹君は、備前宇喜多忠家の嫡男左京亮詮家に嫁がれたが、不幸にして若くして亡くなられた。

母堂の妙承尼(常山城主友林院殿の室)は大変嘆き悲しまれ、新しくお寺を建てて姫君(真了院殿妙円大姉、慶長八年十月一日逝去)の冥福を祈ってやろうと思いたたれた。逵安公も又、妹君の死を哀れむと共に、ご母堂の心のうちを察してその願望を叶えてあげようと思いたたれ、三千余坪の土地を寄付して、当山を開創して日鳳上人を開祖に迎えて啓運山盛隆寺と名付けた。

昔この地方は、殆どが真言宗だったが、戸川公の勢威と開祖の徳化によって寺も檀家も改宗させて、所謂『妹尾千軒皆法華』の基礎を築いた。

それ以来四百年余りである。今日、大坊、上寺、今寺、善性寺などの地名が残っているのは、真言宗時代の各寺院の旧跡である。

妙円は早くなくなり何歳で結婚したか、年齢も位牌に書いてなっかった。

仁王門縁起

現在のものは宝暦12年(1761)日領上人の代に改築されたものである。なお、仁王像は日蓮宗にはないもので、これは、この寺が真言宗であった当事のものである。

仁王尊は、力が強く、勇気があり、外敵を払って仏教を守護するもので、向って右の像を「密迹金剛(みっしゃくこんごう)」向って左を「那羅延金剛(ならえんこんごう)」と称している。

密迹金剛は、口を開いて「ア」と発声し、万物の表を意味し、那羅延金剛は口を閉じて「ウン」の形をあらわし、万物の裏を意味し、一切の言語の発声は、この二音に帰することから、「アウン」とは相対する二つのものの意味である。万物はすべて表裏あり、これを見ぬいて仏を保護し、仏を信じない者は山門を入るを許さず、門前で追い払うものだと言われている。

続いて早島の戸川記念館で更に詳しく聞くつもりが休日しか開いてなとのことで日曜日午前中に庭瀬の不変院で聞くこととした。

 

 

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