襄と八重11 勝清の渡航の企て1


板倉勝静は、備中松山藩第7代藩主。桑名藩主松平定永の第8子で、奥州白河城で生まれた。1812年(天保13)備中松山藩主板倉勝職の養嗣子となり、1849(嘉永2)襲封した。また、陽明学者山田方谷に出会い、元締役兼吟味役としてその才を用いた。 安政の大獄では、寛典を主張したため大老井伊直弼により奏者番兼寺社奉行を罷免された。
1862年(文久2)老中となり幕政を担当したが、内外問題を抱え、幕議との意見の対立をみて辞職を請うた。1864年(元治元)罷免されたが、同年長州征伐で凱旋し、翌年再び老中に復した。 将軍徳川慶喜の信任厚く、慶応の藩政改革にあたってはよく補佐し、大政奉還にあたっては不満ながらも実現に種々努力した。
備中松山藩の藩主板倉勝静は、幕末、筆頭老中として将軍徳川慶喜を補佐して薩長諸藩と戦ってきた。鳥羽伏見の戦いに敗れたあと、慶喜とともに江戸に逃れた。 
領地の備中松山藩は、藩老山田方谷が恭順の方針をつらぬき、鳥羽伏見戦のとき在阪の部隊の責任をとり自刃した熊田恰以外は一名の犠牲者も出さずに藩領を守っていた。
 勝静と長男の勝全は藩國に帰らず、日光に滞在していたところ、新政府軍が進撃してきて捕らえられ宇都宮城に拘束されていた。ところが、幕府脱走軍の攻撃で宇都宮城が落城すると脱出して東北方面に逃れた。
5月白石で、新政府軍に対抗する奥羽越列藩同盟が成立したとき、勝静はこの会議に参加し、新政府軍に敵対する姿勢を示した。
その後、会津が落城すると榎本艦隊に同乗して函館まで逃亡した。この際にも家臣が蝦夷地行きを思い止まるよう説得したが、「徳川家に殉ずる」と云って聞かなかった。そして、函館の榎本政権に加わっていた。
国元の松山藩はすでに恭順しており、藩主が新政府軍に刃向かっていることは新政府に対して説明のつかないことであり、藩の存立にかかわる大問題であった。
藩としては、勝静の逃亡をいつまでも放っておくわけにいかず、藩主父子を連れ戻す必要があった。しかし新政府軍の監視下にあったので、明治2年7月岡山藩を通して藩主探索の嘆願書を提出、許可が下りると、早速、3人の藩士が任命され商人に変装して東北地方に向かって旅立った。
東北、北海道と逃走する藩主を追っていた家臣たちは、函館に潜入。脱出すべく藩主を説得したがやはり勝静は応じなかった。
やむを得ずいったん東京に戻り、藩首脳と協議の上、奇計をもって藩主の拉致を計画し、プロシャ商船の船長に1万ドルで救出を依頼した。勝静と面識のある船長ウェーウは懇親したいとその船中に勝静らを招き、そのまま出帆。その後、船を乗り継いで東京に帰ってきた。 一万ドルの大金が積まれた。藩倉の大金を右から左へと一瞬の内に動かせるのは方谷しかいない。
松山藩は、即刻、外遊させる予定であったが方針が変わり、勝静は自訴。8月死罪一等を減ぜられ安中藩への永預けに処せられた。備中松山藩も安泰となった。
勝静の自訴を知った山田方谷は「これは吉報である」と言ったという。藩士全員の偽らざる思いだったであろう。
 勝静の函館脱出はそう簡単なことではなかったようである。

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