備前軍記17


NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第15回「播磨分断」は天正6(1578)年元日安土城に信長が家臣を招き茶会が開かれた。秀吉は播磨攻略により毛利攻め大将に命じられ、毛利攻略に成功すれば播磨を与えると云われる。秀吉は播磨の地大名に信長につけば領地安堵の気でいた。一方、村重は石山本願寺との和睦がならず、失敗を信長に報告すると秀吉の配下として毛利攻をするよう命じられた。

このころ播磨では、官兵衛の義兄の志方城の左京進が安国寺恵瓊の調略もあり毛利に付くと対立がはっきりしてきた。信長の残獄なやり方に恐怖と毛利の領地の安堵に靡いた。

二月、秀吉は播磨へ戻り、加古川城において毛利攻めの評定を開いた。三木城当主の別所長治の名代の賀相が秀吉を差し置いて場を仕切った。毛利の調略により播磨が秀吉の領地となる噂に多くの地大名が寝返っていった。

☆    毛利・宇喜多勢上月城にて羽柴秀吉の上方勢と合戦の事

尼子勝久は、当年2月戦わずして上月城を明け渡し、世上の嘲りを受けたことを悔み、この度の上月落城を機に、再びこの城に籠城し防戦しようと、家臣を集めて評議した。

立原源太兵衛は膝を進めて反対した。

「その議は当を得ておりませぬ。世の嘲りは尤もでございますが、もともとこの上月城は要害の城ではなく、守り抜ける砦ではございませぬ。そのうえ今度は秀吉の加勢もあることゆえ、宇喜多側も毛利・小早川へ加勢を頼み、定めて大軍をもって攻めかかるであろう。このようであれば、この城に拠って尼子家の御運を開くことは無理でありましょう。当家の御運を開くためには、当面はどの御働きをなされているのが得策と存じます。

今後の局面の展開を考えまするに、毛利の御三家(毛利・古川・小早川)は織田家を敵とし秀吉と戦うでありましょう。しかし天下を治める織田の兵権には力及ばず、ついに毛利は織田に和睦を請うて服属いたしましょう。その時当家は、天下を掌握する織田家の威光を後楯に、本国出雲に打ち入ったならば、何の困難がありましょう。その時節到来までは、何とぞ危険な戦さは謹しみなされて然るべきかと存じます」

山中鹿之介は、これに反対し上月籠城の策を主張した。

「この度上月城に籠城すれば、必ずや毛利・小早川、さらには宇喜多も出陣するでありましょう。この連合軍と戦えることは幸いであります。暫く上月に籠城して防戦していれば、秀吉にしてもどうしてここを放置し、後詰めをせずにおられましょうや。もし秀吉の応援でなお危いようならば、必ずや信長公の出馬となりましょう。この大軍をもって毛利を討てば、どうして勝てないことがありましょうや。今こそ御家開運のときでございます」

勝久をはじめ、皆鹿之介の意見に賛成したので、勝久は秀吉に、再び上月城に籠り防戦致したいと願ったので、秀吉もこれを許した。

勝久はその家臣山中鹿之介・立原源太兵衛・亀井新十郎・吉田三郎左衛門ら二千三百騎を率いて上月城に楯て籠った。

この情報を得た直家は、直ぐにも兵を出し上月城の攻略にかかろうとしたが、秀吉が大軍をもって後詰めする心配があるため、軽率に攻め掛かることはためらわれた。そこで直家は、毛利勢の援軍を求めて、使者を小早川隆景のもとへ送った。

「尼子左衛門尉勝久は、二千余騎を率いて播州上月城に籠りました。これを討つことはいと易いことではありますが、攻め掛かれば羽柴筑前守が後詰めするは聞違いなく、そのうえ織田信長の上方勢が応援すれば大変な戦さになるものと考えられます。一刻も早く御出陣を願います。その時は某が先陣を承ります」

隆景は直ちに承知し、毛利拝元・吉川元春と共に兵を催し、天正6年3月12日、安芸国吉田を発し、同26日には備前国の一宮(現岡山市一宮)に宿陣した。

注 この時、隆景が出した制札が今も一宮に残っている。

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