うどんツアー&松田元脩の旅路


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マリンライナーで坂出駅に玉松会の会長さんが迎えに来てくださいました。玉松会は、御津の金川城が玉松城と呼ばれていたことに由来します。宇喜多氏に滅ぼされ、富山城と共に落城し、讃岐の詫間に逃れ讃岐松田氏として地域に貢献している。

坂出駅で概略資料をどっさり頂き、15分ほど説明頂きました。

少し走って早速、坂出の「山下うどん」でかき揚げうどんを食べました。

続けて「がもううどん」に寄りました。ここではきつねうどんを食べました。少し細く粘りのある麺でした。

海岸線を東に向けて走ると瀬戸大橋が下津井より宇多津まで一直線に橋が一望でき圧巻でした。大型タンカーも再々行き交い快晴の天候にも恵まれました。松田氏は備前法華を流布し235年間13代西備前を統治した。波乱万丈の戦国の世、対峙する宇喜多直家の娘を松田氏13代元賢に嫁がし和睦をなす。永祿11年直家の謀略に依り難攻不落な玉松城はあえなく落城。元賢は討ち死にし、弟の元脩は備中方面に落ち延び、毛利家に属す。その後、備中高松城水攻め、朝鮮出兵に参戦し、お家再興に尽力す。直家の嫡子、秀家は父直家が松田家に対する不義を詫びるため児島の小串城800石を与える。

慶長5年(1600)9月関ヶ原の合戦で西軍は敗れ元脩は翌月の10月に小串城を捨て、一族郎党25名で直島に逃れる。丸二年間厳しい残党狩りの中、慶長7年10月に高松城主、生駒一正を頼り讃岐に渡海する。生駒氏の世を憚り寂れた乃生(のう)港に上陸、高松市亀水(たるみ)を経て忍び、植松左内備前守の世話になり香西藤尾城堀ノ内に住す。亀水には松田氏と同じ時代に備前より、南原十左衛門今時はこの地に落ち延びている。現在南原家は50軒ほどあり、法華宗に熱心で毎月お看経を営み一族は強く結ばれている。タレントの南原清隆さんの故郷で有名である。元脩の孫、松田甚右衛門尉元明のとき、生駒藩が詫間村の新田と塩田開発を命じられ、弟傳内を香西に残し詫間に移住している。藤尾城は現在宇佐神社があり本殿の西側に白峯神社があり松田左近将監元親の木像が祀られ、南東側の麓には竈神社(へっつい)には郎党25名の五輪墓がある。

藤尾城の次に高松鶴市の旧松田家(傳内)跡を訪ねる、この家は五ヶ村の大庄屋で松田孫三郎は伊能忠敬の測量の道案内役を務めるなど代々地域に貢献している。

高松をあとに高速道で、まんのう町の塩入温泉に向かう、さぬきの秘湯とよばれ、地下500mから湧出する天然温泉は、療養泉認定の良質の温泉です。大地から豊かな恵みをうけて湯船にゆったりと寛げました。ナトリウム-炭酸水素塩冷鉱泉(アルカリ性低張性鉱泉)で肌がツルツルになりました。

それから琴平に向かい、当日は「お頭人(とうにん)さん」祭り、金比羅宮の大祭で賑わってました。大神様は大観衆の中を「お頭人さん」と呼ばれる乗馬の幼い男の子二人とお駕篭の女の子二人に導かれておいでになる。だから、このお下がりを地元の人は「お頭人さん」と親しみを込めて呼んでいるのだと言う。邪心のない、純な子供たちだからこそ、神を導く資格があるという同宮ならではのしきたりがあるようである。偶然に大祭に遭遇し幸せであった。この琴平には松田氏に縁の豪商、酒造業の金川屋(臨川亭)があった。名字は菅氏で、菅暮牛(金川屋左平太)俳諧に精通している。金川屋の跡は橋本旅館になっている。讃岐落行の際には

家臣の冨山氏も松田氏と同じく高松に弟を残し詫間に来て共に開発を行っている。高松冨山氏は讃岐随一豪商(三倉屋)を営み、十一代栄えた。松田氏、冨山氏、菅氏の旦那寺は丸亀の妙法寺である。当寺の過去帳の中にその歴史を記されている。与謝蕪村が三倉屋、妙法寺、金川屋に逗留し俳諧に興じている。三者は法華宗に熱く交わっていた。琴平の次に善通寺の「とみやうどん」に行き、こしのある太めの肉うどんを食べた、柚子を絞ったエキスをうどんにかけたのが格別旨かった。そして松田氏安住の地、詫間に向かう、途中に冨山安兵衛が創建した津島神社を車窓より参拝した。津島神社は子供の神さんで大祭には臨時の津島の宮駅ができ、二日間で五万人が詣でる。そしていよいよ詫間に入る、松田甚右衛門尉元明が藩の命を請け開発した塩田は現在は工場とゴルフ場になっている。松田氏は新田を干拓し大地主になり大庄屋を務め、また塩田開発で塩田王になり半農半漁の寂れた村の産業基盤を構築し繁栄の基礎を築いた。近代松田氏は代議士、県会議員議長、村長、町長、三越社長などを輩出している。

松田屋敷は間口が450mもあり全盛期が偲ばれる。

冨山城の子孫の墓は詫間城にあり、この墓をみると一族が結束していることを表している。そして次は浦島太郎伝説地の荘内半島に行き紫雲出山に頂上辺りまで車で登る。360度の眺望に感激す。展望台から夕日を観賞、少し雲がかかり達磨夕日は望めなかったが、美味しい、さぬきうどんと瀬戸内海の景色に心身ともに爽やかで秋を堪能する素晴らしい一日でありました。

浦島太郎伝説地の三豊市詫間町にある『荘内半島』です。荘内半島にある大浜・積・生里・箱・香田・粟島・志々島を総称し『浦島』と呼ばれていたからです。これは室町幕府第3代将軍足利義満(1358~1408)が1389年厳島神社(広島)参詣の折、瀬戸内航行の要所にある三崎神社(生里)を参拝した時 「へだてゆ>>く 八重の汐路の浦島や 箱の三崎の名こそしるけれ」と歌を詠んでいる。

松田会長の分単位の案内に同行5名は感謝感激です。

矢坂山 ツツジ祭2013 2013年4月16日のブログを参照願います。

 

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