中國大返し案内板


IMG_5855 野殿大返し図最終_edited-2 ime_0002 ime_0004 ime_00056月4日高松城水攻め後、当日中国大返しの夕方には宇喜多忠家・詮家の屋敷に秀吉・官兵衛が立ち寄り重要な軍議を開いた。後に千姫事件を起こす詮家(あきいえ)は、幼時、人質として芸州毛利家にあったが、直家が織田方に翻ると毛別輝元の恩赦によって帰国した。そして、作州の三星城合戦で初陣を飾り、柳生宗矩と並ぶ若き武将であった。詮家の父は忠家で、宇喜多直家の実弟で若いときから兄を扶けて度々戦場に臨み活躍した勇士であります。四万石を与えられて、宇喜多家の筆頭家老となり、富山城主となりました。妻は、戸川達安の妹君です。富山城は、毛利に対する備えなえの城で直家、忠家が築城したとも言われますが、忠家・詮家は秀家に気を使い野殿に御殿を築いたことでしょう。水郷の中にあった屋敷は、洪水で再々ながされ当時をしぶものは一切なくなっています。
関ヶ原の戦で、吉見氏は萩へ退転した。津和野藩は一時期幕府直轄領となり大森銀山奉行が支配した。
その後、慶長六年(一六〇一)十月、坂崎出羽守直盛(成正、成政、直行、重長、信顕、詮家、左京亮)が津和野藩三万石城主として入城した。元和二年(一六一六)「千姫事件」で廃絶になるまで、津和野における坂崎氏の治世は、一代十六年間である。直盛については町史第二巻で詳しく考証されているが、この町史第四巻の目的は日本史とのかかわりにおいて編纂することである。そのことからすると直盛の「千姫事件」ほど日本中はおろか世界にまで知られた事件は少ない。特に幕藩体制の確立期に、時の権力者に抵抗した事件に対しては、ことの善悪によらず批判は厳しく、時代の声におもねった先入観と偏見にとらわれた史料がなしとしない。
後代の藩主は前代の藩主の事跡を学び、教訓とする。いわゆる「歴史に学ぶ」のである。例をあげれば、三代亀井茲親の勅使などへの接待役としての対応の仕方、幕末の動乱期に無傷で藩を守った十一代藩主亀井茲監の生き方などは、直盛の生き方が少なからず反面的教訓となって影響を与えていたのではないかと思われる。津和野に土着した吉見氏の遺臣の多くが庄屋に取り立てられたこと津和野へお預かりとなった秋田横手城主・小野寺遠江守義道(三万石)への温情など、地元の津和野の視点で直盛像を見直すと、人情味にあふれた一面が見えてくる。熱烈な日蓮宗の宇喜多家の出でありながら、浄土宗への帰依などむしろ信長に近い革新的な一面も発見できる。
直盛が津和野で行った事業とは何か
一、津和野城の大改築
一、城下の町の形成と整備
一、防火用水路の開発と整備
一、産業開発、特に石見半紙の原料である椿の植え付けなどである。
短期間に大事業を次々に手がけている実績や今日の町並みの遺構を見ると、むしろ卓越した行政手腕を持つ藩士といえよう。もちろんその陰には、この事業を支え遂行した農民や商工業者のエネルギーがあったことを忘れてはならない。いずれにせよ、既存の史料により直盛像も一見定着しているように見えるが、改めて津和野の視点で、かつての史料も含め直盛の津和野における事跡等を通して直盛像を見てみたい。
直盛は最初、浮田左京亮を名乗った。父は宇喜多忠家(号安心)で、岡山城主・宇喜多直家の異母弟である。直家の子秀家(岡山五大老の一人、関ヶ原の戦ののち、八丈島へ流罪)とは従弟に当たる。直盛は父の跡を継ぎ、備前岡山藩の支城・富山城主となった。主家の秀家に従っていたが、主家の重税に対する農民の反抗に直盛も同調し、さらに秀家のキリシタン改宗による宗教対立などからくるお家騒動から、重臣戸川達安らと主家を去り、徳川家康に仕えた。関ヶ原の戦では主家・秀家が西軍に与したのに対し、直盛は家康に従い戦功をあげ、戸川達安の三万九千石に次ぐ津和野三万石を与えられ入城した。
入城後、宇喜多直盛は宇喜多の名を避け、坂崎と改称、対馬守、のち出羽守となった。(津和野町史)

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