備前軍記23


NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第21回「松寿丸の命」は、天正6(1578)年12月有岡城下の銭屋を借り文四郎ら4人は官兵衛の消息を探っていた。

信長は有岡城周辺の地図を前にして、家臣たちに指示を与え総攻撃を開始した。

土牢の官兵衛は、音を聞き、牢番の加藤又左衛門が、官兵衛のつぶやきを聞きつけた。

銃声が四方からする。攻め口をひとつにしぼるべきなのだ。これではいたずらに兵を失うばかりだ。

信長は、官兵衛が入れ知恵をしたに違いないと決めつけた。「人質にとった息子、松寿丸の首をはねよ」 秀吉に代って半兵衛が命に従った。半兵衛は長浜で松寿丸を切ったのち療養のため故郷の美濃へと出発した。

嗚咽し始めた光のもとに秀吉の奥おねより松を描いた扇子が届いた。暗に松寿丸は生きていると。

官兵衛は、村重の妻・だしから、松寿丸の死は自分のせいだと聞き、茫然として膝からくずおちた。天正7(1579)年正月氷つく土牢で官兵衛はどん底にいた。

春の光の差し込む小さな窓より藤の花見て、官兵衛の頬を涙が落ちた。

☆新釈備前軍記 虎倉の城主伊賀久隆を直家毒殺する事

伊賀左衛門尉久隆は津高郡虎倉(現御津町虎倉)の城主で、無二の宇喜多方の武将であった。

また直家の家臣に難波半次郎というものがあったが、密かに毛利家に通じ、何とか謀計をもって伊賀左衛門尉を殺害し、毛利家への手柄にしようと思っていた。

天正6年9月のころ、半次郎は、伊賀左衛門尉が毛利家に内通しているように直家に讒言した。直家はこれを讒言とも思わず、何の調査もせず、伊賀を殺害しようと企てた。左衛門尉は、兼ねて岡山城下にも屋敷を拵え、父子交代で虎倉の城を守り、また岡山にも詰めていた。

左衛門尉が岡山に居たとき、直家は左衛門尉を響応するといって、左衛門尉の家来まで呼んで料理を振舞ったが、このとき左衛門尉の料理に毒が入れられていた。

さて城を下った後、直家の料理人で、伊賀の家来に所縁のある者があって、

「今日の料理には毒が入っております。急いで解毒の薬を服用されて下さりませ」

と密かに告げた。

これを聞いた左衛門尉は、

「いま解毒剤を用いて難を免れたとて、とても生かしてはおくまい。同じ死ぬる命ならば、城に楯で籠り討ち死にするこそ本望である」

とて、急いで岡山を発し、馬を急がせて虎倉の城に戻り、子の刻(午前零時ごろ)に城に入ると、家来を集めて籠城の手配りをし、門という門をすべて差し固め、岡山の討手を待ちうけた。

左衛門尉の嫡子与二郎は、急いで解毒剤を調えて父に進めたが、最早延引し手遅れになっていたためか、暁方になって左衛門尉はついに死んだ。

左衛門尉が岡山を退去したと聞いた直家は、浮田源五兵衛を虎倉に遣わし、仔細を問わせることにした。源五兵衛は足軽五十人を召し連れ虎倉に到着したが、その時にはすでに城門を差し固め、用心厳しくみえたので、源五兵衛は足軽どもを伏せ置き、わざと一人で城の木戸に近づき、直家の使者である旨を伝えた。しかし答える者はいなかったので、仕方なく岡山に帰り、伊賀籠城の旨を復命した。しかし直家は虎倉の城を攻めることもせず、そのまま暫く打ち過ぎた。

伊賀与二郎は城に籠ると共に、毛利家へ使者を立て、左衛門尉が直家に毒殺されたことを伝え、以後は毛利家に味方することを約束し、宇喜多追討の軍を出される時は、自分か先手を仕り、父の仇を報ぜんことを申し入れた。

与二郎はその後暫く在城したが、舅の明石飛騨が内密に、このまま在城しては身の安全は保てまいと退城を勧めたので、正月下旬虎倉の城を落ちのび、毛利の軍が備中に進出したのを機に一緒に毛利側に退いた。直家はその城を長船越中に守らせた。しかし当時越中は播州駒山の城にあったので、その城には越中の弟源五郎、越中の妹聟の石原新太郎や有年・大田原らを入れて守らせた。

注 一説によると、直家が、伊賀左衛門尉の家来川原四郎左衛門という者を誘って左衛門尉を毒殺させたとも、また直家が川原と謀って殺させたともいう。

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