備前軍記22


NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第20回「囚われの軍師」は鞆ノ浦の足利義昭が有岡城へ使者を送るなど毛利が水軍を動かすと。

一方、摂津に入った信長に容易に落とせる城ではなかったが、半兵衛が妙案を出した。

「石山本願寺と有岡城との間はわずかに三里半の中間に砦を築き断つべきと」

毛利の水軍は、信長の鉄甲船の前にあっさりと敗れ去った。

信長は、キリシタンである高山右近を調略しようと画策していた。

姫路には、官兵衛が死んだという知らせが御着から届いていた。家中の結束には少しずつ亀裂が生じ、小寺の家臣が御着に帰って行った。松寿丸の親友又兵衛もであった。

信長の本陣に、髪を下ろし、紙の衣をまとった右近が現れた。信長は高らかに笑い切りかかり、「これまでの右近は死んだ!」と、右近を許した。茨木城主・中川清秀も態度を豹変させた。清秀からの情報で有岡城の兵糧は十分、兵の士気も高く、官兵衛が生きて牢に捕らわれていることも判明した。

黒田の家臣たちは、有岡城下に忍び込んで官兵衛の安否を探っていた。官兵衛も「だし」の手引きで脱出しようとしたが、村重に見つかり地下の土牢に閉じ込められた。岩がむき出し、天井は低く、立つこともできない。どこからか、かすかに賛美歌が聞こえてくる。以下は、新釈備前軍記より転載する。

☆前回、直家も信長に和睦を望んだが、秀吉を介して申し入れたいとも思ったが、兼ねて戸川平右衛門の二男孫六を、毛利家へ人質に出して居ることで思案していた。平右衛門は、「孫六が少しも御案じ召さるな。」と意見し和睦を重ねて進言した。直家はこの平右衛門の言葉に感悦し、「それでは上方と一味することに決定する。孫六については追って取り戻す手段もまたあるであろう」と語り、織田家との講和を進めることにし、まず播州の秀吉さて、芸州へ人質に遣わされていた戸川孫六であるが、当時芸州安固寺の僧恵瓊が上京し、下向の途次岡山を通るのを呼びとめ、相談したい儀があると偽って岡山城内に捕え置き、芸州に使者を送り、

「我が方は恵瓊を捕えているが、戸川孫六を返し給われば、恵瓊も返し申すであろう」

と申し入れた。毛利家も承知し、約束を定め、阿部川(高梁川)の辺りで人質を交換し、孫六は危く虎口を逃れて岡山へ帰った。

また今度、秀吉への使者に添えて遣わされた小西屋弥九郎は、もと堺の町人小西寿徳という者の二男である。また直家が幼少のころ世話になった福岡の豪商阿部善定なる者の手代に、源六 という者がいた。直家が岡山城を取り立て、国中の商売人を城下へ呼び寄せた時、この善定の手代源六も岡山城下の下之町に出て呉服商を始め、魚屋九郎右衛門といった。しかし実子がなく、かの小西寿徳の子の弥九郎を養子としていた。

秀吉は若年の頃、大坂・堺などへ上った時はこの寿徳のもとに居たから、弥九郎とも自然友達となった。弥九郎は秀吉とこのころからの馴染であった。そのため今度も使者に同行したのであるが、これから一層人魂の間柄となった。

そのうえ弥九郎は、生まれつき利根発明な者で、町人ながらも秀吉の使者となって諸方に使いし、また間者のような仕事もしたが、やがて呼び出されて侍に取り立てられ、小西弥九郎と名乗った。その後次第に立身した。後に豊臣家の五奉行の一人となり、小西摂津守と称したのはこの人である。いま堺や岡山にある小西屋というのは一族末葉であるという。

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