5月 2014 のアーカイブ

中国大返しと太然寺・野殿御殿

2014年5月4日

矢坂山麓野殿の太然寺の沿革によると、当山の発祥は、遠く奈良時代に遡り、南都五大寺の一つ、奈良大安寺の荘園を管理する支院として創建されたものと推定されるが、その史実は定かでない。
その後室町時代の初め岩根山大然禅寺と称する禅宗道場となり、そのころにはほぼ現在の寺域を有していたものと伝えられる。
そして永禄4年(1561)戦国時代の初期、備前守護職松田一族の強い要求によって日蓮宗に改宗され現在に至る。
また、金神様の由来(本堂右側奥金神堂に安置)ime-2
当山に安置する八宝珠金神尊は、その昔、備中高松城の鬼門除けの為、城内の艮(うしとら)の方角に祀られていたと伝えられる。その後、あの有名な秀吉の高松城水攻めの激戦が行われた。梅雨の候、高松城周辺に大堤防を築き、足守川、長野川の水を引き入れ、高松城の周辺を水没させたのだ。しかしその当時、金神信仰が強く、金神尊の鎮守を知る近郊の人々はこの無謀なる大工事を恐れ嘆き、必ずや神罰が下るであろうと、秀吉の陣営に進言した。そしてその直後、本能寺に於いて主君織田信長が明智光秀の手によって討たれたのである。
しかるに秀吉は京都へ引き返すに当たり、世俗に言われた金神尊の神罰を、主君信長の死と共にこれを恐れ驚き、水攻めによって無惨に荒らされた金神堂を再建するため、京都への道中、当太然寺に立ち寄り、当時の住職日尭上人にその再建勧請を託されたとされている。
時に日尭上人は快くこれを受け、法華勧請を施し法華経の守護神とするべく当太然寺本堂の艮(うしとら)の方角の位置に祀ったのである。
それ以来、今日まで四百数十年の長きに渡り、三年塞がり、鬼門等の方位を侵す新築、改築等の各種工事、結婚、転宅等の方除け、除災安全、家運長久の守護神として、岡山県はもちろん、近隣の各県より遠近を問わず参詣が絶えず、「金神様の太然寺」として現在に至る。
さらに門前には秀吉あるいは軍が飲んだとされる古井戸跡がある。右下の枡を開けると今でも湧き出している。P1030262 P1030265
また、『真説歴史の道第8号』(2010)p.10によると、天正10年(1582)6月5日、秀吉は摂津茨木城(大阪府茨木市)の城主で明智光秀に近い中川清秀に対して返書を送っている。それによれば、野殿で貴下の書状を読んだが、成り行きまかせで5日のうちには沼城まで行く予定であると記しており、同時に、ただ今京都より下った者の確かな話によれば、
『上様ならびに殿様いづれも御別儀なく御切り抜けなされ候。膳所が崎へ御退きなされ候。』
と述べている。つまり、上様(信長)も殿様(信忠)も無事に難を切り抜け、近江膳所(滋賀県大津市)まで逃れているということであり、続けて福富平左衛門が比類ない働きをした、めでたい、自分も早く帰城すると記している。
これは、明らかな虚偽の情報であった。この手紙が高松の陣で書かれたのか、野殿で書かれたのかは不明であるが、本能寺の変にともなう清秀の動揺や疑心暗鬼を、偽情報を流してでも鎮めようとしたものと考えられる。秀吉は既にこの時点で、情報操作によって少なくとも清秀が光秀に加担しないように気を配り、事を自らの有利に運ぼうと画策したことがうかがわれる。
ここで、野殿に秀吉軍が泊まった可能性が高い、泊まらないでも忠家の屋敷で手紙を読み返事をしためたであろう。宇喜多直家が岡山(石山)城を築城したころ、弟の宇喜多(浮田)忠家は松田を滅ぼした後、矢坂山に富山城を毛利の備えとして築城した。この城は、直家の構想で平賀元義によると岡山城より大規模な計画だった云われている。
その麓に野殿城があったとされるが、富山城の根小屋で忠家・家臣が暮す御殿であった。忠家は岡山城より高松城攻めに参戦したとなっているが、野殿より行き、秀吉軍を帰りに招いたであろう。直家は,天正9年(1581)に無くなり、9歳の秀家が家督を継ぎ、基家が実務を行っていたが八浜合戦で亡くなっている。
野殿には、城の内の字名が残り、田んぼ中の暗渠工事中に石垣が出て来て遺物も発掘されたと地元では云っている。

