肥後熊本 1


歴史研究会の全国大会が肥後熊本であり初日講演、歓迎会があり、2、3日目は肥後熊本を史跡を案内いただきました。

講演は島津義昭先生(崇城大学芸術学部講師 元九州考古学会会長)が古代ロマンの宝庫くまもと」と稲葉継陽先生(熊本大学文学部付属永青文庫研究センター教授 副センター長)の「近代史研究の最前線-永青文庫細川家史料から-」がありました。

肥後熊本大会 第2日 見学会①

加藤・細川家が遺したもの

【水前寺成趣園】

細川家文書によると、熊本藩主初代忠利が、寛永13年(1636)に作事した「国府の御茶屋が始まりで、当時は露地と草庵風の数寄屋だけであったという。「水前寺」は御茶屋と同時に建立された寺で、豊州国羅漢寺の僧玄宅を迎えて開山とした。その後まもなく御茶屋は水前寺の所有となり「水前寺御茶屋」と呼ばれるようになった。

寛文5年(1665)、水前寺は無住となったため、御茶屋は寺地とともに熊本藩に引揚げられ、寛文10年(1670)に細川綱利により大規模な普請が行われた。作庭は茶道役萱野甚斎、二代目古市宗庵を中心に進められ、池辺の御茶屋「酔月亭」も作事された。この時期の普請が現在とほぼ同模の庭園として完成され、陶淵明の詩『帰去来辞』の一節「園日渉以成趣」からとって「成趣園」と名付けられた。

阿蘇伏流水の豊富な湧水を活かした桃山様式の回遊式庭園で、東海道五十三次を表したといわれており、綱利はここで水前寺十景(阿蘇白煙、龍田紅葉、瀬田山雪、国分晩鐘、前林梅花、飯田夕陽、岩泉清流、健宮杉風、水隈乱蛍、松間新月)を選んで、楽しんだという。

細川重賢の宝暦の改革でただ一つ残された酔月亭も、明治10年(1877)の西南戦争で焼失し一時荒廃するが、大正元年(1912)酔月亭の焼け跡に「古今伝授の間」が移築され、大正14年(1925)に通称を「水前寺公園」とし、昭和4年(1929)には国の名勝・史跡に指定。現在では、毎年8月に細川家歴代を祀るための御神事として薪能が行われ、春秋例大祭奉納行事として武田流流鏑馬等が催されている。P1010244 P1010245 P1010253

【五高記念館・化学実験場・赤門(熊本大学内)】

旧制第五高等学校の赤煉瓦の本館は明治22年8月に完成し、以来100年以上の風雪に耐えながら、今なお優美な姿を留め、平成5年より「熊本大学 五高記念館」として一般公開されている。

また、この校舎では、夏目漱石、小泉八雲、嘉納治五郎ら多くの優れた個性あふれる教師が教鞭をとり、またここから、池田勇人・佐藤栄作の二人の総理大臣をはじめとする多くの有為の人材が各界に送り出されてきた。 五高記念館には、五高時代の教育資料が展示されている。第2室には、第3代校長嘉納治五郎が学生の希望によって勝海舟に懇願して揮毫してもらった勝海舟の「入神致用」の扁額がある。柔剣道場の剣道部の正面に掲げられていた。

第3室には、夏目漱石の開校記念式の祝辞がある。明治29年(1896)4月13日、第五高等学校の英語教師として赴任する。明治30年10月10日、教員総代として教授夏目金之助が読んだ祝辞の一節「夫れ教育は建国の基礎にして、子弟の和熟は育英の大本たり」の文章は今なお教育についての高い評価を受けている。

第4室は、復元教室で、五高時代の教室がそのままに保存してある。漱石や八雲がここで教えていたことが実感できる場所である。P1010300 P1010301 P1010303

【泰勝寺跡】国指定史跡

細川家菩提寺跡。寛永9年(1632)の細川氏肥後入国後、蕃主忠利の父忠興(三斎)は八代城に入って、小倉に建てた父藤孝((幽斎)祀る泰勝院を八代に移建した。熊本城主となった忠利も、寛永14年立田山山麓に、祖父藤孝と祖母麝香の方および母玉子(ガラシャ)を祀る寺を建立して泰勝院と名付けた。泰勝院は藤孝の院号である。

忠利の死後、その子光尚は京都妙心寺(臨済宗)の大淵和尚を招いて住職とし、正保3年(1646)に忠興が亡くなると、玉子の隣にその墓を営んだ。藤孝夫妻、忠興夫妻の廟が並んだので、現在これを“四つ御廟”と呼び習わしている。光尚はその後、八代泰勝院を廃して立田にあわせ、瑞雲山泰勝院と改めたが、綱利の時山号をさらに龍田山と改称した。忠利以後9代治年までの藩主は妙解寺に葬られたが、10代斉茲と11代斉樹は再び泰勝寺に墓が建てられた。

明治初年、「神仏分離令」が出されたとき、細川家は妙解寺、泰勝寺を廃して別邸とし、秦勝寺本堂を神式の祠堂に改めた。

昭和30年(1955)熊本市は細川家より庭園部分を借り受け、立田自然公園として一般に開放している。庭園内の池と山林は調和して幽邃の景観をつくり、三斎好みの茶室仰松軒、苔園、梅晦園も見事である。また、伝宮本武蔵供養塔や、戦国期の板碑もある。

