備前軍記13


NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第11回「命がけの宴」は、石山本願寺戦で毛利水軍が織田水軍を撃滅させた報が毛利の勢いを増していた。

官兵衛は播磨はじめ小寺さえ毛利になびく状況に思惑どおりには進まなかった。

半兵衛が、上杉、武田、北条が和睦し、背後をつかれる恐れがなくなった上杉謙信は、必ず上洛の兵を挙げようとしていて、今は播磨に兵を割く余裕はない旨を姫路城に伝えに来た。そのため、信長に頼るのでなく、織田のために働くことを求めた。

宇喜多直家の調略のため、お光の姉の嫁ぎ先の上月城の上月景貞を訪ねた。そこで待ち受けていた直家に見破られていた。直家の勧めで恐る恐る酒を飲み干した。その後、口から泡を吹いて絶命したのは、上月の家老・内藤平八郎だった。信長に通じていることを直家は見抜いていた。

官兵衛は摂津の荒木村重を訪ねたが、本願寺包囲に手一杯で播磨へ援軍は出せないと断れる。そこで、裏切りや憎しみのない国をつくりたいと言う高槻城主、高山右近を官兵衛は驚きの目で見つめた。

秀吉が勝家と仲たがいして北国から無断で兵を引きあげ、謹慎を申しつけられていた。

官兵衛が長浜城で目にした光景は秀吉が広間でどんちゃん騒ぎをし、おねや家臣はもとより、猿楽師、相撲取り、遊女までが入り乱れ、飲めや歌えやの大騒ぎだった。

このどんちゃん騒ぎは、逆心などないということを信長に証し立てるための宴だ。

ついに信長から毛利攻めの命が下った。

☆   1年先のことになるが「羽柴秀吉と宇喜多勢が播州で合戦の事」による、天正5年10月、羽柴筑前守秀吉は、信長公より播磨を賜り、西国征伐の命をうけて同国に下向し、まず書写山に陣取ったから、国中の武将は相次いで秀吉に降参した。

しかし御着(現姫路市御国野町御着)の城主小寺藤兵衛政職は、秀吉に降参しながら、毛利家を通じて摂津の荒本村重のもとへ人質を差し出すなど、秀吉を裏切る振舞いなどあって、御着の城に居りづらくなって安芸の国へ落ちのびた。しかし、小寺の家臣の姫路城主黒田美濃入道宗園(もとは備前国福岡の人)は、主君と扶を分かち秀吉に属し、その先鋒となって働き、居城の姫路を秀吉に差し出したら、秀吉は城普請の後にここに移った。

さて秀吉の上方勢は、播磨の直家の所領を侵しその諸城を攻めたので、播州佐用郡上月の城(現兵庫県佐用郡上月町)から、岡山の直家のもとへ加勢を乞うた。そこで直家は長船又右衛門・岡剛介に三千の兵を授け、上月城の後詰めに発向させた。彼らは秀吉の先鋒黒田官兵衛の後詰めの軍勢と戦ったが、秀吉勢の第二陣堀尾茂介・宮田喜八郎が前進して、備前勢の側面を攻めた。しかし備前勢の第二陣がこれと戦ったから、秀吉の先手は追い立てられ、宮田喜八郎は討ち死にし、堀尾茂介も重傷を負ったが、その郎党の松山小右衛門が、これを馬の背中に担ぎ乗せて退いた。秀吉もこれをみて、堀尾を討たすなと命じ、直属の旗本組を前進させ、備前勢に斬りかからせたので、ついに備前勢は打ち負けて敗走し、上月城もまた陥落した。

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