備前軍記4


NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第2回は、御着城主小寺 政職に仕え、父と共に龍野城主赤松と戦い戦功を上げた。この当時、信長は美濃の稲葉城を攻略していた。軍師竹中半兵衛は秀吉の知略に驚く。一方、官兵衛は、広峯神社の「おたつ」と恋仲であったが、室津の浦上清宗に嫁いだ夜、赤松に攻められた(1564年)。

備前でも松田、宇喜多など浦上との覇権が続いていた。「備前軍記」によると赤松政則の元服と備前国打ち入りの事(1462年)、松田左近将監が赤松家に叛く事(1483年)など続き、当時の合戦として次の記述がある。

『「浦上政宗父子が殺害され、ついで浦上清宗が殺害される事」

浦上宗景の兄の掃部助政宗は、播州室の城にあったが、生まれつき暗愚であったので、弟宗景に圧倒されて振るわなかった。

この政宗の嫡子を小次郎といった(一説には与四郎という)。小次郎は姫路城主黒田官兵衛の娘を妻に迎え、永禄七半(1564)正月11日婚礼を行った。その夜小塩の赤松晴政は、婚礼の騒ぎに乗じて忍びの者を放ち、政宗・小次郎を殺害させた。しかしその家臣の江見河原五郎らは、小次郎の弟三郎九郎清宗という者を擁立し、室の城を取り仕切っていた。

注 政宗の法名は実厳祐貴、小次郎の法名は寿盛という。

さて小次郎の妻に迎えた黒田官兵衛の娘を三郎九郎の妻とし、その間に一人の男児が生まれた。これが久松である。

ところが天神山城の浦上宗景が江見河原五郎をかたらい、清宗を討ち首級を差し出せば、恩賞に所領を与えようと利をもって誘った。 利に迷った江見河原五郎はこの誘いに乗り、永禄十年五月十八日の月待ちの夜、清宗を殺し、かれは天神山城へ遁走した。しかしかれは母親を室に残したため、母親は串刺しにされて殺された。その時の狂歌に、かれはかねて鼓の上手であったから、

三拍子そろひてけりな江見河原主うち親うち鼓さへうつ 三郎九郎清宗(法名を江月恵観という)の子久松は幼年であったから、室に住むことも出来ず小塩に移ったが、九歳のとき宇喜多直家の備前岡山へ迎えられたという。』

官兵衛は既に娘がいた事となる。永禄10年(1567年)頃、孝高は父・職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘の光(てる)を正室に迎え、姫路城代となった。

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