備前軍記19

2014年5月2日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第17回「見捨てられた城」は、毛利を討つためには上月城は切捨てよと信長は秀吉に。高倉山に戻った秀吉は官兵衛に伝え、官兵衛が上月城で尼子勝久、山中鹿之助に城を毛利に明け渡すよう伝えた所、失望の末、天正6(1578)年7月5日、勝久が切腹し、上月城は開城した。鹿之助は単独で毛利の頭領を討つべく囚われるが毛利の罠にはめられ討たれる。

書写山で半兵衛は官兵衛に最良の策を考え、実行する軍師の心得を説いた。

村重は神吉城主・神吉頼定の叔父である藤太夫の命を助け、隙をつかれて志方城に逃げられるという失策を犯す。村重は信長に尼子のごとく見捨てられるかもしれないと怯えた。

官兵衛が調略の手を伸ばして毛利の背後をかき乱したため、毛利も備前から引き揚げた。

志方城は孤立無縁となり、城主・櫛橋左京進はついに切腹し、4人の娘は官兵衛が引き取った。

秀吉は三木城攻めに架かった。

有岡城の村重は安土に向かうか悩んでいた。

☆ また上方勢にしても、中国勢との手合わせは初めてのことであるから、さすがの勇将の秀吉も戦さを好まず、互いに睨み合って対陣した。京都の信長も、この合戦は殊の外大事と思ったのであろうか、加勢の人数を相次いで繰り出し戦力を増強した。秀吉も聖護院の宮に祈祷の連歌を頼み、5月18日京都で連歌の興行が行われた。その発句は、

常盤木もかつ色みする若葉かな  宮

ゆふかけふかき夏山の露     秀吉代句

村雨の音しをとせぬ月出て    紹巴

聖護院の宮は、百韻を成就して後、懐紙に御酒を添え、秀吉の高倉山の陣へ送られたそうである。秀吉もこれほどまで今度の合戦を重視したから、大軍を擁しながら毛利軍と対陣したまま5月も過ぎ、6月も末になった。

さて、高倉山の秀吉の陣所の麓に、熊見川という流れがあった。暑い夏の頃であったから、兵卒たちはこの川へ、朝夕水を遣いに出たり、馬の足を冷やしに出掛けることが多かった。この対岸には、宇喜多の摩下の中村三郎左衛門が先鋒として備えていたが、この川端に出てくる敵兵を討とうと、川岸の柳林・草叢に伏兵を忍ばせていた。そして6月28日、いつものように高倉山より多くの人数が川岸へ現れた。それを薮陰から狙撃し三人を撃ち倒し、続いて中村の兵が川を渡って打ちかかった。秀吉方も備えから飛び出して防戦した。中村の兵は小勢で危くみえたので、備前勢は援兵を繰り出して戦った。

こうして戦端が開かれると、敵味方共に軍勢を増して大規模な合戦となった。その他上月郷内へ秀吉方が二万の大軍を繰り出したので、毛利方も一万余騎をもって迎え討ち、三ヶ所に分かれて戦闘が展開された。敵味方ともに討ち死にし、手負いの者も多く、また高名手柄の者もあり、互いに兵を引き揚げその日の合戦は終わった。

その後、秀吉は中国勢との合戦に勝利の見通しは立たぬと思ったのであろうか、これだけの大軍を擁しながら、兵をまとめて書写山へ引き揚げた。上月城に取り残された尼子勢は、これをみてすっかり失望落胆し、戦意を失ってしまった。尼子勝久は、もはや籠城を続けることは叶わぬと判断し、毛利の陣へ使者を立て、大将である自分か自害して士卒の命を助けたいと和を請うた。

そして7月3日、尼子左衛門尉勝久・同助四郎氏久・神西三郎左衛門・加藤彦四郎政貞は自害した。立原源太兵衛は城を出、山中鹿之介幸盛も安芸へ下ったから上月はついに落城した。

鹿之助は作州路を経て芸州に赴く途中、備中国河部川(高梁川)の阿井の渡で、天野紀伊守の家来河村新左衛門・福間彦右衛門のために討たれた。享年三十九歳であった。その墓は今も阿井の渡(現高梁市落合町阿部)にあって、名を永く後世に残したのである。