備前軍記3


今、北側 019 今、北側 022-1 今、北側 025 今村宮

NHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」が始まった。

官兵衛の祖父・重隆の代に黒田家は備前・福岡から姫路に移り、広峯神社の御師(おし)が配る神符(おふだ)とともに黒田家秘伝の目薬を売って財を蓄え、黒田家発展の基礎を築いた。天文15年11月29日(1546年12月22日)に万吉が生まれ、永禄2年(1559年)、母親を亡くし、文学に耽溺したと言われる幼少時代が放映された。

誕生当時、備前では宇喜多直家が、浮田大和を攻め砥石落城させ活躍が始まった。

戻って、富山城より金川城に本城を移した背景を推測する。

松田元国鎌倉幕府崩壊の直前、神奈川七曲山城より備前国伊福郷に転じて、鎌倉9代将軍守邦親王に奉仕し、その功により備前国守護に任ぜられた。富山城を築き、本拠地とした。別の説では松田盛朝が1221年承久の乱に髄兵し、その功によって鎌倉幕府より備前国に領地を賜ったとある。松田元澄1467年応仁の乱が起こると、東軍の赤松氏方に付き、西軍の山名氏を追い落とした功績により、赤松氏の被官となり、伊福郷の守護代に相当する地位に就いた。1483年頃備前国西部に確固たる勢力を築いた。松田元成松田元澄の子。相模松田家6代松田直頼の次男ともいわれている。尼子義久の娘を室とした。官途は左近将監。備前松田家中興の祖と称され、1480年居城を富山城から金川城に移した。吉井川を境にして浦上氏に対抗していた。山名俊豊と結んで主家赤松氏や浦上氏に対抗し、浦上則国拠る福岡城を攻略。攻撃してきた浦上氏を1483年福岡合戦に於いて撃破した。その後元成は浦上氏本拠三石城まで追撃をしたが、浦上則宗の反撃にあい自刃した。元成は妙国寺を建立し、元成、元勝、元隆の三代は熱心な日蓮宗不授不施派で、備前に日蓮宗を興降させたといわれる。

今村宮の旧社後録の「神田」の条つぎの通り。

神田、正親町院御宇平信長卿(注、織田信長)の時、西備前西野田庄城主能勢大和前司範光并屋久利(刺)斎宮介重雄、同州富山城主松田豊後守等一戦ノ刻、燈油料八段五畝範光ヨリ寄附也、然ルニ慶長六年羽柴中納言秋秀ヨリ被召上 今ニ今村ノ内。神子用ト云。

(利)刺の誤りあると調査結果判明

https://tsuboigenzaemon.wordpress.com/2012/05/16/%e8%a5%bf%e9%87%8e%e7%94%b0%e5%ba%84%e5%9f%8e/

土光家は備前松田家松田元成の弟、備前富山城主松田親秀の子孫である。備前松田家が宇喜多氏に滅亡させられた後、落ち武者となり、帰農した。土光姓に改姓したが、土光という姓は日蓮宗の経文の中から引用した苗字である。土光敏夫(元経済団体連合会会長臨時行政調査会会長)は岡山県御津郡大野村北長瀬村字辻(現在の岡山市北長瀬)に生まれた。熱心な日蓮宗の信者で、「メザシの土光さん」と親しまれ、質素な生活と率先垂範の行動は多くの人々に感動と勇気を与えた。土光本家は大野村村長を務め、今でも北長瀬表町の南野育成園で貢献している。

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