襄と八重10 離日


敬幹(襄)は、函館でロシア領事館付司祭ニコライの日本語教師となってその家に住みこみ、渡航の機会をうかがうことになり、密かに塩田もこれを助けていた。敬幹は、菅沼を通して箱館神明社の宮司沢辺数馬と知り合い、さらに、その沢辺の紹介で、築島のイギリス人アレキサンダー・ポーターの商館に勤めていた日本人書記富土屋宇之吉(のち福士成豊)と知り合い、7月2日(5月24日)、彼に海外渡航の計画を打ち明けた。
 7月19日(6月12日)、敬幹は宇之吉の紹介で、アメリカ船「ベルリン号」の船長ウィリアム・T・セーヴォリーと会い、海外渡航の志を語り、乗船の約束を取り付けることに成功する。
 そして二日後の7月21日(6月14)十四日夜、敬幹は一通の置き手紙を残して、ニコライの家を出た。 宇之吉の家から荷物を背負い、裏口から出て、岸に繋いであった小舟に乗った。宇之吉が舵を握り、敬幹は頬かむりをして伏していた。宇之吉は、三日間、小舟を漕ぐ練習をしていた。
 「ベルリン号」に乗ると、敬幹はすぐに船室内の倉庫に入れられ、外から錠を掛けられ、翌朝、税関の官吏が下船するまで待機させられていた。
元治元年(1864)7月17日(6月10日)正午、「ベルリン号」は箱館を出帆した。「ベルリン号」は、日本の東海岸沿いを南下。房総沖、遠州灘を経由して、上海を目指した。 敬幹は渡航費を出すだけの所持金を持っていないので、船長室付きの給仕となった。
「ベルリン号」が上海に着いたのは、7月1日朝だった。 9日、「ベルリン号」は日本に帰らなければならないため、セーヴォリー船長が、アメリカ船「ワイルドーロヅアー号」のホーレス・SIアイラー船長を紹介してくれ、同船に乗船することになった。 敬幹は、テイラー船長に長刀を譲ったうえで、船長付きの給仕にしてもらい、アメリカ本土まで連れて行ってもらうことになった。
ちなみに、幕末の密航留学生の数は犬塚孝明「明治維新対外関係史研究」(吉川弘文館、1987)によると、1862年から1865年までで53人もいる。
また、1860年2月9日(安政7年1月18日)、日米修好通商条約の批准書交換のため、外国奉行(神奈川奉行兼任)の新見正興(しんみ・まさおき)を正使とする使節が、米艦ポーハタン号に乗船してアメリカに向かった(いわゆる「万延元年遣米使節」77名)。
なお、ポーハタン号の護衛艦として共にアメリカへ渡った咸臨丸(艦長は勝海舟96名)は、遣米使節より1日遅れて浦賀を出航、ポーハタン号がハワイに寄港する間も単独で航海を続け、ポーハタン号より12日前にサンフランシスコに入港した。
さらに、幕府の遣欧使節団38名は、1862年1月から翌年にかけて、当時日本と修好通商条約を結んでいたヨーロッパの6カ国(イギリス、フランス、オランダ、プロイセン、ロシア、ポルトガル)に派遣されました。派遣当時の年号にちなんで「文久遣欧使節団」とも呼ばれている。この中に、箕作阮甫(津山藩医、対米露交渉)に菊池家より婿に入った箕作秋坪(三叉学舎創設)もいた。

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