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【熊本城】国指定特別史跡

加藤清正が幾多の実戦経験を活かし、熊本市の中心茶臼山に築いた近世城郭で、日本三名城の一つに数えられている。

それ以前にもこの茶臼山―帯には中世城が存在し、記録に残る最古の城は、応仁年間 (1467~1469)に茶臼山の東端に築かれた千葉城で、城主は菊地一族の出田秀信。次に明応5年(1496)に鹿子木親員、別名鹿子寂心が茶臼山西南麓に「隈本城」を築いた。城の規模や場所は判然としないが、現在の古城と呼ばれる一帯にあったようである。その後九州も菊池氏、大友氏、島津氏、龍造寺氏などが争う戦乱の時代を迎え、隈本城には天文19年(1550)大友氏の配下、城親冬が入ることとなる。

天正15年(1587)豊臣秀吉の九州平定により、佐々成政が領主として肥後に入国するも、国衆一揆が起こり、成政は切腹。翌年肥後は北半部宇分を加藤清正に、南半分を小西行長に分け与えられることになり、清正が隈本城に入り、慶長12年(1607)に熊本城が完成するまで隈本城を本拠としていた。

清正は、完成した城と町を「熊本」と改める。茶臼山は、熊本平野に北から突出した京町台地先端の,標高50mの丘陵である。東には坪井川,西には井芹川の谷が一面の湿地帯をつくり、南には沼沢湿地が広がり,その先には両川を合わせた白川が西南へ流れている。清正はその白川を外堀に見立てて,茶臼山の南麓沿いに坪井川の流路を移し,これを井芹川と合流させて,城の内堀に代用した。城下町は、白川の右岸に設け、そのなかで坪井川と井芹川の内懐に新町を開いた。茶臼山は東高西低の地形で、東、南、北の三方は断崖となっている。そこで西南側の崖下には湧水をたたえた深堀をめぐらして、新町との間を区切り、北の京町台地との間の地峡を掘り切って一条の馬背道だけを残し北側の守りを固めた。台地の最西端の古京町、漆畑、段山は防衛の第一線で、次は一段高い宮内の藤崎台、第三線は二の丸、第四線で初めて本丸の一角西出丸に達し、最後に東端の最高地に達する。熊本城が西向きの城と呼ばれるのはこのためである。城の防衛上の配慮は築城から270年後の西南戦争で実証され、名城の名をさらに高めた。

加藤家は清正の子忠広のとき、寛永9年(1632)に改易され、小倉から細川忠利が領主なって入国した。忠利は国入りの行列の先頭には清正の位牌を掲げ、入城する際は大手門で深々と額ずき、天守に登って清正の眠る本妙寺に向かい頭をさげたと伝られている。

以後、細川家が11代にわたって保った城となるのである。

明治時代になると、軍の「熊本鎮台」が置かれたため、西南戦争の戦いの場となり、原因不明の出火で天守閣や本丸御殿などが焼失してしまう。しかし前述の通り、50余日間の籠城に耐え、難攻不落の堅固な造りであることを知らしめることにもなった。

西南戦争でも焼けずに残った宇土櫓は、昭和25年(1950)に国指定重要文化財に指定。昭和30年(1955)、熊本城跡は国の特別史跡となる。

昭和35年(1960)には、古写真などをもとに外観をまったく同じに大小天守閣を再現し、往時の天守閣が蘇った。その後、数奇屋丸二階御広間などを復元、そして平成20年(2008)4月、行政の場・歴代の肥後藩主の対面所(会見の場)として使われてきた「本丸御殿大広間」が絵図や文献、明治期の古写真などの史料をもとに復元され、熊本城にさらなる魅力が加わった。

国指定重要文化財:宇土櫓、源之進櫓、四間櫓、十四間櫓、七間櫓、田子櫓、東十八間櫓

北十八間櫓、五間櫓、不開門、平櫓、監物櫓(新堀櫓)長塀

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【本妙寺】

加藤家代々の菩提寺で日蓮宗の名刹。天正13年 (1585)に加藤清正が父清忠の菩提寺として大坂に建立し、本妙寺と号す。肥後入国後、熊本城内に移し、清正の逝去後は遺言状により現在の中尾山中腹に移建され、廟所を造営。清正の法号により浄池廟(じょうちびょう)と号した。

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【霊巌洞】

宮本武蔵が熊本に来だのは寛永17年(1640)、堪忍分の合力米三百石の客分待遇で、千葉城跡に居宅を与えられ、細川氏三代忠利に仕えた。以後約5年間の晩年を熊本で過ごし、「兵法三十五ヶ條』『五輪書』『独行道』などを著し、茶、禅、書画三昧の日々を送った。

法名二天道楽居士。春山和尚の引導で飽田郡五町手永弓削の地(現熊本市・武蔵塚)に葬られたという。これは、恩顧を被った細川藩主の参勤交代を草葉の陰から拝したいという武蔵の願いからといわれている。

武蔵はまた日本水墨画史上に独自な位置を占める画人でもある。

「枯木鳴鵙図」「鵜図」「蘆雁図」「達磨図」などの名品の多くは、熊本におけ晩年作思われるが、特定の流派の技法にとらわれることなく、自在に描かれたその画境には武人画家の鋭い気迫がうかがえる。

 

武蔵が死の直前まで一人きりでこもり、「五輪書」を書き 上げた霊厳洞は、金峰山西の岩殿山・雲巌禅寺の中にある。

この寺は室町時代の始頭に中国の僧東陵(とうりょう)に よって建てられたもので、武蔵はここでなんども座禅を組 み、武士道に通じる禅の修行を行なったとされる。霊巌洞での修行のきっかけは忠利の死への深い失望であったようだが、武蔵がここで著述した「五輪書」は武蔵の二天一流兵法の極意書であり、日本だけでなく海外でも多くの人に広く読まれている。また、武蔵の臨終(正保2年-1645)はこの霊巌洞であったという説と千葉城であったという2つの説が残されている。(雲巌禅寺境内は県指定史跡)P1010386 P1010387 P1010393 P1010397 P1010401 P1010408 P1010417 P1010422

 

 

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