備前軍記5


 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第3回「命の使い道」は、広峯神社の「おたつ」が浦上に嫁ぐとき官兵衛の父黒田職隆の養女とした。官兵衛が室津城に着いたとき既に赤松に殺されていた。

御着城に帰っても赤松を討てず失意のどん底であった。美濃では、稲葉山城を、竹中半兵衛らが占拠していた。

父の案により、小寺城主より堺に鉄砲購入の命が出る。この時祖父より「命の使い道」の言葉を貰う。1543年のは種子島への火縄銃伝来している。1506年(永正3年)には北条早雲が松平方の西三河の岩津城を攻撃した際に、四方鉄砲を放つとある。備前でも宇喜多直家が三村家親の暗殺、明善寺合戦で鉄砲隊を組織した。この鉄砲は備前福岡の阿部善定に命じ鉄砲を大量に買い入れさせた。善定の船は堺、西は北九州博多を往復して火薬とともに鉄砲を仕入れてきた。

永禄の変が永禄8年(1565年6月17日)、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀らの軍勢によって室町幕府第13代将軍足利義輝が京都二条御所に襲撃され、討死した事件が起こり無政府状態となっていた。

 堺への旅路で盗賊に会い荒木村重に助けられその道案内で堺に着く。今井宗久より鉄砲購入を約す。またこの時、教会で悩みから解かれ、後に入信することとなる。

 この頃を前回同様「備前軍記」より転記する。

『「宇喜多と根田の和睦の事並びに三村家親が備前へ侵入する事」

 文明(一四六九~一四八六)の初め、松田左近将監元成が、守護赤松に叛いて西備前を治めるようになって以後、松田氏は出雲の尼子氏と結び、代々浦上氏・宇喜多氏と戦塵の収まる暇もないほど合戦を繰り返してきた。

 しかし近年尼子氏が衰えたため、松田氏もまた勢力が衰えた。この形勢をみた直家は、松田左近将監に和議を申し入れた。松田は早速了承し、以後は浦上宗景の先鋒となり、左近将監自身天神山城へ出仕した。直家には二人の娘があったが、宗景の命令でその一人をこの左近将監に嫁がせ、他の一人を美作の三星城主後藤摂津守勝元の妻とした。

 また備中の成羽城主三村紀伊守家親は、年来毛利元就の摩下となって、伯耆の不動ヶ嶽や法性寺の城にあって、休む暇なく尼子勢と合戦に明け暮れていた。そのため自国の防衛が行き届かず、それに乗じて松田氏らがしばしば備中に兵を出して領地を侵犯した。

 しかし当時は尼子の勢力が衰え、僅かに出雲の富田城ひとつを維持するに過ぎなくなったから、三村家親は暫く本国に帰って領地を固め、松田氏を討ちたいと毛利元就に願った。元就もその願いを了承し、望みにまかせて備中へ帰した。

 さて宗親が備中へ戻ってみると、松田は宇喜多と和睦し、浦上宗景の摩下として備中進出を企いるという。このことを知った家親は、先手を取って備前に進出して岡山城を攻め、ついで舟山城(現岡山市原)を討ち、金光与次郎・須々木豊前らを降参させて備中へ引き揚げた。』

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