矢坂山ツツジ祭講演会


野崎のさん

昨日、あきちゃんさんが、企画された「矢坂山ツツジ祭 講演会」へ行かせて頂いた。
午前中の矢坂山の散策には間に合わなかったが、午後の講演会、柴田元就実大学学長の「浮田忠家-宇喜多軍団の団結と分裂」のお話をお聞きした。P1030049 P1030050 P1030051
高校時代日本史を選択していたものの、苦手の時代が多く、戦国時代の群雄割拠の時代はもっとも苦手であった。歴史講演会も「虎頭要塞」を誤って聞きに行って以来、敬遠していた。「虎頭」の話、私は北満の生活、戦闘、逃避の話と思って出かけたが、「要塞」そのものの話でちんぷんかんぷんであった苦い思い出がある。
昨日は、能家~興家~直家~秀家と続いた「宇喜多家」の話である。忠家は岡山城を築城した直家の異母弟である。彼の乳母「妙珠」は女傑であったようで、彼女の周りの人々により、忠家を盛り立て、宇喜多家の礎を築いていったのである。直家死去の後、9才であった秀家の後見を勤め朝鮮にも出兵したという。その忠家の子、詮家が千姫との逸話で有名な坂崎出羽守である。
直家のあとを次いだ秀家は順調に出世し前田利家の娘豪姫をめとる。これがまた賢夫人で大坂に在住していた。ため秀家も岡山に住むことなく大坂にいて、秀吉の五大老のひとりまで上り詰めるが、宇喜多家では大坂組と岡山組の間に溝ができはじめていたという。
関ヶ原の合戦後、秀家は八丈島に遠島、豪姫は夫の遠島にも細心の心遣いをし、金沢に帰る。宇喜多家は分断され衰亡へと進む。忠家の働きで詮家は徳川勢の大名になり、秀家の家来の一部も旗本になった。
古くは有名な高松城水攻めの折も幼い秀家の代わりに家来が出陣し功をたてている。
とのお話であった。
あきちゃんさん言われるように、山ごとに城があるような時代が、だんだんと淘汰されていった時代にはじまり、関ヶ原合戦で徳川の天下となるまで宇喜多家であった。
門外漢の私にもわかる話であった。
コミュニティハウスで行われた講演会の会場の演題等はだいしさんの筆になる見事なものであった。皆、感心していた。
山にはところどころ、ツツジの色があった。同級生のSさんは散策にも参加され、満開できれいであったと言われた。P1030032 P1030034 P1030037
往きは徒歩で1時間かかった会場から、Sさんに同乗させて頂き10分で帰宅できた。
勉強した半日であった。
あきちゃんさんありがとうございました。

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