4月 2014 のアーカイブ

矢坂山ツツジ祭新聞に

2014年4月3日

4月12日の矢坂山ツツジ祭の申込者が締切1週間前に講演会に残席が少数あり、散策会は定員の半数を超えた程度であったため報道機関に周知の依頼をしました。
山陽新聞より掲載するとの連絡があり今日の朝刊の催物欄に掲載されました。
締め切りを過ぎているため散策会は申し込み不要としましたが、チラシには書いたのですが、駐車スペースがないことを忘れていました。
当日押しかけて近所の道が混雑したり、無断駐車が無ければよいのですが。気がかりです。
以前の講演会でも事前申し込み要としていたんですが、当日来れれた方が右往左往して困ったことがありました。

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備前軍記15

2014年4月3日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第13回「小寺はまだか」は、松寿丸が人質となって長浜に行き、天正5年(1577)年10月に秀吉が播磨にやってきた。

そして官兵衛は姫路城を秀吉に明け渡し、秀吉は官兵衛に義兄弟の契りを結ぶ誓いの誓紙を与えた。

姫路では、官兵衛が秀吉に拝謁するよう播磨じゅうを説いて回ったため、おもだった地侍たちが続々と城を訪れていた。所が、三木城主の別所と御着城の小寺は、当主がはやり病だと言って名代を送ってきて、当然秀吉は気分を害した。

本願寺攻めに手を焼いていた村重が和睦を提案したのに対し、信長は鉄甲船に大砲を積んで毛利水軍と門徒を根絶すると息巻く信長にぞっとした村重であった。

官兵衛は義兄弟の契りを結んだ誓紙で秀吉への心酔ぶりを危うくなっていることに危惧した半兵衛は誓紙を燃やしてしまった。

官兵衛は目の前の霧が晴れ、秀吉を御着城に連れてゆき、小寺に合した。

秀吉率いる八千の軍勢は西播磨へ兵を進め、毛利に与する福原助就の居城・福原城を攻撃が始まった。

乱世を終わらせる天下統一に向けて軍師官兵衛が誕生した。

☆阿閉城で秀吉勢の先鋒黒田官兵衛の勢いに負けた。直家は敗残の兵をまとめ、阿閉の城下を引き払い、直ちに上月城に攻め寄せ、その後詰めの軍勢が到来するまでにと、一挙にこれを攻め落とし、真壁彦九郎に兵を授けて城を守らせ、そのまま岡山へ引き揚げた。

さて尼子勝久は、そのころ京都に上って信長に属し、明智日向守光秀の摩下にあったが、このたびの秀吉の播州下向にはその軍に属し、出陣して再起を図り、秀吉に上月城の奪回を願い、勝久自ら二千金騎を率いて攻め寄せた。真壁彦九郎は生まれつき臆病者であるうえ、先日の合戦に味方が敗北したことで弱気になり、敵がまだ城を取り巻かない先に、城を捨てて岡山へ逃げ帰ったので、尼子勢が代わって上月の城を守った。

真壁の弟の次郎四郎は岡山にあったが、兄の彦九郎が上月城で一戦も構えず逃げ帰ったことをを無念に思い、彼は直家に上月城に押し寄せ城を取り戻したいと願った。直家は、

「よくぞ申した」

と称揚し、次郎四郎に三千の軍勢を授け上月城に向かわせた。

次郎四郎は、兄彦九郎の恥辱をすすごうと決死の覚悟をかため、妻子に今生の別れを告げ、南無妙法蓮華経の跳題目を笠印に書きつけ、天正六年の正月末岡山を進発し、その翌日には上月城下の手前六十町余に布陣した。その夜は同地で夜を明かし、明日の城攻めに備え馬の鞍をはずし、具足を脱いで休息した。

この情報を得た上月城の山中鹿之介は、

「真壁次郎四郎が、兄の恥辱をすすがんと覚悟を決めて来たからには、相当烈しい合戦を挑むに相違ない。ここは一番、この方から逆に夜討ちをかけるが上策であろう」

と精兵八百余人を選抜し、合印・合言葉を定めて出発した。ほかに加藤彦四郎に三百余人を付けて一町余子前に備えさせ、また神西三郎左衛門に五百人を付けて五町ばかり手前に布陣させ、これを予備の部隊とし、もし自分の主力が討ち損じた時は、入れ代わって討つよう申し含めた。

そして鹿之介は真壁の陣の近くに攻め寄せ、その近辺に火を放ち、鬨をつくって斬少込んだ。

時は余寒厳しい季節であったから、備前勢はみな身を縮めて伏していたが、そこへ不意討ちを掛けられたから、太刀を干にする暇もなく我先にと逃げ散った。それを尼予勢は追い詰め追い詰め討ち取った。真壁は逃げ行く味方をおし留め、なにとぞ一戦構えようと、床机に腰掛け下知したが、そこへ腹巻も着けぬ素肌の徒武者が駆け寄り、真壁に斬ってかかった。真壁は床机から立ち上がりざまに抜き打ちに斬り返し、真向から唐竹割りに斬り捨てた。つづいて安達治兵衛が斬りかかった。真壁は同様に一太刀に折り捨てようと斬り掛かったが斬り損じた。それに乗じて安達は真壁の両膝を共に薙ぎ払った。真壁が流れるように倒れるところを安達が押さえ、その首級を挙げた。安達はこれまで数度の武勇のある者であったから、弟の安達慶松も彼と共によく働いたので、その首級を弟に与えて手柄を譲り、勝久へは慶松が討ち取ったと披露した。

その一夜の間に討ち取られた備前勢は七十余人に及んだ。その他討ち死にを免がれた者たちは岡山へ逃げ帰り、直家に敗軍の次第を報告した。直家は再度の敗け戦さに大層立腹し、今度こそは、自ら出陣して上月城を攻略しようと軍勢を集めた。

矢坂山花便2014②

2014年4月2日

大安寺東町より岡山市貯水池横を通り尾根を縦走しすべり山に出ました。所々満開となったツツジが見られました。それでもまだ1割程度で蕾が硬いのが多いようでした。
すべり山のツツジはほぼ満開となっていました。P1020923
鯉が池に降りると鯉恋桜はは葉桜となり淡いピンクの葉のみとなっていました。池に花が漂ていました。P1020928
染井吉野は満開でした。
与太郎桜は葉芽を出し始めていました。P1020931
野山ツツジ広場では一株に花を付けていました。
大安寺駅に降りる道では、法事古墳への道の少し降りた右側手の通称八畳岩(2~3畳だが)の下に群生地が広がり、昔岩の上から酒盛りをしながらツツジを楽しんでいたのであろうか。小さなツツジの苗が芽吹いている。P1020934 P1020935
中腹を過ぎるとツツジは、まばらとなった。